夢も見ず、彼は (発売前)


 温かな静けさに満ちた夜だった。窓の外の天上では星が煌めき、華やかに彩りを添えている。
 その晩、私たちは自由の民が作り上げた街にいた。
 叡智を厭い、原始的な生活にしがみつく彼らの生活は、私に言わせれば不便極まりないものだ。しかし、観光目的であれば、これほど望ましい土地もないだろうと思わせる人間らしさがあった。イーノックの好む温かな人間味に溢れていた。
 木の実や果物、強い生酒を手に、娘らが歩いて回る。彼女らの関心は、勿論、天より遣わされた英雄だ。天界の書庫の静けさに慣れ切っているイーノックは、些か圧倒されている様子だった。とはいえ、人間たちのもてなしを拒むほどではない。弾ける笑い声、注がれる酒、空かず披露される歌と舞。まるで、春が訪れたようだった。永遠に尽きることのない、常春が。だが、永劫終わらぬものなどない。この世ですら、最後には審判の時を迎えるのだということを、私は知っている。
 ぱちりと音を立てて、松明の火が揺れた。明るく照らされた人々の顔は、束の間の喜びに輝き、反して壁に伸びた彼らの影は胸中の不安を表すかのように大きい。
 彼らは無力だ。だから、神に縋り、堕天使を恐れ、こうしてイーノックに頼る。笑い草ではないか。そんな輩のために、イーノックは奔走させられているのだ。壁に背をもたれかけ、私は独り薄く嗤った。冷徹にコマを進める神の次なる一手は?当然、私は結末を知っている。だから、神の意に沿うように振る舞っている。
 まったく、自らを敬愛する人間に、神も惨い仕打ちをするものだ。
 神の協力者である私は、神が洪水計画を阻止するつもりがないことを承知していた。不浄の地は一度、完全なる死の床に就かねばならない。自明の理ではないか。破壊があればこそ、再生がある。破壊のない再生など、ありはしない。
 イーノックも、それを思い知るべきだ。光があれば闇が落ちるように、闇がなければ光が際立たないことも。そうでなければ、とてもではないが、神の右腕たるメタトロンなど務まらないだろう。
 視界の隅に捉えたイーノックは、再度杯を勧められ、困ったように笑っている。
 私は席を立った。イーノックが酒を断り切れず、二日酔いになることは目に見えている。これ以上は、見られたものではない。
 それに、私がいるかどうかなど、誰一人気にしやしないだろう。私は右手を掲げ、高らかに鳴らした。彼らの関心の的は、神に選ばれた人間の英雄であって、彼を導く大天使ではない。


 全てが静止する時間の中で、私は再び指を鳴らすと、部屋を抜け出した。途端に蘇えった音を、騒々しいと煩わしく感じられたのは、私がすでに室外へ興味を映したためだろう。
 私が戸口から姿を見せると、衛兵は、見慣れない者の姿に驚いた様子を見せたものの、すぐさま防衛に対する興味を失くした様子で、私を見つめた。当然のように、私は素知らぬふりで傍を通り過ぎた。通り過ぎざま、手を伸ばしかけた彼の心に兆したのは、失楽の園だ。
 真実が神に依る領域であるならば、虚実は私たちの領分だ。例え実態は異なるとしても、見目麗しい乙女の姿を纏う私は、如何にも、清廉潔白に見える。絶望の闇より暗く艶めく髪、罪に熟れ甘く滴る真紅の唇、虚実より白々しく輝く柔肌。唇に載せるのは、無論、悪魔の囁きだ。
 白のベールが足に纏わりつき、歩きにくかった。編み込みのサンダルはこの時代でも重宝されている代物だが、黒のペディキュアはやりすぎだったかもしれない。いまだ染料すら珍しく、木綿の白以外の色彩は重宝される時代なのだ。
 しかし、男はその歪みに気付かない。
