「赤ちゃんの名前、何にしようか。」
妊娠したことを告げると、仕事もそっちのけでさっそく子ども用の名前辞書を購入してきた佐助は、楽しそうにそれを眺めている。「俺の子どもは元気かな今何してるのかな」などとみじんこくんの歌詞を変えた歌を口ずさんでいる辺り、相当浮かれているようだ。この分では、佐助のことだ。今日さっそく携帯の着信音をこんにちは赤ちゃんに変えたのではないか。ありえない話ではないだけに、正直頭が痛い。妊娠を病気の類か何かと勘違いされベッドに押し込められた政は、仕方なしに布団に横になりながら、少しだけ後ろめたそうな顔をした。まだ、出産までずいぶん時間がある。この調子でずっといられたら、かすがに何を言われるかわかったものではない。政はかすがと仲が良かった。
「貴様、伊達政宗の記憶があるのだろう。」
そう断言されたのは、結婚式の日だった。政が案の定友人にからかわれ呑みすぎている佐助を眺めていると、隣でカクテルのチェリーを邪魔臭そうに爪先ではじきながら、かすがはそう言った。女の直感で気付いたらしい。歯に衣着せぬ言葉に、政は白を切ろうにも切れなかった。はっとして隣を振り向くと、かすがは楽しそうに小さく笑った。
「私も貴様と同じ、転生しても忘れられぬ人がいる。とはいえ、貴様の旦那になったあの馬鹿のようにそのことを告げないだけの配慮はある。安心しろ、黙っているから。確認が取れただけで満足だ。」
かすがはカクテルを呷った。
「恋はいいよな。どこぞの風来坊ではないが、恋はいい。」
あの日と同じだ。政は3年前を思い出しながら、佐助を見て溜め息を吐いた。佐助は呑むと記憶を飛ばす。だから昨夜、泥酔して本音を語りつくしたことは覚えていない。妊娠発覚で少しくらい仕事を減らしてくれるかもしれないが、それもしょせん上司の采配しだいだ。佐助が決められることでもない。酒をひかえると告げたこともどうせ覚えていまい。さっそく今夜浮かれて呑むのではないかと思うと、政は頭が痛くなった。自分が呑めないのに目の前で呑まれることほど、腹の立つことはない。
佐助は相も変わらず歌を口ずさみつつ、辞書を捲っている。政は嘆息した。こんなに楽しそうな様子でいられると、水を差すのも気が引けた。
それでも政は言った。
「佐助…悪いけど、もう名は考えてあるの。一応。」
「え、そうなの?何て名前?」
ぱたんと分厚い辞書を閉じて、佐助は尋ねた。政は居住まいを正し、神妙な顔をして答えた。
「幸村。」
「……。…、それは、旦那の名前だけど…。まだ、旦那生きてるよ?ていうか、政に何か旦那したっけ?命の恩人とか、ま、まさか、赤ちゃんの実のちちちちちちち…」
「旦那の居ぬ間に、真田と裏で出来てたとかってのはないから安心して。」
見当違いな誇大妄想を脳内で展開し始めたと思しき佐助に、政は口を挟んだ。確かに政は幸村のことが好きだ。しかし、幸村と佐助に向ける好意のベクトルは全然違う。そこのところを、旦那は案外わかっていないようである。佐助は安堵の息を吐き、首を傾げた。
「じゃあ、何で?」
政は一つ深呼吸をして、唇を開いた。
政宗は面白くなかった。久しぶりの逢瀬が叶ったと思えば、隣の佐助は幸村のことばかり話しているのだ。仕事柄いくら話せることが少ないとはいえ、好敵手の自慢話を展開される恋人にもなってみろと文句の一つも言いたくなった。それとも、柄にもなく佐助は緊張しているのだろうか。
空は次第に色付いてきていた。黄色く光る雲が、風に吹かれて流れていく。もう佐助と共にいれる時間も長くない。夜が来たら、佐助は西に帰るのだ。
「なあ。最後の夜なのに、最後までこれなのか?」
耐え切れなくなって政宗が洩らした言葉に、幸村の誕生秘話を語っていた佐助が口を閉ざした。拙いことをしてしまった実感に襲われ、政宗も押し黙った。沈黙が満ちる。
先に堪えきれなくなったのは、やはり政宗だった。
「俺、最後の夜くらいアンタの話が聞きたい。アンタのことが、知りたい。いっつも俺が話してばっかで、アンタは黙って聞いてるだけじゃねえか。…たまに話したと思ったら、幸村の話ばっかだ。」
もうじき戦になる。それを政宗も佐助も、重々承知していた。会うことができるのは、これが最後になるだろう。最後までこんな風にして中途半端に終るのは、政宗は嫌だった。
悲しそうに佐助が頭を振った。
「俺に話すことなんて、何にもないよ。忍は人じゃないから、人じゃない俺には何にもない。」
「それでも何かあるだろ。好きな食べ物とか、好きな景色とか。」
「何も。」
佐助は項垂れた。
「何も俺には残されてないよ。仕えるべき主。旦那が光だとするならば、その影が俺だ。影には、何もあってはならない。己を殺して生きるのが、忍なんだ。」
「…それでも、」
食い下がる政宗を、佐助が泣きそうな顔で見つめた。政宗は視線を落とし、ぽつりと呟いた。
「それでもアンタには幸村があるってことだろ。自分でわかってねえだけで、アンタは幸村が掛け替えないほど好きなんだ。俺はそれを知ってる。だからそんな風に言わないでくれよ。」
空に星が瞬いた。一番星だ。政宗は泣きそうになる己を自覚して、唇を噛んだ。俯けば涙がこぼれそうな気がしたから、空を睨んだ。
「アンタが好きなんだったら、幸村の話でもいい。アンタの本質が幸村なんだってなら、それでもいい。それでも、俺は、」
いつもこうだった。政宗が癇癪を起こして、佐助が口を噤む。あやふやなままで、結局、最後までそうなってしまった。政宗がこんな矜持の張った男でなく、女だったら事態はもっと変わったのだろうか。政宗が戦う力を持たず、傷つけるだけの手を持たなければこうはならなかっただろうか。政宗が駆け引きや嘘で真実を惑わせず、素直に心を開いていれば違ったのだろうか。自分のことばかり話していないで、佐助の話を無理矢理にでも引き出せばこんなことにはならなかっただろうか。
それらもすべて、最後ゆえの悔恨になってしまった。もっと早くに気付いていれば良かった。
政宗は最後の言葉を、佐助に放った。
「それでも俺は、幸村の話じゃなくて、幸村が好きなアンタの話として聞きたかったんだ。アンタが、好きだから。」
初掲載 2007年5月27日