音もなく、彼は (発売前)


 その日の野営地は、自由の民の集落から半日余りの距離がある、拓けた場所だった。
 何もないその場所を一瞥して、ルシフェルは目を眇めた。彼は、私の力を使えば野営なんてする必要ない、と言いたいのだろう。このような不便を強いることは、正直、心苦しい。だが、ルシフェルの誘う場所は、未来を予言した書物に印されたソドムのようで、私の肌に馴染まない。彼は愛おしい街だと可笑しげに笑うが、私には同意できない。
 ルシフェルはそれが解っているためか、何度も為した提案を口にすることもなく、ただ、呆れたように肩を竦めるに留まった。
 だが、やはり不満だったらしい。彼はそれから2時間ほど姿を消した。帰って来たときには、少しばかり、彼の地の雰囲気に酔っているように思えた。
 「ここは、まるでセツゲンのようだ。何もなくて、寒くて、白い。音すら死んだように、静まり返っている。」
 立ったままルシフェルはそうこぼすと、ちらり、と私に物思う一瞥を投げかけた。
 「…もっとも、君はユキなんて知らないだろうが。」
 ルシフェルの語る未来には、様々なタイプがある。希望もあれば、失望もある。はたして、今回はどちらだろう。私は判りかねて、周囲を見回しているルシフェルを見上げた。死を思わせる彼の発言が、この試練に身を投じて以来燻ぶっている不安を煽ったのか、視線は自然知識に飢えた者のそれとなった。
 それを、彼は誤解したらしい。それとも、わざと気付かなかったふりをしたのだろうか。ルシフェルは口角を上げて、私の隣に腰を下ろした。息が届きそうな距離に、思わず、息が詰まった。
 「なあ。」
 こういう甘えを滲ませた声を出すとき、ルシフェルが望むものを私は知っている。私は動揺した。すぐ傍には、ネフィリムと共に眠るナンナがいるのだ。
 ルシフェルは私の躊躇いを見てとったものか、落ち着いた声調でゆっくり自己弁護した。
 「大丈夫さ。ナンナはぐっすり眠り込んでいるし、盲目だ。」
 そうして、彼は、少女の連れるネフィリムに一瞥投げかけた。
 「彼らは…、…仮に見たとしても、見た事実すら忘れてしまうよ。」
 ルシフェルの息が耳を掠めた。甘い匂いがした。林檎の香り。彼は発情しているのだ。その事実が、決断を下させるために這わされる手が、否応なしに、約束された快楽を突き付ける。
 「君が音さえ立てなければ。」
 ルシフェルはくぐもった声を立てて、口元を歪めた。その、笑みというには程遠い代物を彼はよく湛えるが、私はあまり好きではない。そういうときの彼は、何故か、泣きだしそうに見える。
 考える前に、ルシフェルを抱きしめていた。苦しいよ、と彼の笑う声が胸を打つ。どうしてこんなにも切ない想いに駆られるのか、私自身理解出来ない。私は正面からルシフェルの美しい真紅の瞳を覗きこんだ。人が生きている証である血の色、生命の色だ。滅多に感情を映すことのない眼差しは、密やかな欲情に煙っている。
 「…イーノック。」
 勝利を確信したルシフェルのその酷薄な唇に、敗者の私は荒々しくキスをした。


 出逢ったときから、いや、知ったときから、私はルシフェルに欲情していた。恋しくて欲しくて堪らなかったが、禁じられた想いに怖じ気づいていた。天使は愛することを禁じられている。そして、彼に愛されないなら、こんな想いは遂げたところで意味がない。加えて、通じれば堕ちるのではないかという懸念もあった。
 だが、ルシフェルはそんな私の怖じ気を笑い飛ばし、半ば無理矢理、奪うようにして身を重ねた。目先の快楽に、理性が吹き飛んだ。
 事の後、ルシフェルは一切動じずに、慌てふためく私の懸念を鼻先で嗤った。
 「イーノック、これから堕天使を刈り取ろうというんだぞ?考えてみろ。神は私同様、未来を知っている。堕天することが解りきっているやつに、神が、きみのサポートを任せるだろうか?」
 肉欲の快に身を投じてなお、天使でいられるのか、私には解らない。しかし、ルシフェルの言うことは尤もだ。神がそんな残酷は仕打ちをするはずがない。私は安堵して、ルシフェルの差し示した欲深き果実をもぎとった。
 私との愛の営みを、ルシフェルは、性急で乱暴だという。獣ではないのだから、というのがルシフェルの口癖で、事実、無学の私にも彼は大変巧いように思える。一度、その事実を言及したら、もしかして嫉妬か、といぶかしむ声で問われたので、以来、口にしないようにしている。どうも彼は、私からの愛情を持て余しているようだ。
 「きみも知っているだろう?」
 ルシフェルは優しい。大天使なのだから、当たり前かもしれない。
 だが同時に、ひどく残酷な人でもある。
 「天使は愛を知ってはいけないんだ。堕ちるからね。」
 「じゃあ、これは何なんだ。」
 憮然として問いただすと、彼はこういうときに限って何故か嬉しそうに笑う。
 「さあ?ゲームの一種かな。」
 だから技巧の一つも持ちたまえ、と苦言を呈すルシフェルに、足りない分はあなたが補ってくれるから、と返せば、じゃあきみはそのままでいれば良い、と、実に楽しそうに目を細めて笑う。
 いつまでも笑ってくれていれば良いと思う。
 あんな、口元を歪めただけのようなものではなく。