 この見せかけの肢体を、欲望のまま征服する夢に思い焦がれるが良い。やがて見果てぬ夢は現実を侵し、男の在り得たはずの幸福を歪ませるだろう。それが、私は愉快でならない。こうしてどれだけの男を、女を、狂わせたことだろう。私の眼差しに惑わされ、愛した妻子や家臣を余さず殺めた王がいた。私の約束した偽りの愛に魅せられ、婚約者の首を差し出した処女がいた。彼らの眼は真実を何一つとして映そうとしない。映したがらない、と言った方が適当かもしれない。そして、私に縋り、乞うるのだ。永遠の悦楽を。
 家々の角を曲がる間際、私は長い髪を掻き上げ、食い入るように見つめている男に微笑みかけた。
 愚かな人の子よ。外見に惑わされ、真実を見ることを忘れた盲目なる子よ。
 そんな風だから、隣人なるユダの嘲りにも気付かないのだ。


 いつもと風向きが違うことに気付いたのは、それから、間もないことだった。
 先程の衛兵が姿を見せたとき、私は彼の堕落を確信し、クリームを与えられた猫ほどには満足だった。だが、その後ろに他の男たちの姿を見たときには、喜びより困惑が勝った。衛兵が屈強な男たちと連れ立ってやってくれば、私は安直で原始的な手段で勝利を得ようとする彼らの野蛮さに喝采したことだろう。しかし、どういうわけか、衛兵が連れてやって来たのは、この街の敬虔な商人ではないか。衛兵はいまだ食い入るような眼差しを私に向けているにもかかわらず、手を出そうとはしなかった。一体、どうして?いぶかしむ私に、眼前の老人がありきたりな言葉を吐いた。言い値で買おうとは、中々の心意気じゃないか。私は声も立てず、胸中嗤った。衛兵以上の地位あるものが、私を見染めたのだろう。
 事の次第によっては、貴女は偉大な方の花嫁になれるかもしれない。老人は至極真面目に、私を誘った。もし、そうでなかったときは、春をひさがせて捨てるか?無論、私は問いかけない。ここは、愛らしい笑みを浮かべて応じるのが礼儀だろう。
 老人が震える手で、私の白魚のような指を取った。もう少し若ければ、彼自身が欲望を募らせ、私を乞うただろうに。だが、まだそれほど枯れてはいないのかもしれない。彼の手は、私に触れた喜びと肉欲への恐れとで無様に震えていた。
 私は嫣然と老人に笑いかけた。
 人間は誤解している。肉欲は、罪ではない。家畜が子を為し、繁殖するように、彼ら人間も子を為し、繁殖し続けなければならない。そうでなければ、どうして神が、性交に快楽を付随させようと考えるだろう。第七天国を設けようと思うだろう。
 だから、肉欲に耽るが良い。そして、堕ちるが良い。この場所まで。


 私は香油で身を清めさせられた後、白い部屋へと通された。石灰が主成分と思しき漆喰の壁は、日の光の下ならば荒い造りと見て解るだろうが、夜の帳が落ちた今は、幻想的なまでに美しい。さながら、闇に浮かびあがる娼婦の白い面のようだ。木綿のシーツに焚きしめられた香りが、昂揚を煽る。おそらく、理性を狂わせ感情訴えるような、麻薬に近い薬草を用いているのだろう。
 私は可笑しさのあまりベッドへ倒れ込んだ。どんな富豪が来るのか知らないが、私が夜を共にすることはない。土の器に魂を吹き込まれた人間と異なり、天使には、あらゆる肉欲が欠落している。三大欲求と呼ばれるものすら存在しない。そんな私に、性欲などあるはずもない。第一、物思う眼差しや溜め息一つで堕とせるというのに、己自身を差し出す必要はない。
 散々焦らし甚振った末に姿を眩ませてやろう。
 私は彼を焦がす業火の名を知っている。絶望だ。そしてまた、私は知っている。神のもたらす光とは、火の如き希望だと。その業火でもって全てを、苛烈に焼き尽す。焦がれて近付けば、焼け堕とされる。私は、強すぎる光に目を焼かれ、堕ちた、天使たちを思った。恋焦がれ太陽を目指したイカロスを思った。そして、その最期を。
