頭上のステンドグラスが、きらびやかな光で華やかな影を創り出していた。潔癖なまでに白い壁には、ぎこちない笑みを張り付けた司祭と、手を打って喜ぶ王の姿があった。
私は今、この上なく憂鬱だった。幼少期の暴風雨、体に張り付くローブの裾を踏んで泥水に顔から突っ込んだ挙句、王より賜りし傘を風に攫われてひしゃげさせたときでも、散々泣き腫らしたが、これほど憂鬱な気分ではなかっただろう。いや、いっそ憎いとでも言うべきか。私はただもう呆然として、頭がまともに働かない状況にあった。
どこから説明するべきだろう。私とイーノックが長い仲違いに終止符を打ち、再び愛の営みを励行する関係に戻った日から、話始めるべきだろうか。あれから二ヵ月経った今もなお、私はあの日の出来事を詳細に覚えている。
あれは嵐の激しい日のことで、猛烈な雨粒が窓を叩き、その外では木々がしなり呻き声を上げていた。本来ならば私を気鬱にするような天候も、隣でまどろむイーノックの姿が幸せな姿に変えてくれた。場所を問わず、私の身体にはイーノックの所有印が刻まれていた。私はこれ以上ない幸福にうっとりと目を細め、私を抱き込んで眠るイーノックの首筋に仕返しを施した。最初は難でしかなかった年若さも、こうなれば、愛すべき長所に他ならず、私は掛け替えなき年下の夫に心奪われていた。
幸せな疲労が心に沁み渡るまで繰り広げられた情交は、羞恥を煽るものだった。それまでと違い、感情を伴う初めての交歓は、私の心身を快楽で千々に翻弄した。愛するものとの愛の営みが、これほど喜びに満ちたものだとは。私はかつてないほど感じ入り、大いにイーノックを喜ばせることとなった。まったく、恥ずかしい限りだ。だが、イーノックは胸打たれた様子で、赤く潤ませた目で私に笑いかけ、あちこちに、全身場所を問わずキスを降り注いだ。私は羞恥に耳まで赤くしつつも、イーノックからの真摯な愛情に心奪われ、更に感じることしか出来なかった。
寓話や童話の類は、教訓を織り交ぜつつも、めでたしめでたしでピリオドを打たれるものである。新たな王とその花嫁は幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし。そう終わることが出来たならば、どれだけ本望だったことか。
しかし、実際はそう巧くいかないのが、現実というものである。私はイーノックと幸せのうちに終わることが出来なかった。何故か?理由は簡単だ。私は、愛する男の子を孕まなかったのだ。
私の傍らには新しい夫、サリエルの姿があった。彼もまた、イーノック同様、王の庶子である。ただ、イーノックと違うところは、侯爵家に生まれたために権力を持ち、また父譲りの好色ぶりを発揮してあちこちに妾を所有している点だろうか。
愛を声高に謳うサリエルは、予てから強い興味を私に示していた。だから、私は彼を新しい夫に選んだ。私が拒む限り、今まで同様、サリエルが手を出して来ないことは解りきっていた。だが、どこか飄々とした男の姿は、私を安堵させることはあっても、深い憂いを晴らす助けにはならなかった。
サリエルの慈愛に満ちた、触れるだけのキスを甘んじて受け入れながら、私はイーノックのことを考えていた。彼の、大きな口元を綻ばせる独特な笑み、芯から熱くなる貪欲なキス。優しいだけの優柔不断なサリエルとは違う、イーノックの強かな傲慢さ。
隣にイーノックが居てくれたら、どれだけ心弾むことだろう。これが、イーノックの結婚兼就任式であったら、どれだけ、嬉しかったことだろう。私は誓約が終わるなり口元を拭うと、足早に自室へ引き払った。イーノックに会いたくて堪らなかった。だが、私が前夫と会うことは許されていなかったし、その可能性の芽を摘むべく、王は彼を都から叩き出したという。会うことが叶わぬなら、せめて、イーノックの思い出に浸りたかった。
やつ当たりだと重々承知しているが、憐憫の眼差しを向けて来るサリエルが腹立たしくてならない。勢い良く廊下を駆けながら、イーノックのことを思う。
何故、私はこんなにも弱くなった。
