第二話   転生パラレル


 翌日、佐助は珍しく二日酔いもなく仕事に励んでいた。発表会の翌日に二日酔いでないなど、初の快挙だ。体調がいいから、自然、気分も良かった。塞翁が馬とはまさにこのような事態を指すに違いない。小癪なかすがのお陰だ。
 佐助は歌を口ずさみつつ、細菌を顕微鏡で見つめた。
 「うるさい。その無駄口を止めろ。さもなくば無理矢理にでも塞ぐぞ。」
 「え〜?かすがちゃんったら今日も攻撃的。」
 「死ね。だいたいなんだその歌は。」
 白衣を羽織ながら登場したかすがは、軽蔑の眼差しを佐助に向けた。
 「みじんこくんは元気かな今何してるのかな。馬鹿か貴様は。みじんこが何をしていようが関係あるまい。というか、貴様が覗いているのはみじんこではないだろう。関係ない歌を歌うな紛らわしい。」
 「いいと思うんだけどな。俺様作詞作曲みじんこくんのうた。どう?かすがもご一緒に。」
 「面倒臭いがあえてもう一度言おう。聞き漏らすことなく、違うことなく、聞くがいい。」
 かすがは仁王立ちして、一字ずつ明確に区切って言った。
 「し、ね。」
 佐助は何かとりあえず反論しようとして口を開いた。
 そんなとき、佐助の携帯が鳴った。


 政は病院にいた。
 前から悩んでいた政は、今日、とうとう意を決して家を出た。病院に向かうためである。少し前から歯が痛んだ政は、友人のかすがに相談をした。今日はその回答をメールでもらい、仕方なしに病院に向かうところだった。足取りは重くはない。重くはないが、軽くもなかった。女々しいと言われてしまうかもしれないが、政は病院に行くのが怖かった。
 目の前を子どもが走っていく。サッカーでもするのだろう。ボールを腕に抱えていた。すぐ近くには公園もある。なんて楽しそうなんだ。政は子どもに視線を流しながら、小さく嘆息した。
 向かい側から車が来ていることに政が気付いたのは、そんなときだった。
 子どもが公園にすでに到着していた友人に手を振ったひょうしに、ボールが腕からこぼれ落ちた。子どもが振り返り、ボールに向かって走り出す。公園を取り巻く生垣が視界を塞いでいる。子どもが見えないのだろう。車が止まる気配はない。
 まるで悪いジョークだ。
 政は舌打ちをした。最近どうもカルシウムが足りていないようだ。些細なことでいらいらする。とはいえ眼前に迫る子どもの危機は、とうてい些細なことではすまされない。
 政は手提げを足元に放り出した。考える前に体が動いていた。道路に飛び出した子どもに向かって、ただ腕を伸ばした。
 「思ったように動かなかったんだ。」
 病院の待合室で言い訳を口にする政を、佐助が泣きそうな顔で見ていた。病院から連絡を受け、研究所から取る物も取らず押取り刀で駆けつけたため、ただでさえ乱れている佐助の髪は乱れに乱れていた。
 運動を一切していない政だったが、火事場の馬鹿力を発揮して子どもを右腕一本で道路から引き剥がすことには成功した。ただ、その反動で左腕が前に飛び出て、車に接触した。結果、8針縫った。
 「その。ごめん。」
 「…ううん。政は人を助けたんだ。謝らないでよ。それより、何でまた病院に向かおうなんてしてたの?どっか悪かったっけ?」
 政は後ろめたそうに顔を逸らした。ぽつりと呟く。
 「歯が、痛くて。その。かすがに聞いてもらってたんだけど、病院に。」
 「歯?…それでミュータンス菌?なんかどっか着眼点が間違ってる気もするけど。」
 佐助は破顔して、政を抱き寄せた。
 「ともかく、…政が無事でよかった。」
 場所は病院の待合室だ。看護師に申し訳なさそうに声をかけられるまで、佐助は周囲に人がいることなど、忘れていた。


