佐助はグラスの半分以上が泡で占められているビールを、物悲しさに襲われながら呷った。
「できたいい奥さんだよね。美人だし。」
上司の言うとおりなのだ。政はひじょうによくできた奥さんで、その上美人だった。香水を振りかけているわけでもないのにいつもいい香りをさせて、生もの相手の仕事で佐助が長期休暇を取れないことをちゃんと理解してくれて、帰宅が遅くなりがちで泊まりこみも多い佐助の帰りを文句も言わずに待ってくれている。意地の悪い同僚に言わせれば、旦那の居ぬ間に、ということらしいがそれでも政は大した奥さんだ。頭が上がらない。
「欠点ないんじゃないの?無敵だよね。うちのかみさんなんか、昔はそこそこだったんだけど、子供産んだらまるまると太っちゃったし、旦那を顎で遣う術も覚えたし。さんざんだよ。」
上司のぼやきに、それまでメールを打っていた同期のかすがが、いそいそと携帯をバッグにしまいながら答えた。
「旦那が唯一の欠点というやつでしょう。」
「…ああ。」
誰も彼もがこの答えで納得するのが、佐助には不満だった。佐助は苦笑しながらも頷いた上司に恨みがましい視線を向けて、再びビールを呷った。グラスに張り付いていた泡が、ぽとりと僅かに落ちてきただけだった。
手酌が何だ。佐助はビール瓶に手を伸ばした。その指先で、小憎らしくもかすががビール瓶を掠め取り、上司にお酌した。上司に向けたものよりも恨みがましい目付きになってしまったのは、いたし方あるまい。
そんな佐助を鼻先で笑い、かすがは瓶を置いた。ご丁寧にも、佐助から一番遠い場所だ。佐助は立ち上がった。上司の話を中断させないようわざわざテーブルを回りこむ。
手に取った瓶は、空だった。
「猿飛くんの今までの人生で驚いた出来事ベスト三って、やっぱり奥さんと付き合えたこととか?」
佐助の胸中も知らず、上司が暢気に尋ねてくる。
「ええ、まあ似たようなもんですね。」
試しに逆さにして上下に振ってみるが、白い泡がぽたりとグラスに落ちただけだった。佐助は思わず顔をしかめた。俺が何かお前にしたか。目を向けた先では、かすがが素知らぬ顔でサラダを突いていた。
「一番は?」
「嫁と出会えたことです。」
まさか来世でも会えるなど、思っていなかった。上司が笑う。
「なかなかロマンチストなこと言うんだね、猿飛くん。もっと現実主義者なのかと思ってたよ。二位は?」
「嫁がプロポーズを受けてくれたことです。」
かすがが口を挟んだ。
「付き合ってもいないのにプロポーズするなど、馬鹿でしょうこいつ。」
顔は向けずとも聞き耳はしっかり立てているらしい。俺が、何か、お前に、したか。佐助はもう一度胸中でかすがに尋ねた。今生でかすがに迷惑をかけているつもりは、佐助には毛頭ない。前世の恨みを持越しされたか。
上司がほがらかに感想を言った。
「それが二位?すごいね猿飛くん。たしかに驚いただろうね。三番目は?」
「その後すぐに、嫁が『どうせ、いつもの法螺の類でしょ?』と言ってきたことです。」
「だから馬鹿なんですよ。こいつ。」
かすがの冷たい台詞は、佐助の繊細な心に突き刺さった。
「なあ、俺様お前に対して何かした?」
上司が席を立った隙を狙い、佐助はかすがに話しかけた。かすがは面倒臭そうに、佐助を見もせず答えた。
「別に。」
「じゃあ何で嫌がらせすんだよ。あれって嫌がらせだろ?」
「別に。嫌がらせというほどでもない。」
じゃあ何だと佐助が問い詰める前に、かすががようやく顔を上げた。
「単に貴様が気に食わないだけだ。」
佐助は脱力した。
「それを嫌がらせって言うんじゃないの?」
「知るかそんなこと。というか、俺様など。いい年して気持ち悪いぞ、貴様。」
かすがの理不尽な言い分は、前世とまったく変わらない。佐助は若干遠い目をした。なにか本気で、これほどまでに、転生後も引き続き嫌われるようなことを自分はしただろうか。かすがはもう話は終ったとばかりに、携帯でメールを打っている。どうせ同居している謙信への、帰宅遅れますメールだろう。佐助はわざとらしく聞こえるように溜め息を吐いた。
「みんなさあ。俺に対してばっか、辛く当たりすぎじゃない?」
かすがと対峙すると使ってしまう「俺様」を、言わないよう意識して努めた。
「当然だろう。貴様の扱いなどそんなものだ。もっと自分は優しく扱われて当然だとでも思い上がっていたのか?」
「…いや、そこまでまさか反論されるとは思いませんでしたけども。」
まじまじと、本気で意味がわからないという風にかすがに見つめられ、佐助は泣きたくなった。
「大体みんなとは、誰を指す。」
「片倉さんとか…政もそうといえばそうだし。旦那とか大将なんて俺のこと覚えてすらいないし。」
「片倉が貴様に辛く当たるのは当たり前だろう。前世のことも覚えているし、第一、今生では貴様はあの者の最愛の妹を盗った不届き者ではないか。」
かすがに鼻先で笑われた。
「…まあ、そうですけどね。うん。俺も政の家族に挨拶しに行ったら実のお兄さんが片倉さんで、腰が引けたよ。いや。親御さんがいないから代わりに一人で育て上げて素晴らしいと思うけど。でも。俺締められたんだぜ?」
「それくらい当然だ。」
やはりかすがの反応は冷たい。酒が入っている佐助も、自分がとんでもなく駄目人間なのではないかと次第に思い始めてきた。気を紛らわすため酒を呷ろうにも、グラスは空だ。ビール瓶はやはり、佐助から一番遠い場所に置かれている。