 息を潜め、声を殺した交歓を終えた今。ルシフェルの繊細な指先は、手持無沙汰に私の髪を梳いている。その無意識の行動にこそ私への愛を感じ取れるようで嬉しい、と言ったら、ルシフェルは馬鹿にするだろうか。
 うつらうつら、私はそんなことを考えていた。事後特有の親密な空気が、心地よく、眠気を誘う。私はこれ以上ないほど幸福に満ち足りて、魂まで満たされて、そして、眠かった。だから、特に考えることもなく、ユキとは何なのか、という問いが口を吐いて出ていた。
 一瞬、ルシフェルの指が強張った。もしかすると、気のせいかもしれない。いぶかしんで、重い瞼を開けると、彼が呆れた眼差しをこちらへ向けていた。
 「好奇心は猫をも殺す、という言葉があってね。いつか、きっと、きみはそれが原因で身を滅ぼすことになるよ。」
 「それは、予言だろうか。」
 「いや?ただの忠告さ。」
 そう肩を竦めると、ルシフェルは遠くを見た。感情の読めない目は、変温動物のそれのようだ。私は、いつか天界の書物で見た蛇を思い出し、それから、あの美しい生き物に例えたときの彼の反応を思い返した。きみは何を知った。きつく腕に食い込んだ爪先、怒りを滲ませ咎める声色、初めて、強すぎるほどの感情を湛えた目。
 ルシフェルは何かに脅えていた。一体、何に?だが、それ以上尋ねれば彼が時を巻き戻してなかったことにしてしまうことを、私は知っていた。不都合な事態に相対すると、彼は決まって、無に帰してしまう。私はそれが残念でならない。
 生来好奇心が強かった私は、彼のために口を噤む術を学んだ。押し黙り、観察することを覚えた。
 そんな努力を知らないルシフェルは、私の苦い胸中など解る由もなく、淡々と説明した。
 「ユキは、簡単に言えば、アメが凍りついたものさ。アメは知っているだろう?エゼキエルのところで経験したはずだ。」
 「あなたは、あれを未来における自然現象だと言っていたように思うが。」
 「そう、自然現象の一つ…よく記憶していたな。」
 勿論、覚えている。もともと記憶は苦手ではない。それに、愛する人の言葉を、一字一句たりとも忘れたくなくて、耳をそばだてて聴いていたのだ。だから、私は、ルシフェルが時を戻すことで、あったはずのやり取りが欠落することを恐れる。それは、私の切望に反する行為だ。
 「いつもそれくらい、人の話を聞いてくれれば良いんだが。」
 聴くことと従うことは、別だ。それに、ルシフェルは私が聴いていない風に装った方が、色々なことを話してくれる。堕天使のこと、任務のこと、未来のこと、彼自身のこと。本当に、色々なことを。そして、私は彼の語る話に耳を傾け、記憶することが出来る。
 案の定、まどろみ続ける私に、ルシフェルは警戒を緩めたらしい。
 「ユキは、全てを白く塗り潰すんだ。何もかも、覆い尽くす。それが…、神の潔癖さの象徴のように感じられてね。」
 独白、だった。
 本心からの吐露に、私は再び重い瞼を開いた。ルシフェルが神を非難するような声調で口にしたのは、これが、二度目のことになる。この事実に、どう決断を下して良いものか私には判らない。
 彼は、独り語ち続ける。
 「ユキは好きじゃない。暗く、冷たく、寂しい…隔離され閉ざされた凍土に、永劫に降り頻るユキ…。…私は。」
 「…ルシフェル?」
 出来うる限り不安を押し殺し、漏れ出ないようにした。ルシフェルは何かに脅えている。一体、何に?だが、尋ねれば彼が時を巻き戻してなかったことにしてしまうことを、私は知っている。ルシフェルも口が過ぎたことに気付いたらしく、黙りこんでいる。このままでは、無かったことにされてしまうかもしれない。懸念が頭を過ぎった。
 彼の指が止まり、物思う様子で頭部から離された。
 「もう止めてしまうのか?心地よいのに。」
 「…そうだな、今にもきみは眠りそうだ。全く。説明させておいて、人の話をちゃんと聞いていたかどうかも、疑わしいものだ。」
 「う…。すまない…、あまり聞いてなかった。」
 探る言葉に、私は小さな嘘を返した。
 ルシフェルは信じたらしく、僅かに掲げた右手を鳴らすことはなかった。彼は、私の無知を信じたいのだ。この小さな嘘が、優しいのか、残酷なのか。私には判らない。ただ、私が無知を装うことでルシフェルが安堵する事実は知っている。今は、それだけで十分だ。
 「…きみは人の話を聞かないからな。」
 まだ汗でしっとり濡れている肌は、上気して艶めき、匂い立つようだ。私は、彼の吸い付くような肌の感触を思った。それから、仰け反る首や強くたおやかに回されるその腕、しなやかにきつく巻きつく肉を。
 ルシフェルも、思考を切り替えるには好都合と受け止めたらしい。
 「そんなことよりも、きみにはすべきことがあるだろう?その空いている腕で、抱きしめてくれないのか。」
 それで、あなたの気が済むのなら。時を巻き戻して、無かったことにしないでくれるのなら。
 口にせず、私はルシフェルに覆いかぶさった。




 それはまだ、私が「イーノック」と呼ばれていた時代の話。










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初掲載 2011年1月2日