二人のものだった寝室に涙が込み上げた。馬鹿な。私はこれほど涙もろくなかったはずだ。込み上げる嗚咽を殺し、鼻を鳴らして、面を上げた。サリエルがやって来るまでに、扉が開けないように細工しておかないといけない。敬虔な信者であるサリエルは、両性具有である私を崇めていたために、快く仮面夫婦に甘んじてくれていたが、元々好色な男である。例え僅かなものだとしも、隙を見せたくはない。ゆるりと力なく扉へ向かう私の目が、扉の脇に立て掛けられた鏡で止まった。
全身を映すことの出来るそれは、私のもたらす権力に与ろうとした王の嫡子が送って寄越したもので、私は意趣返しで、別の男との交わりを愉しむために用いたのだった。イーノックとの楽しみのために。
曇り一つない鏡面は、それがどれだけ価値あるものか一目で知れるほど、くっきりと私を映しだしている。私は動揺した。そこには、涙こそ流していないものの、明らかに泣いている男の姿があった。違う、こんなのは私じゃない。
力任せに腕を振るう。大きな音を立てて、鏡は砕け散った。
はは、と力無い笑い声が咽喉から漏れた。それを、我ながら他人事のように耳にしていた。視界の片隅に血の赤が映り、私は自分が怪我をしたらしいことを薄ら認識した。
「もう、嫌だ…イーノック。」
私は顔を両手で覆った。涙は流れない。どうして泣く必要がある。
壊れたものは戻らない、ひび割れてしまった鏡のように。
それから、私の労苦が始まった。この時期は、生理中の機嫌の悪さが常に付き纏う感覚で、私は歌を忘れた金糸鳥のように機嫌を低迷させ、ささくれ立っていた。
一体、笑みとはどのような代物だったろう。国事ともなれば、両性具有の私は常に王の傍らに侍る運命にあった。だが、王の隣に控える間も、祝詞を捧げる際も、私は憂いを帯びた目でステンドグラス越しに南を眺めていた。そろそろ渡り鳥の時期だ。彼らと共に、私はイーノックの元へ飛び去りたかった。それが、この宮廷からの追放を意味するのでも、良い。私の存在意義の否定でも良い。
知らず溜め息をこぼす私を、サリエルが労わり、肩に手を添えて来る。私は虚ろな眼差しを向けてから、顔を背けた。サリエルは悪くない、これは私のエゴだ。そんなことは端から解り切っていたが、私には他に為す術がなかった。飄々として感情が読めないことで有名だった私が、それほど感情を高ぶらせあからさまにする日が来ようとは。私は自嘲の笑みを浮かべ、再び南へと視線を戻した。
その拍子に、解れた髪が一房、私の青白く血の気を失くした頬にかかった。神の寵愛を賜りし両性具有として、性別を不透明にさせる義務から伸ばしている髪だった。腰まで届くそれは、イーノックが美しいと褒めちぎり、いとおしんでくれた代物だ。
だが、私の隣にイーノックの姿はない。
私は強く唇を噛み締め、愛する者の不在を耐え忍んでいた。
そんな私の躁鬱や癇癪に、サリエルは驚くべき辛抱強さで付き合ってくれた。流石は愛を信条に掲げる男である。彼の立場が私であったら、私は早々に匙を投げていたことだろう。何せ、他に妾は沢山いるのだ。こんな名ばかりの、中途半端な身体を持つ正妻に翻弄される必要など、ないではないか。だが、私が感情を爆発させても、サリエルは困ったように肩を竦めるだけで、何も咎めようとしなかった。
「イーノックに会いたい。イーノックに会いたい。イーノックに会いたい。」
うわ言のように繰り返す私の背を撫ぜながら、サリエルが不思議そうに首を傾げて問いかける。
「なら、会いに行けば良いじゃないですか。愛は何物よりも、王よりも強い。俺に言わせてもらえれば、それは確かですよ。愛する二人を引き裂くなんて、運命にすら出来ないことです。」
私とサリエルの違いは、そこだろう。サリエルは敬虔な信者だが、何者にも譲ることの出来ない確たる信念を持っている。対する私はといえば、芯から宗教に染まり切って、それがどれだけ馬鹿げたことであろうと王の命に背くことが出来ない。だから、あれだけ必死になって夫候補を絞り、こうして、途方に暮れる羽目になる。