 ぱちりと音を立てて、燃えた。ふわりと影が舞う。蛾だった。火に近付き過ぎたのだろう。その心を焦がし震わせることは、二度とない。熱望に胸膨らませたその蛾は、希望と背中合わせの兄弟に呑み込まれ、死んだ。
 幻覚を見せる薬草の成分が、私にも多少及んだのかもしれない。蛾に、洪水に呑まれる人間たちが重なり、私のあるかなきかの心はちくりと痛んだ。脳裏に浮かんだのは、務めを果たせず嘆き悲しむイーノックの姿だった。
 まったく馬鹿げている。皮肉に唇を歪めると、部屋に光が差し込んだ。件の男が来たようだ。私は光に慣れぬ目を眇めて、やって来た男を見上げた。そして、言葉を失くした。
 男は、イーノックだった。
 良く考えてみれば、驚くことではなかった。思い至らなかった己に自嘲的な笑みがこぼれる。全てを白く飾り立てた部屋で、神に選ばれし英雄と見目麗しい娘が交合し、神の子を宿す。多量の酒を摂取し、薬に侵され、本能に火をつけられた状態では、肉欲を自制しろという方が難しい。宴に果物や酒ばかり出て、肉の類が一切供されなかったのは、潔斎させる目的でのことだろう。それにしても、よりによって、イーノックの相手に私を選ぶとは。
 偶像崇拝は神が禁じたはずだが、と心中面白がる私の面前で、イーノックが焦点の定まらぬ目を訝しげに瞬かせた。
 イーノックの欲情に煙る眼を見て、私は失念していた事実に気付かされた。どれほど神に寵愛されようとも、イーノックは人の子だ。健全な男ならば、欲情することもあろう。そういえば、と私は顎をさすった。イーノック自身は覚えていないだろうが、彼にも妻子がいた時代があった。
 私はイーノックに女を宛がうことを決めた。そうと決まれば、話は早い。はたしてどの娘が適任だろう。
 そのとき、私の脳裏に過ぎる光景があった。タワーで拾ったあの娘の光を灯さぬ目は、一心に、イーノックへと注がれていた。ひたむきな愛情に満ちたその眼差しに、イーノックはまだ気付いていない。だが、一度身を重ねれば、愛着を覚えるだろう。私は深い満足を覚えて、口端を吊り上げた。相手は、ナンナにしよう。新たな大天使の相手は、処女こそが相応しい。しかし、少々若すぎるだろうか。
 そのとき、僅かに首を傾げて懸念を示す私の手を、イーノックが掴んだ。少なくとも、きみの相手は私ではないよ。いっそその耳元で囁いて嘲弄してやろうか、などと悪戯に微笑む私と対照的に、イーノックは今にも泣き出しそうだった。
 「どうして、あなたがこんなところにいるんだ。」
 「…何を言っているのか、理解しかねるのだが。」
 人の話を聞かないことで定評のあるイーノックが相手では、白を切ろうとしても徒労だった。彼はよりいっそう強く私の手を掴んだ。
 無論、事態が煩わしくなれば、私は時を操り、なかったことにすることが出来る。それこそが、神にすら為し得ず、私が私の罪を抱く元凶となったとされる能力だった。私は時を操れる。しかし、このように強く拘束されてしまっては、指を鳴らしようがない。私は眼前の男にばれないよう、小さく舌打ちした。この痴れ者は、私を混乱の渦中に突き落とそうというのだ。
 「あなたはこんなところで何をしているんだ。」
 再度口にされた台詞が、彼自身が己を取り巻く状況を理解していることを訴えている。私は少しだけ、可笑しくて笑った。もしかすると、イーノックは都合の良い女がいるはずのベッドに私がいたものだから、気分を害しているのかもしれない。そう思えば、私なりに心を慰められた。
 もっとも、消えない大きな疑問があった。私はイーノックにこの姿を見せたことがあっただろうか。それに、かつての私がこのような面倒事に巻き込まれた記憶はない。何度も繰り返し、慣れ親しんだはずの時間が、急に空々しいものに感じられて、私は私の罪状に陰りを覚えた。
 「別に?きみには関係ない。」
