狐が桜を散らしたため、今宵は盆踊りが催されるということである。確かに資料には記載されていたが、突然の事態にどうも頭がついていかない。浴衣とは涼しいものだと思っていたが、案外暑苦しいものだと思いながら、りょうは浅く息を吐きながら帯に手を当てた。着慣れない浴衣は借り物ということもあってか何処か息苦しいが、品の良い高そうな浴衣だ。芙蓉の花が散りばめられた図案となっている。りょうが民俗学に身を投じることになった切っ掛けも、先程夢に出てきた花も芙蓉である。芙蓉とは何か浅からぬ縁でもあるのではないか。りょうは帯締めが甘くないか点検しがてら、一度くるりと回った。見苦しい点はないようだ。
「支度はできたか?」
「あ、かすが。ああ、大丈夫だ。」
「そうか。教授が玄関でお待ちだ。」
面の着用はどうなるのだろう。やはり借用するのだろうか。ぼんやりと考えながら、りょうはかすがの後についていった。
「盆踊りは山で行われるそうだ。」
「山?山は禁忌の象徴で踏み入れることすら適わないんじゃないのか?」
「盆踊りは花鎮めならぬ狐鎮めだ。狐が最初に大木に変えた桜の木の下で行われるそうだぞ。きっと花鎮めの意味も込められてるんだろう。」
花鎮めは、正式には鎮花祭という。宮中で行われた行事の一つであり、陰暦三月花の散る頃、疫病の流行を鎮めるために行われた神事だ。平安時代には、宮中や各地の神社で行われた。
「花鎮めと同義ってことは、狐は未だに災厄の象徴なのか…?ていうかマジで神仏がちゃんぽんだな。」
「そういうな。狐なりにない頭を振り絞って色々考えたんだろう。」
かすがが上杉に心酔しているというのは、大学内でも有名な話だ。早く上杉のもとへ着きたいのだろう。早歩きで進むかすがに、りょうは何処か羨望のようなものを感じた。今まで十九年あまりの生で幾度か異性からのアプローチは受けたことがあったものの、付き合う気にはなれなかった。夢見る乙女という訳でもないと思うのだが、なまじそこらの男より出来るだけにそういう気になれないだけなのか、恋に夢を抱いているのか。そのうち亡父の残した会社を継ぐ上で見合いをし、結婚するのだろうが、今は二つの選択肢に挟まれながら、祖母の孫が早く見たいという願いに辟易される日々である。
「ああ、やってまいりましたか、ふたりとも。そのすがた、よくにあっていますよ。」
りょうとかすがを褒める上杉の方こそ、艶やかといった浴衣風情だ。世辞ではなく本心からの言葉なのだろうが、返事に困りりょうはとりあえず笑った。隣ではかすがが頬を染め、潤んだ瞳で上杉を見詰めている。
「さあ、まいりましょう。こよいは、おさきのまつりですからね。おさきのぬしは、すでにやまへとむかっていますよ。」
上杉に導かれ、山中の巨桜に向かう。あぜ道を通り山に至る手前で、涼やかな目を優しく細め上杉が言った。
「なはたいをあらわす、とはよくもうすものですが。かなしいことですね。なでほんしつはかわらぬというのに、ひとは、みずからなにしばられる。ときに。そなたは、なにかんじをあててみたことは、ありましたか?」
「名前に漢字を、ですか?」
唐突に尋ねられ、質問の真意を測りかねたりょうは内心首を傾げつつ答えた。遠くからお囃子が聞こえてくる。
「いえ。随分長い間向こうに居たので、あまりそういうことは…。アメリカはアルファベット圏でしたので。」
「では、いま。なにかんじをあてるとしたら、いかがします?」
「りょう…だから、涼しいでりょうとか良好のりょうとか諸葛亮のりょう辺りじゃないですか?妥当な線では。」
「ふふ、だとう、ですか。」
何かおかしいことでも言っただろうか。反応に戸惑い上杉を見やった際、ふと、りょうの目は上杉の持つ団扇の図柄に引き付けられた。上杉の家紋だろうか。飛んでいるのか休んでいるのか、竹林を背景に二羽の雀が相対している。くちばしはそれぞれ阿吽、つまり開閉の形となっており、目は怒らしたように描かれていた。りょうの記憶が定かではないが、これは武家としてのいかつさが表現されているもので、上杉や伊達に見受けられる家紋の類ではなかっただろうか。確か、上杉の家紋が伊達に伝播される形だった気がした。それにしても、とりょうは目を眇め図柄を仔細に観察した後、まじまじと上杉を見た。何処か浮世離れした人だとは思っていたが、実は上杉はかの武将上杉所縁の人間で、それゆえに世俗を捨てた神々しい雰囲気を纏っているのだろうか。図柄は、うろ覚えの上杉謙信の家紋に良く似ていた。
「しっていますか?」
「、何がですか?」
りょうはつらつらと考え事をしていたため、一瞬、上杉への反応が遅れた。向けた視線の先でゆったりと上杉が、菩薩めいた笑みを浮かべ、漢音ならばと答えた。
「かんおんならば、りょうは「竜」ともかけるのですよ。」
桜の麓に辿り着くと、方々で空を明るく照らしながら盛大に燃え盛る火が目に付いた。盂蘭盆に焚く火は祖霊を迎えるための迎え火、送り出すための送り火だが、この火に何の意味が込められているのかりょうには見当がつかなかった。橙に染まりながら、炎と共に揺れる影を引きつれ、大勢の人々が面をつけ踊っている。神木村の何処にこれだけの人間が隠れていたのだろう。立ち尽くすりょうの肩に、上杉が優しく手を乗せた。
「ぼんおどりのさいちゅう、めんをつけているかぎり、おさきはひとではなくきつねといわれています。しかもこたびは、ほんものの「おさき」ですよ。そなたに、だれが「おさき」だかわかりますか?」
上杉に促されたりょうは、一歩、踊り続ける人々の方へ足を踏み出した。尾崎の人間は、尾崎家の玄関に飾られていた狐面を着用する義務がある。誰が尾崎の者かなどすぐさまわかるはずだった。人々の面を見回しているりょうの踝を、まるで何かが通り過ぎ様に掠めたように、生温い風がふわりと撫ぜた。僅かに鼻を刺した、獣の香り。足元を見るが何もいない。気のせいだろうか、りょうは軽く頭を振り、人々の輪の方へと再び目線を向けた。
幻聴、かと思った。
『ねえ、当てられそう?』
耳元で囁かれた声に目を見張り、りょうは慌てて周囲を見渡した。誰もいない。だが、声は続く。
『当てられないなんて、許さないけど。当てられそうかい?アンタが見つけないと、旦那が哀しむんだ。』
再び近くに風を感じた。
『旦那の今の名は信繁。でも俺様たちと違って人間に名は関係ない。人間の本質を変えるには至らないから。でも人間は名に縛られる。知ってるでしょ?俺様は、アンタほど名に縛られた人を知らないよ。ねえ、姫さん?』
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