「王には、イーノックを愛していることを言ってみたのですか?今からでも遅くはない。言ってみたらどうです?」
項垂れる私に、サリエルがお決まりの台詞を吐くので、引き攣れた笑い声が漏れた。それを、私が試さなかったと思うのか。提言なら、イーノックとの子供が望めそうにない時点で既に為し、断られていた。一度拒まれた案件を再び持ち込むほど、私は愚かではない。そう力無く呟くと、サリエルは戸惑いがちに目を瞬かせながら震える背を撫で続け、私が眠りに就くまで手を握っていてくれた。彼は何か言いたげだったが、決して、口にすることはなかった。
私の精神は瓦解寸前で、辛うじて、保持されている状態に過ぎなかった。何時の間に私の中で、イーノックはこれほどまでに大きな存在になっていたのだろう。半年余りの間、彼は私の前に一ヵ月の内五日しか姿を見せない生活を続けていたが、あの頃はイーノックに会えないからと言っても、じれったくなりこそすれ、情緒不安定にはならなかった。
それでも、一ヵ月はどうにか持ちこたえることが出来た。
二ヵ月目で、深刻なガタが来た。
三ヵ月目、もう耐え切れなかった。
記念すべき百日目で、私は王へ直談判に向かった。王に意見するなど愚か者のすることだと解っていたが、もう、どうにもならなかった。イーノックに会いたい、イーノックの声が聞きたい、イーノックに愛されたい。そのためならば額ずいて乞う覚悟で、私は衛兵の制止を振り切り、王の私室へ向かった。
王は私の来訪を予期していなかったらしい。微かに慌てた様子で、傍に控えていた者を隣室へと追いやった。紺色の外套が翻った。好色な王のことだ。まだ正体を知られるわけにはいかない愛人でも囲ったのだろう。この反応からするに、政敵の正妻辺りかもしれない。だが、そんなことはどうでも良いことだ。私は隣室へ胡乱な一瞥をくれると、きっと王を睨みつけた。
趣味の悪い部屋だった。白と深緑で統一された壁紙は、至るところに金粉が塗してある。これを豪勢と表現する者もいるのだろうが、生憎、私は共感出来なかった。とにかく、気分が悪かった。早くイーノックと会いたくて堪らない。
「…王、頼みがあります。」
自然、腹の底から絞り出すような呻き声になる私に、王は片眉を上げてみせた。私は怒りを募らせながら、王に懇願した。
「イーノックを宮廷に連れ戻して頂けないでしょうか?彼を失ってから、全てが、褪せて見えます。私にはイーノックが必要なのです。」
声に出すことでどれだけ自分がイーノックに飢えているのか理解して、私は愕然とした。私には、イーノックが必要だ。だが、王は不機嫌そうに頭を振って、私の懇願を却下した。
「あいつはお前に子を授けなかった。ルシフェル、お前も解っているはずだろう。私はお前を一年以内に孕ませることの出来る男を、王に望んだのだ。それは、あいつではない。」
苛立たしげに、こちらを諭すように話す王の態度に、私の頬はひくりと引き攣った。幾らか憤怒が堪忍袋の緒を焼き切っていたにしても、まだ、耐えることが出来る範囲だった。この時点では、私にとって、王の権力は揺るぎないものだった。
「…王、どうかお願いですから、」
「お前ときたら、サリエルを婿にしてもまったく興味を示していないそうだな。あいつは私に似て、とても性欲旺盛な男だ。もう余所に子を作っているから、種がないということもない。あいつで満足したらどうだ。」
「……王、私の話を、」
苛立ちのあまり、関節が白くなるほど強く握り締めた拳が、打ち震えていた。だが、息子同様人の話を聞かない王は続ける。
「それでも嫌だというならば、いっそ、私の嫁にでもなるか?」
我ながら大人げない対応だとは解っている。だが、言い訳させてもらえれば、私も単なる二十一歳の青二才なのだ。そこまで、人が出来ていない。
私は衝動に駆られて、傍らにあった果物ナイフを手に取った。勿論、林檎を剥いてやるような気分ではない。王もそれを察したのか、珍しく顔を青くしてみせた。