 自然刺々しくなる声で返せば、イーノックが言う。
 「関係ないことあるか。あなたにもしものことがあったらどうする。」
 その叱責めいた口調さえ、私の神経を逆撫でる。巧く呂律が回らないほど泥酔しているやつに、心配される筋合いはない。きみこそ、女どもに喰われんとする生贄ではないか。罵声が口を吐いて出そうだった。私がこれほど感情的になることは滅多にない。やはり、薬が影響を及ぼしているのだろう。そうに決まっている。
 私はベッドの上でわざとらしく足を組み変えて、イーノックの反応を窺った。自由の民にまとわされたのであろう白い木綿のローブはゆったりとした造りだが、煽りに煽られた状況下では、気休め程度にしかならない。私はわざとイーノックの股間に舐めるような視線を向け、薄く笑みを湛えた。
 「さあ、寝るかな。」
 まるで、神の死を知らされたかのようだった。彼は、何らかの偶像を私に抱いていたらしい。私は掴まれた手首を一瞥した。イーノックが手を離してくれさえすれば、全て、なかったこととして処理できるのだが。
 いずれ生まれるであろう隙を窺う私の口からは、場を濁す言葉ばかり生まれ出でる。
 「それこそ望むところじゃないか。遊びにはもってこいだろうし…、」
 そこで、私はイーノックに笑いかけた。笑うべきではなかったし、当然、口にすべきではなかった。
 「何だ、きみは私と寝たいのか?」
 途端、衝撃を受け、息が詰まった。スプリングも何もない固いベッドの上で、私の華奢な肉体は今にも潰れそうだ。退けようと手を伸ばす私の苛立ちなど意に介さず、イーノックが頭を振る。
 「そんなのは駄目だ。あなたは、大天使なのに。」
 イーノックの作為ない台詞が、私の侮蔑を誘う。大天使だから、何だ。私が本当に大天使かどうかなど、きみは知りもしない癖に。
 「離せっ!」
 戒めを振り解き、右手を鳴らした。
 乙女の虚像を失くした私を前にすれば、彼の頭も冷えるだろう。イーノックは男色家ではない。敬虔なる神の徒である彼が、神の禁じた同性愛に耽ろうはずもない。常の私は、無性に近い両性だ。女性固有の乳房はなく、また、男性としての機能も欠けている。一瞥した限りでは痩せぎすな男にすぎない外見は、イーノックの欲情を抑制するものと私には思われた。
 だが、私の思惑に反し、イーノックは嬉しそうに笑った。目に灯る強い欲情の焔に、私は震えを覚えた。
 イーノックに抱かれるべきではない。そんなことは解っていたし、抱かれるつもりも毛頭なかった。本当は。胃が怖じ気て収縮し、今にも吐瀉しそうだった。私は全てを知っているはずだった。全てを知っているつもりだった。逆巻く時流にすら抗い、好き勝手振る舞う私を、神もついには悪友と見定めたではないか。絶やせぬがために、惜しむがために。
 だが、私は知らない。こんな表情の彼も、こんな事態も、こんな胸の痛みも。
 彼はあまりに温かく、私がいるべきコキュートスから掛け離れていた。コキュートス、私の支配する地獄。生命の息吹から最も掛け離れ、静けさに満ちた永久凍土。そこでは、全てが静止している。凍りついた世界で震えるものはない、原子まして心さえ。愛すら音もなく色を失い、己の無力を嘆き悲しみ砕け散る私の領土。
 それなのに、どうして、これほど惹きつけられるのだろう。欲得ずくでない、思慕を感じ取ることができるから?そんな話、馬鹿げている。肉欲に勝る恋慕など、私は信じない。信じたくもない。
 炎に魅せられ、焼け堕ちる蛾になった気分だった。震える指を伸べ、イーノックの頬に当てる。彼はひどく嬉しそうに、目を細めて笑った。温かいものに満ち溢れた目は、いかにも眠りそうに見える。それでも、彼が眠ることはない。なぜなら、彼は、私を欲しているからだ。
