ふと気配を感じて、政は顔を上げた。リビングの入り口に片倉が立っていた。政が佐助をテーブルにもたれさせ、手招く。
「兄貴。そんなところに立ってないで中に入ってくれば?もう、佐助も寝たし。大丈夫だよ?湯冷めしちゃう。」
しかし片倉が動く気配はない。政は睫毛を瞬かせ、首を傾げた。
「どうかしたの?」
「…私が言及することでもないと思いましたが。いつまで、知らぬふりを続けるつもりですか。政宗様。あまりにも、そこの忍が哀れです。」
「何が、」
戸惑う様子の政に、片倉が首を振って否定した。
「過去を知っているふりをすることで、本当は覚えてないように見せかけたかったのでしょうが。この小十郎めは誤魔化せませぬ。どれだけの歳月、貴方とお過ごしと思おいか。そこな猿よりよほど長いのですぞ。それに、」
ひたりと、片倉の目が政の目を正面から捉えた。あまりに真摯で、切実な瞳だった。
「貴方は、生まれたときから政宗様でした。幼少のみぎりの梵天丸様を私は存じておりますが、間違いなく、貴方は初めから『政宗』様だったのを小十郎が見切れぬはずがありませぬ。」
束の間沈黙が落ちた。
しばし視線を彷徨わせ、片倉が引く様子がないと悟ると、政は雰囲気を一転させた。さきほどまでとはまったく違う。それは、政宗だった者に他ならなかった。政宗は佐助が起きる気配がないことを確認してから、口を開いた。
「最初からわかってたんだったらしょうがねえ。俺も、小十郎を騙し通せるとは鼻から思っちゃいなかったが。…そうか。最初からか。俺もまだまだだな。だが、今まで黙ってたのはなんでだ?」
「政宗様が口にせぬならば、そこには何か考えがあってのこと。小十郎が口出しする必要性はありません。そこの忍のさきほどの吐露を耳にしなければ、この先もそうだったでしょうが…やはりそれ以上に、何より、政宗様自身にとってよい選択ないかと。」
「…なにゆえそう思う。」
「政宗様は、」
一度、片倉は言いよどみ、佐助を見やってから答えた。
「政宗様は、どうやら、御子を宿しておられる御様子。ゆえに、これ以上夫婦間の問題を引き摺らない方がよいのではないかと思った次第です。」
「そう、か。」
政宗は椅子に寄りかかり、大きく嘆息した。
「小十郎には何もかもお見通しだな。昔からそうだったが。」
「政宗様のことであれば、すべてにおいて可能な限りわかりたいと願うのは、この小十郎としては当然の想いですので。…それで、まだ、忍には言っておらぬのですか。存ぜぬ様子でしたが。」
「ああ。俺だって今日、医者に行ってわかったばっかだ。なんか歯が弱えと思ったら、ガキにカルシウム取られてたからだな。出産したらもっと弱くなるだろうとよ。産婦人科の医者に笑われた。ついでに、どうせ産むまで呑めねえんだから、これを期に禁酒したらどうだと。可能性を信じたくなくてかすがに色々調べてもらったけど、…現実はそこまで甘くなかったな。」
「御子ができることが怖かったのですか?」
「…いや。すげえ痛そうだから気が引けてたっつーのは確かにあるが、…後ろめたかった。佐助にも、ガキにも。」
政宗は自分の掌を見た。武道の一切をしていない手は、家事をしているとはいえ、白く華奢で美しかった。女の手だった。
「俺がこの手で殺めたのに、そんな男と、幸せになる権利があると思うか?女だったらあるいは違う未来もあったのかもしれない…そう、俺を信じてついてきてくれたお前たちを裏切るようなことまで考えて、願って。こんな風になっちまったのに、前世のことを覚えてますなんざ、ぬけぬけと言えるはずもねえ。少なくとも、俺には無理だった。そんな自分を誇れねえ俺が、ガキなんざ持てるはずもねえだろ。ガキに何を語り継ぐ。自信を持って言える真実など、何も、何処にもない俺が。」
「…では、忍のプロポーズを受けなければ宜しかったではありませんか。」
「…、拒むことはできねえよ。こいつには悪いと思ってるし、それ以上に、」
「愛しておられました、…か。」
政宗は頷き、腹に手を当てた。少し胴回りが増えたか否か程度の膨らみだ。月に一度の発表会のプレゼン準備で忙しく、時間が持てなかった佐助が気付かないのも無理はなかった。
「事故にあったとき…、衝撃でガキが流れてるかもしれねえって思って正直肝が冷えた。欲しくねえと思ってたのに、結局俺はエゴを押し通してこれからも生きてくんだな。」
「…。そのようなことを思うのでしたら、尚更、政宗様は真実を告げるべきです。元々嘘など吐いていないのですから、堂々と示せばよろしいではありませぬか。」
政宗は押し黙った。片倉の言う通り、政宗は佐助に対して嘘など吐いていない。ただ、佐助が誤解するように巧く立ち振舞っていただけだ。プロポーズを承諾したときも、佐助が本当に求婚したなどとは思わなかった。佐助は傷付くに違いないが、それも本当のところだ。
いつから片倉はこんな二人のいたちごっこに気付いていたのだろう。政はただじっと片倉を見つめた。昔からの片腕は変わらずそこにいるだけで、昔同様、その真意は窺い知れなかった。
「…一つ、訊いても宜しいですか。」
「なんだ?」
居住まいを正し、神妙な顔をした片倉に政宗は首を傾げた。深刻な様子はないが、片倉の態度は畏まっていた。
「なにゆえ、本日は事故に?子を助けたという旨は聞きましたが、政宗様であれば事故に遭うまでもなかったでしょう。」
「…ああ、」
政宗は苦笑して、視線を逸らした。恥ずかしい。
「思ったように動かなかったんだ、身体が。妊娠とか以前に、運動さっぱりしてねえこの身体であの頃の動きを期待してもどだい無理っつー話だな。」
できれば口にはしたくなかった理由である。照れくささに政宗は頭を掻いた。片倉が笑った。
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