溜め息を吐いて手を伸ばした佐助の指先で、やはり、かすがが瓶を掠め取った。残り少なかったビールが全て、かすがのグラスへ注がれてしまう。佐助はじと目でかすがを見つめた。かすがが煩わしそうに佐助をにらみ返す。
「それで、政が辛く当たるというのはどういうことだ。貴様相手にしては目から鱗が出るほどの扱いではないか。私だったら貴様など身包み剥いで銀行の残高全部差し押さえてさっさと離婚するぞ。というか、そもそも入籍などという愚行を犯したりしない。」
「それはどうもありがとう俺もいくらかすがが美人でも結婚したいとは思わないから安心してくれ。」
「話を逸らすな。それで?」
話を逸らしたのはお前だろうと口を滑らしそうになったが、それこそ、何を言われ返すかわかったものではない。佐助は泣く泣く口をつぐんだ。
「いや。政って前世の記憶あるのかないのかよくわかんないから。辛く当たるってのとはちょっと違うけど。」
「貴様、結婚して何年だ。未だにわからないなど、馬鹿か。いっぺん死ね。いや、一回では生温い。ずっと死ね。」
佐助はかすがの罵倒を黙殺することに決めた。
「結婚して3年、出会って5年だけど。本当にわかんないんだよ。プロポーズのときの話もそうだけどさ。俺が前世だとかなんだとかって、これは運命の恋なんだって主張したいがためのホラだと思ってんじゃないかな。それを楽しんで口裏合わせてるって感じが、すげえするんだけど。それに、旦那とか大将はまるで変わらないのに、前の記憶がないじゃない。それが普通なんだろうけど。だから、性別が変わっちゃってる政なんて、それこそないんじゃないかとも思うわけで。」
佐助は大きく溜め息を吐いた。
初めて、佐助が意を決して前世のことを覚えているかと尋ねたときも、そうだった。政は一瞬驚いたような顔をしてから、当然だと笑った。最初は、有頂天だった。政の返答に浮かれた佐助は、べらべらと過去を話した。過去の思い出を語るたびに、政がにこりと頷くのが嬉しかった。政が巧く佐助の言葉を反芻して聞き出しているだけで、自分からは何も言っていないという事実に気付いたのは、結婚して1年経ったころだった。
「なんであんなに口がうまいんだかわかんないよ。生れ変っても、俺じゃ勝てないってことなのかな。」
「ふん。貴様如きが勝てる相手などこの世界の何処にもいないわ。せいぜいみじんこ…いや、ミュータンス菌程度だな。」
「…虫歯の原因に例えてくれてありがとう。あれ?かすがって今虫歯について調査してんの?あれって、うちの管轄じゃないよな?」
佐助は首を傾げた。
佐助やかすがの勤める研究所は、大企業の下請けをしている。飲食物に含有させる乳酸菌や有益菌について発見、調査するのが主な仕事だ。一応研究施設として大それた実験もしたりしてはいるのだが、いかんせん資本主義経済の中にあっては研究内容など限られてくる。スポンサーがつかねば仕事にならないのが原因だ。だから虫歯のもとになるミュータンス菌など、百害あって一利なしだった。
「趣味だ。ちょっと頼まれてな。」
珍しく歯切れの悪い口調でかすがが返した。不思議に思った佐助は何かあるのか尋ねようとしたが、止めた。わざわざ藪を突くこともないだろう。
「ああ、あと。それにね。政は運動を一切やらないんだよ。興味ないんだって。…政宗、だったら、それこそやりそうなもんじゃない。」
「…全然してないのか?あれだけ多趣味なのだから、少しくらいしてそうだが。実際、今知るまでしているとばかり思っていた。」
「それが、どっかの女医さんみたいに、運動なんてしなくても生きていけるとか豪語しちゃってて。」
佐助は近年よくテレビに出ている女医を脳裏に浮かべた。あれもタレントという枠組でいいんだろうか。
「それにさっきも言ったけど、女の子になってたから。わかんないんだよね。俺もかすがも片倉さんも、強く望んだことが叶ってるじゃない。俺だったら、旦那の傍で生れ変って、できれば今度は政宗と幸せになりたいって願い。かすがだったら、上杉謙信、」
「謙信様だ。様をつけろ。」
「そう、その謙信様の傍で生れ変ったし、その謙信様はやっぱり大将とよきライバル関係でしょ?片倉さんは政宗の家族関係を十二分にわかってたからだろうけど、家族になってしかも一番近くで守れる立場で。やっぱり政を守ってるわけじゃん。なんで、政は女の子なのかさっぱり見当もつかなくて。公で結婚できたから良かった気もするけど。でも、政宗はそういうの気にしないと思うんだよなあ。だいたい、女の子になりたいなんて望みを抱くにはもっとも遠い人物な気がするし。それは姫若子じゃん。」
かすがからの返答はない。またメールを打っている。結局独り言になってしまった呟きに、佐助が残っていた煮豚を箸で突いていると、上司が意気消沈した様子で帰って来た。
「悪いんだけど、うちのかみさんが怒ってて。鬼のようなので帰るね。代金先に払っておくから、まだ楽しんでてよ。」
「いえ、私ももう帰ります。」
鞄を手にすっくと立ち上がったかすがを、佐助は恨みがましい目付きで見上げた。
そんなに俺のことが嫌いなのか。
ぽたりと煮豚のたれが落ちて、卓上に円を作った。
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