 私はイーノックへ唇を寄せた。肉厚の下唇を啄ばみ、酒臭い口に舌を差し入れ、首を傾げ更に深くキスしようとしたとき、イーノックに壁へ押し付けられた。掴まれた腕が痛い。軋む背が悲鳴を上げた。だが、痛覚以上に刺激されるのは加虐心だ。先程の落ち着き払った態度は、私の錯覚だったのかもしれない。眼前の男は、まるで初めての発情期に惑乱した獅子のように、一心不乱に私の唇を貪っている。太腿に押し付けられた彼の欲望が、熱くて堪らない。私は蹂躙される口内で、くぐもった笑い声を立てた。つうと唾液が顎を伝い落ちて冷える感覚さえ、熱くて、堪らなかった。
 彼を欲情させよと声がする。肉欲の内に堕とせと声がする。地獄で足掻く十八対の羽は、さぞ見物だろう。
 彼に近付きたい好奇心と、彼を引き寄せたい悪意の狭間で、私の心は千々に乱れた。
 私にとって人間とは、悩ましげな目つき一つするだけで、喜んで靴に口付けるような輩であり、甘ったるい愛で滴る嘘一つで、迷わず命を差し出すような類だった。葛藤すら忘れ、涙すら見せず、幸福の内に堕ちて行く。それこそが私の知る人間であったのに、イーノックは薬に侵され、私がこの肉体を差し出してなお、理性にしがみつきあがこうとしていた。絶対なる神を心の寄る辺としながらも、なお、私の差し出す肉体に惑わされていた。
 私は空いていた手を、イーノックの下履きへと滑り込ませた。そこには、熱く脈打つ肉欲の象徴が、触れられもしないうちから涎を垂らしてご馳走を待ちわびていた。私は指を絡めた。涎を絡め取り、塗りつけるようにして指の腹でこする。先端に爪を立てれば、荒い息を吐いてイーノックが私の腹を撫ぜた。
 夜気に身を震わせる私を、イーノックは勘違いしたのだろう。とはいえ、完全に誤解とも言い切れない。寒ささえも熱く感じられるほど、私は昏い歓びに酔い痴れていた。神に次ぐ大天使となるものを穢す機会など、そうあるものではない。快感だった。イーノックの大きな手が、荒々しく私の肌を撫で回す。性急な手付きは、彼の募る欲望を表している。
 薄く嗤う私の胸元に、イーノックが顔を埋めた。荒い息を感じる。ざらつく髭の感触と、滑る舌先。頂に歯を立てられて、その衝撃に思わず肩が揺れた。そこから乳が出るはずもないのに、イーノックは飽きずそこを口で弄っている。
 「…駄目だ。」
 イーノックの唇が、自らに言い聞かせるように呟いた。
 「駄目だ、これ以上は…。」
 今更、引き返せるつもりなのか。私は目を細め、舌なめずりをした。馬鹿ばかしい。この私にここまでさせておいて、後に引けるはずがないだろう。
 「駄目なはずが、ないだろう?」
 戦く彼の大きな手を、私のそれに絡め、下へと導いていく。閉ざされた門の奥は、熱く潤んでいる。私も、彼も、それを知っている。
 「駄目、なんだ。」
 ここに来て理性が勝ったのか、イーノックの手が止まった。彼にとって、私とのセックスは禁忌らしい。大天使だと思うから、躊躇するのだ。きみも真実を知れ。欲望に忠実であれ。犬のように這い蹲って媚びよ。さすれば寄る辺なき魂は、絶望に暮れるだろう。希望と隣り合わせの、深き絶望に。
 動かないイーノックに痺れを切らした私は、上半身を起こした。ぷくりと膨らんだ小さな肉芽を降り、禁断の密でしとどに濡れそぼる花弁へと向かう。イーノックは、まだ、動かない。私は良く見えるよう片膝を立てて、その花へ指を差し入れた。初めてだから、だろうか。違和感はなかったが、決して良くもなかった。痛みがないので私は指を二本に増やし、わざと音を立てて抜き差しを繰り返した。次第に、息が上がって来た。僅かながら快楽を拾うコツも覚え、私ははしたなく身をよじり、潤む目を彼へ向けた。