私はもう何もかもが嫌だった。こんなことならば、他の男に嫁がされる前にさっさと結論を出していれば良かったのだ。そうすれば、イーノックと百日も離れる必要はなかっただろうから。
私はナイフの刃を押し当てると、迷わず、横に引いた。小さな刃でも、それなりに力を込めれば、案外切れるものらしい。ばさりと音を立てて、三つ編みが落ちた。その、私が両性具有の御子たる象徴を蔑むように見下ろし、私は王に吐き捨てて宣言した。
「こんな体のせいでイーノックと結ばれないというなら、国教なんざ、もう知ったことか!あなたの命も、もう聞く気になれない!私は私の好きにさせてもらう!私は、」
迸る感情に震える手から、果物ナイフが滑り落ちた。不揃いな髪が頬に掛かるし、首がちくちくする。
「私はっ、」
惨めさに打ちひしがれる私の眦から、涙が零れ落ちた。それは止まる気配もなく、次々と溢れて来る。鼻を啜って、嗚咽交じりに私は喚いた。
「私は、イーノックを愛しているんだ!こんな寂しさ、もう耐え切れない…っ!」
居心地の悪い沈黙が続いた。時折聞こえる啜り泣きは、私のものだろう。私は自分が滑稽でならなかった。散々我慢を重ねておいて、イーノックすら犠牲にしておいて、最終的に王すら撥ね退ける自分の厚かましさときたら、嗤わずしてどうする。
震える肩にそっと手をかけられる。それが王だとしても、王に呼びつけられたサリエルのものだとしても関係ない。暫く独りきりになりたかった私は、その手を素っ気なく肩から払い落した。
再び、肩に手をかけられた。流石に空気を読め、と怒りを爆発させた私は後背を睨みつけて、言葉を失くした。見覚えのある金髪に、精悍な面立ち。大きな口元を綻ばせる、その独特な笑み。印象的な、紺色の外套。
「イーノック…?」
恐る恐る触れてみる。夢じゃない。私はイーノックに縋りついて、泣いた。何故ここにいるのか。当然浮かぶべき疑問が頭を過ぎったが、それ以上に、再会の喜びが勝った。
「きみに会いたかった、抱かれたかった…!」
「私もだ、ルシフェル。私も、あなたが恋しくて堪らなかった。だが、王にあなたとの仲を認めてもらうために、あなたが私を愛していると口にするまで、会うことが禁じられていて…。」
口惜しそうに渋面を見せてから、イーノックが私に芯から熱くなる貪欲なキスをしてきた。彼は王と、何をしていたって?私との仲を認めてもらう?それは結構。しかし、そのために、私が躁鬱と癇癪を繰り返しているのすら見過ごして、こんな近場で隠れて暮らしていたというのか?もしかして、あれほど熱心に王への愛の告白を薦めていたサリエルも内通者なのか?おい。
何だか巧いこと流された気がしないでもないが、まったく気にならなかった。この話題を蒸し返した私が更なる醜態を晒すのは四時間後のことで、このときは、久しぶりのキスに身心を蕩かされていた。
「…こんなにあなたが悲しんでいると知っていれば、会いに来たのに。」
イーノックが熱っぽい眼差しで、私の顔を覗き込んでくる。散々泣き喚いた私の顔は、きっと見られぬほど不細工なことだろう。それは解るものの、どうしても顔を背ける気になれず、私は締まりのない笑みを浮かべて、キスを強請った。馴染み深いイーノックの肌に手を這わせながら、性急に服を脱がした。
そこで、邪魔が入った。
「あー、ごほんごほん。ここは私の部屋なんだが。」
空気を読まない王に、私が殺意を募らせたのは言うまでもない。私は手元にあったローブを好色な王の顔面に投げつけると、隣室の扉を指し示した。
「五月蠅い、さっさと何処かに消えろじじい。ん。どうせ隠居する身なのだから、もう息子にこの部屋も譲ってしまえば良いじゃないか。あ、イーノック、そこ。」
快感に思考が流されていく間際、視界の片隅で、王がすごすご自室に背を向ける様子が見えた。はは、臣下に叩き出される王なんて聞いたこともない。
一矢報いることが出来て満足した私は、王の悪趣味な寝台の上で、後にこの部屋の主となる男の逞しい首に腕を回して、続きを強請るのだった。
初掲載 2011年1月30日