大きな仕事を始めるにはまず手近なことから始めよ。
また、何事をするにしても、言い出した人から始めよ。
旺文社『標準国語辞典[新訂版]』より
場所は大坂。敵軍は徳川―――と、伊達。
「まーた、くだらねえことしてんなあ。武田の忍び?」
そう言って、にやにやと人の悪い笑みを浮かべる伊達軍大将政宗に、佐助は仮面の下で顔をしかめた。同盟国である徳川の援軍として、参軍しているのだろう。まったく、嫌な御仁に会ってしまった。
佐助が天狐仮面として出陣し、幸村を影から支援するようになったのは、ごく最近のこと。武田総大将信玄が、火男仮面として活躍するようになったのと時を同じくする。ぶっちゃけ、信玄の差し金である。佐助もしがない雇われ人の身であるので、こんなこと、言いたくはないのだが、この狐面、まったくと言っていいほど正体を隠す役に立っていない。もっとも、面白いことが大好きな信玄には正体を隠す気が更々ないのであろうし、これで幸村が仮面男たちの正体に気づかず、手助けされるたびに首をひねっているので、問題はないといえばないのであろうが。いや、しかし。
足掻いたところで詮無きこと。信玄は興に乗ってしまっているし、佐助に選択権は与えられていない。不満は飲み込もう。
ともあれ、そうして出陣するたびに相対するのが、今もこうして対峙している敵武将伊達政宗である。女のくせして男勝りで、そこらの男では真似できないような六爪流なんて特技があり、佐助では太刀打ちできないような不当な実力の持ち主である。そのくせ、母譲りで目許も性格もきついが、端正な美貌に、誰よりも柔そうな肢体を持つ女だ。かすがのようにはちきれんばかりの健康的な肉体美を持つわけではないし、お市のように触れなば手折れそうな脆さと妖艶さを持っているわけでもない。しかし、腹の底から悔しいけれども、政宗が、道行く十人中十人が振り返るような美人であることは否定できない事実である。もっとも、そのうちの幾人かは、政宗の引き連れる強面の部下に恐れをなして、戦々恐々と、振り返るのであろうが。
そんな政宗のことが、佐助は敵軍の忍びとしても、一介の男としても、勘に触って仕方ない。
佐助は馬鹿っぽい仮面を外して、苛立ちも露に溜め息をこぼした。
「俺だって、馬鹿なことしてるって思うよ。部外者が、武田の問題に口出ししないでくれる?」
「自覚はあるのか。」
ふーん、と、事も無げに呟かれた言葉に、佐助はかちんと来た。天狐仮面?自分がどれだけくだらない格好をしているか、自分が一番、承知している。それを、今更、とやかく他人に言われたくない。佐助は苛立ちのままに吐き捨てた。
「うっさいなあ。俺のことなんて良いから、自分のことでも気にかければ?良いトコの姫君が戦場なんて闊歩しちゃってさ。恋の一つでもして、女らしくなりなよ。そんなだから、嫁き遅れてるんだよ。」
十九といえば、立派な嫁き遅れだ。破れかぶれの佐助の指摘は、どうも、政宗の痛いところをついたらしい。政宗は、それまで浮かべていた人の悪い笑みを引きつらせた。
「…隗より始めよ。その言葉、そっくりそのままてめえに返してやる!」
「忍びは影で生きる存在なんですー。恋なんてする必要なんてありませんーー。」
握り締められた拳が、怒りにわなわなと震えている。佐助は殴られてはかなわないと一歩下がってから、子供じみた答えを返した。
痺れを切らしたのか、政宗が抜刀する。
そうこなくっちゃ、と、佐助も得物を構えた。
「失礼すぎるっていうか、まったく、憤慨ものですよね!」
佐助はそう言って、包帯と湿布だらけの腕で幸村に茶を差し出した。自分が天狐仮面だとばれてはことなので、色々とはしょって、政宗との邂逅を話した締めくくりがこの台詞だった。ちなみに、包帯や湿布は政宗とのやり取りで生じたものだ。対して、政宗にはどれだけの怪我を負わせたのか…己が惨めになるだけなので、語りたくない。
それまで、佐助の愚痴ともつかない語りを黙って聴いていた幸村は、常になく戸惑った様子で佐助を見やった。
「俺には良く分からぬが…佐助は、その御仁が好きなのか?」
うっ。我が主ながら、意外と敏い。
佐助は満面の笑みを浮かべたまま、幸村に茶請けを差し出した。
「旦那、団子でもどうぞ。」
「む。すまん。」
山積みにされた団子が次々消化されていく。もうこの話題は終わり、地雷は回避されたものだと安堵し、その場を下がろうとした佐助を引き止め、幸村が爆弾を投げつけた。
「それで、佐助は通うのか?」
沈黙を破った言葉に、ぎょっとして目をくれれば、幸村はむしゃむしゃと団子を食べている。これは、返した方が良いのか、放っておいた方が良いのか。しかし、放っておくと残される謎が気になる。結局、佐助は一呼吸置いてから、幸村に返した。
「…はあ?何がですか?」
しれっと幸村が答える。
「違うのか?その御仁が告げた、隗より始めよ。恋人の座が欲しいなら、贈り物の一つや二つ持って通うことから始めろ、ということではないのか?」
どういう思考回路だ、それは。と、佐助は思ったが、中々どうして、政宗と思考回路の似ている幸村である。隗より始めよ。大きな仕事を始めるにはまず手近なことから始めよ。それが転じて、そんな意味になるのかもしれない。
続けて、物騒な台詞を幸村は言った。
「政宗殿に宜しく伝えておいてくれ。」
ああそうですか。もうわかってるんですか。
恋愛音痴の幸村にばれてしまうのだ。ならば、異常に敏い政宗のこと。佐助の気持ちに気付いても不思議ではない。面倒なことになったと溜め息をこぼしながら、佐助はようよう立ち上がった。
今度は幸村も引き止めなかった。
土産には何を持っていくべきなんだろう、なんてことに頭を悩ませながら、ふっと、佐助は戦場での会話を思い出す。
『恋の一つでもして、』
幸か不幸か、佐助は知っている。
恋はするものじゃない。落ちるものなのだ。
初掲載 2009年5月4日