 イーノックは荒い息を吐き、食い入るように私の痴態を見詰めている。体毛に遮られることのない私の乱心は、彼の心を掻き乱したようだ。だが、それでもイーノックは最後の一線を超えようとしない。私が大天使だから、穢してはならないから。
 ふざけるな。
 「私は、きみが欲しい。」
 募る肉欲に、切ない溜め息が零れた。いや増すセックスへの期待は、私の肉欲に対する嘲りを一笑に付した。彼が欲しい。彼の熱くて逞しいのが欲しくてたまらない。乱暴に突っ込んで、揺さぶって欲しい。
 「欲しくてたまらないんだ…、」
 好きにして良いから。
 だから、好きにさせて。
 「…イーノック。」
 名を呼んだ途端、弾かれたように、イーノックが私の脚を掴みあげた。
 「ルシフェルっ。」
 馬鹿の一つ覚えのように、何度も何度も繰り返しながら、イーノックが身を進める。息を吐く間もなく押し込まれる熱塊に、背筋を戦慄が走った。ぷつり、と閉ざされた幕が無理矢理開場される音がする。狭い道を押し広げ、イーノックが入ってくる。
 「ルシフェル、ルシフェルルシフェルルシフェル!」
 動くこともままならない強さで掻き抱かれ、割り開かれた身内で彼の脈打つ欲望を味わわされることの、何という、愉悦。人と大天使として最後に見えるとき、殺意を向けられたとしても、これほど昂揚しないだろう。
 自分の張り上げる嬌声を他人事として捉えながら、私は薄く嗤った。神も、よもや思うまい。善なるものとして召し上げ、無垢なるものとして最初から造り直した存在が、私によって堕とされ、穢されたなどとは。
 何度か性急に揺すぶられて、意識が飛んだ。吐き出される熱を感じ取った。だが、劣情を吐露してなお、イーノックの欲望が治まる気配はない。いまだ固く屹立する彼の本心に、私は肩で息吐きながら、快哉をあげていた。火照る肌が、這い回る彼の手を求めて、燻ぶっている。破られた狭き門が、恥辱の限りを求め、期待に細かく震えている。彼の全てが、心までもが、欲しくてたまらなかった。
 「ルシフェル…私は…、あなたに何と言うことを…。」
 「そう気に病むなよ。」
 顔を覆い泣きじゃくるイーノックとは裏腹に、肉体はあくまでも欲に忠実だ。あまりにも嘆き悲しむので、私が真実を教えてやろうかと思ったほどだった。きみが気に病む必要はない。元々、私は大天使などではないのだから。だが、私は罪の意識に涙するイーノックに口付け、罪よりも甘く囁いた。
 夜はまだ、これからだ。




 全てが終わった頃には、陽が昇り始めていた。私は疲労困憊して眠るイーノックの髪を梳きながら、独り静かに煙草を吸っていた。口内に感じる苦味は、胸中のものとは異なって清々しい。私は泣き腫らされたイーノックの眦を見た。それから、己の腰へ回された彼の逞しい腕を見た。
 ユダはすぐ傍にいる。私だ。だが、彼らは人間は気付かない。大天使という虚像をまとった私を、疑いもしない。それも当然だ。その幻影は神自らが与えたのだから、神を敬虔に愛する彼ら人間が疑念を抱く余地はない。否、抱いてはならないのだ。神を信じるものであれば、決して。
 「はは。」
 乾いた笑い声が漏れた。我ながら、驚いた。何故、こんなにも胸が苦しいのだろう。
 やはり、抱かれるべきではなかったのかもしれない。私は右手を掲げ、――だが、鳴らさなかった。どうせ惹かれる身であれば、好きなだけイーノックに喰らわせてやれば良い。目覚めれば彼は、再び、大天使を穢したと嘆き苦しむだろう。涙するだろう。自らが、穢されたとも知らず。
 そんな彼に、私は優しい嘘を一つ吐いてあげよう。きみの信奉する神は、それほど、無慈悲なのか。堕天使を討伐する立場のきみに、サポートとして堕天使を就かせるだろうか。と。
 彼が答を知るのは、まだ先で良い。
 だから今はまだ盲目の内に眠れ、人の子よ。











初掲載 2011年1月6日