 その夜。ひとまず研究所に戻り途中で投げ出すことになった仕事に一区切り付け、いつもよりも早めに帰宅した佐助は、思わぬ人物をリビングに発見することとなった。片倉だ。政の事故の件を聞いたらしい。
 政との新婚生活に佐助が一念発起して買ったマンションは、だいたいにおいて理想どおりの好条件だったが、一つだけ難点があった。今は片倉が一人で住んでいる政の実家が近いことだ。佐助は片倉を苦手で、片倉は佐助を好んでいない。それも十分承知している政は専ら気を遣ってかすが曰くの「旦那の居ぬ間に」会っていたが、それでも、月に一度は佐助も片倉の顔を見ることになっている。
 片倉と佐助が顔を合わせればどうなるかなど、決まりきっている。酒盛りだ。何はともあれ酒を呑むのが、この義理の兄弟の常識だった。呑まなければ、やっていられないのである。佐助は胸中で嘆息した。時間も出来たし、夫婦で珍しくいちゃいちゃしようと思った途端これだ。天は我を見放ざれしか。
 政にお酌をしてもらい、佐助はふと政がジュースを手にしているのに気付いた。政は序盤からばんばん酒を空けていくタイプだ。どうやら酒好きの政にしては珍しく、酒を呑まないようである。傷に触るのかもしれない。微生物に関してなら詳しいが、医学についてはさっぱり知識のない佐助は、一人そう納得した。
 「そういえば、あの後医者にかかってきたんでしょ?どうだった?」
 「う、ん。その。」
 政は言葉を濁し、片倉をちらりを見やった。プライドの高い政は、例えそれが片倉とはいえ他人の前で虫歯になったなど口にしたくないのかもしれない。佐助も適当に納得し、それ以上言及するのは止めることにした。
 「今日は本当に心配したんだ。だって政は政宗と違って運動全然してないし女の子だし可愛いし優しいし。」
 「昔の私は優しくなったって言いたいの?」
 「違うけど。違うけどさあ。」
 片倉は風呂で席を外している。嬉しい配慮だと、政は酔っ払った佐助の相手をしながら思った。佐助は酔うとぼろぼろ本音をこぼす。嬉しいことも多々あれど、あまり嬉しくないことの方が政にとっては多い。二人のときならばまだましだが、人がいる場ではあまり呑んでもらいたくないとさえ思っている。昨夜も、わざわざかすがの手を煩わせてまで、酒を呑ませないようにしたほどである。
 佐助も巻き込んで禁酒してやろうか。ふと、政はそう思った。
 「政宗も政も優しいよ。二人とも、同じだ。大好き。政宗はそう思ってないかもしれないけど、政は政宗のこと覚えてないかもしれないけど。俺は大好きだよ。前も今も、大好きで変わってない。だから少しも怨んでないんだ。そう思われてるかもしれないしそんなこと覚えてないかもしれないけど、そんなことないんだよ。ロシアのエカテリーナ2世の愛人って知ってる?」
 返事はないので、佐助は勝手に説明を始めた。
 「ポチョムキンって人で、エカテリーナの最愛の愛人だったんだ。秘密裏に結婚してたとか子どももいたなんて説もあって。そんなポチョムキンは最期エカテリーナから遠く離れた場所で死んだ。任地に赴く途中で、病死だった。そんな最期に、ポチョムキンはエカテリーナの描かれたコインを目の上に乗せて、最愛の人の姿を目にしながら亡くなったんだ。」
 こうしてだらだら語るのが法螺を吹くと言われる所以なのだろうかと思いながら、佐助はずっと前から抱き続けている本心を吐露した。
 「晩年は他に寵愛が移って軽んじられて、失意のうちに死んだなんて言われてる。でも俺はそんな風には思わない。幸せだったはずだよ。だって死の間際に、最期に目にしたいと思うくらい好きだったんだ。俺も…、俺たちも、道は分かたれてしまったけど俺はそれを恨んだりはしなかったし、最期に目に映るものが政宗で嬉しかった。幸せだったんだよ。」
 政はその言葉を、佐助を柔らかく抱きしめながら聞いていた。佐助の言葉が、次第に眠気に間遠くなっていく。
 「政が政宗じゃなくても、政宗でも、俺はいいんだ。変わらず好きなんだから。だから、記憶のあるふりなんてしなくていい。覚えてなくても、新しい想い出を二人で作っていけば…好きだから、可能な限り色々二人でしたい。もっと…一緒にいたい…仕事の時間も…減らしたいし、…酒も控える…から…。だ…から、」
 それきり佐助は静かになった。政は佐助の髪を優しく梳いた。
 「また法螺ばっか。」










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