「…それで、政様。本日はどのような用でわざわざこちらまで?一言申して頂ければ、いつも通りこちらから伺いましたものを。」
顰め面に強面で頬にはどういう経歴でついたのかまるで検討がつかない傷痕のある、ここが道場だと知らなかったら明らかにヤのつく職業の人だと勘違いしたに違いない男の言葉に、挨拶に来たはずの佐助はまだ玄関に到達したばかりであるにもかかわらず、早速逃げ出したくなっていた。
男は伊達の、特に政の側近として育てられた、片倉小十郎という者だという。
(側近ってどんな家柄なんだよ本当にさあ!ていうか帰省しないのって、こっちの人が政のとこに来ちゃうから来る必要がないってだけ?!)
恐ろしい顔で睨みつけてくる片倉にめげないよう必死に笑みを貼り付けながら、佐助は居住まいを正した。片倉が政の舅だか兄だか何に当たるかなんてわからないが、ここで負けたら、きっと佐助は政との結婚を許可してもらえはしないだろう。佐助も伊達に探偵をしているわけではないので、それくらいのことはわかった。
佐助は汗で湿った掌を拭い、お辞儀と共に片倉に向かって差し出した。
「はじめまして、猿飛佐助と申します!政さんを俺にください!」
佐助にしてみれば恐怖と緊張と根性で混乱の中選択した、というよりはつい漏れて出た行動だったが、やはり片倉の視線は相も変わらず厳しかった。むしろ、政が久しぶりに帰省してきたと思ったら男を連れて、かつその何処の馬の骨とも知れないような男が政の恋人で、大事な主を嫁にくださいなどとほざいたものだから、片倉の眉間には新たに深い皺が刻まれ眉間には青筋が浮き、そういう点から判断するに、更に事態は硬直したどころか悪化したと言うより他になかった。
「…。」
片倉に差し出したまま握られることもなく、かといって佐助にしてみれば戻すことも出来ず、宙ぶらりんの手が、痛い。
「それくらいしてやったら?小十郎。彼氏さんが可哀相じゃん。」
末恐ろしいほどの沈黙と漲る緊張感に最初に音を上げたのは、片倉と佐助の対面をそれほど大変なものだと認識していなかった当事者であるにもかかわらず現状を理解できていない政ではなく、いつの間にこちらへと近付いていたのか、分家から本家に養子入りした政の従兄弟にして義弟の成実だった。
「はじめまして、えーっと、さる…なんだっけ?」
「さっ、猿飛佐助です!」
成実に名前こそ覚えてもらえていなかったものの、そもそもいつからやり取りが見聞きできる場所に居たのか定かではないのだからしょうがない。佐助は天使が現れたと、それこそ実際には人目を憚ってしなかったものの涙を流す勢いで喜んだ。
「さるとびさすけ、さん?オレは伊達成実。まあ、そんなところでなんだしさ。こっちの応接間においでよ。梵から連絡あったから、もう飯の準備もしてあるし。」
ガタイこそ小十郎に負けず劣らず良いものの、にこりと人好きのする笑みを浮かべた成実に手招かれ、ご挨拶という戦いの舞台は応接間へ移ることになった。
その後、佐助と片倉の戦いは膠着状態を見せ、しかし夕食や成実や新たに登場した側近の鬼庭も交えながらということもあってか、玄関とは打って変わって表面上だけは始終和やかだった。勿論、表面上は和やかになったとはいえ、片倉の佐助に対する態度は何一つとして変わっておらず、だが佐助は冷や汗を掻きながらも懸命に話しかけ取り成してもらおうと努力していた。
いつだったか、高く登れないような山がそこあるなら登ってみなければならないと信玄が言ったことがあった。佐助にしてみれば「そこに山があるから登る」なんていうのは結局山を登る説明には何らなっていないし、第一意味がわからないナンセンスだと思っていたが、なるほど、こうして高く険しく天まで届くような先の見えない山を前にすると、不思議に人はもう止めよう引き返そうという挫けそうな思いに駆られながらも進み続けてしまうものなのか、と佐助は痛感した。
喜多と名乗る、片倉の腹違いの姉で政の乳母も勤めたという和服美女が凄まじく高そうな会席料理を振舞ったが、生憎、佐助は緊張しすぎて味を覚えていない。主に片倉の射抜くような視線のせいで百鬼夜行並みに恐ろしいドロドロとした食事を終え、佐助はしなれぬ正座で痺れた足を奮い立たせ、席を外そうとした。
しかし、
「おい、そこの。」
佐助はその地に響くような低い声に誰が呼ばれているのかわからず、正直言ってしまえばわかりたくなかったが、それでも半分諦め残り半分は男の意地で声の主の方へと振り向くと、丁度、片倉が渋面で一升瓶片手に立ち上がるところだった。
「酒を飲むから付き合え。」
首を大きく左右に振って心底辞退したい佐助の心情を知ってか知らずか、成実が事の成り行きにどうしようか思案している政の腕を引いた。
「じゃあ、梵は久しぶりに道場の方に顔出しなよ。もう10年も経ったし、オレ毎日頑張ったし、今ならもしかしたら梵に勝てるかもよ?佐助さんは小十郎と男同士でさし飲みするみたいだからさ。」
「成実がそういうんだったら行こうかな。」
政がどういうつもりで言ったのか、おそらく佐助と片倉の不穏な空気など気付かず、笑みを浮かべた表情のままの気持ちで放ったに違いないのだが、それは佐助にとっては死の宣告に他ならなかった。
「じゃ、佐助。そういうことで小十郎と仲良くな。あんま飲みすぎんなよ。」
「じゃあ、政様。行きましょうか。」
「綱も行くのか。」
「ええ、二人で話したいこともあるでしょうし。私は邪魔でしょうから。」
成実や鬼庭と暢気に会話をしながら、政はとうとう閉じられた襖の向こう側へと消えてしまった。
前門も後門も小十郎、つまりは四面楚歌の現状に佐助はもはやどうしたら良いのかわからず、引き攣った笑みを浮かべた。
「小僧、行くぞ。」
「…はい。」
肩に置かれた手は万力のように強く、佐助は己がどう足掻いたところで逃れられないことを悟った。
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