尾崎綺憚 第七話   転生パラレル


 『もしお前が。もしお前が、五年経っても俺のことを忘れないで想っているなら。』


 盂蘭盆である。なおざりに設えた間隔からして乱れている雑な作りの竹作からは、民の躍る様子が良く窺えた。突然ふらりと訪れた女に驚くでもなく、近習に一言くらい告げてから来るよう小言を垂れた年下の巫女は先程まで隣に鎮座していたが、村の男たちに担ぎ出され盆踊りへと向かってしまった。少女が何時になく憂えた様子の女を気にかけてくれているのはありがたかったが、一人静かになりたい女はひらひらと手を振り、少女の退散を見送った。四半刻もすれば女の素っ気無さも忘れ、少女は兎の面を手に朗らかに微笑っていることだろう。農民気質とでもいうのか、少女の明け透けない柔らかさが女は好きだった。
 はっと胸をつかれたような思いで、女は縁側から腰を浮かした。円になり踊る人々の群れに、男の姿を見た気がした。女は力なく額に手を添え、首を左右に振った。そんなはずがない。男は半年ほど前に西で起こった大戦で落命していた。天下を決する戦だった。敵武将として直接女が手にかけた訳ではなかったが、男の遺体は女自身検分している。
 幼少の頃に患った痘瘡で右目を失い、政略的婚姻を諦めた父によりせめてもと、生誕前に母が見たという夢に希望を託し中興の祖の名を戴いた女が、その名を捨てることは出来なかった。女の現在の名は、女だけのものではない。名に込められた希望に沿わぬことは即ち、祖先を辱め、亡父を哀しませ、何より自らのこれまでの生を全て否定することに他ならないように感じた。長い時を共に過ごすうちに、五年前男が吐露した言葉が嘘偽りの類でないことなど、幾らその事実を否定したい女でも認めざるを得なかった。
 だが結局、名を、家を捨てるなど。最後まで女には出来なかった。
 後一押しあればあるいは違う未来があったかもしれない。女は唇を噛み締め、例え口に出さぬとしても己に都合の良い言い訳を思ったことを恥じ、ゆるく頭を振った。
 「…あれから、今日で丁度五年だ。」
 自身の声が想像以上に頼りないものであることに気付き、女は項垂れた。こんなはずではなかった。いつの間に、己はこれほどまでに男に心を奪われていたというのか。女は顔を上げ、踊る人々を見やった。盂蘭盆は死者が帰ってくる日である故に、盆踊りには死者も面で素性を隠して参加しているという。あれは、男だったのだろうか。女は耐え切れず、祭りから目を背けた。あれが男であろうとなかろうと、女には関係ない。例え、盂蘭盆に帰って来た死者に気付いても声をかけてはならないのが風習だ。女はきつく唇を噛み締め、その場を離れるべく縁側から立ち上がった。
 かたり、と後ろで音がした。
 竹柵が倒れでもしたのだろうか。女は後ろを振り仰ぎ、思わぬ事態に首を傾げた。包布で巻かれた箱が庭に鎮座していた。誰かが今、外から内へ放ったのだろうか。それにしては丁寧に置かれた感のある箱に、女は見覚えがあるような気がして近付いた。恐る恐る手に取った箱は思ったよりも軽い。中にどんな箱があるのかと包布を捲った女は、包布に入れられた絵に小さく息を飲んだ。見覚えがあって当然だ。何故か一羽欠けているが、元々は雀が二羽竹林を背景に相対している絵は、女の家紋だった。その上、いつだか男に茶を教えた折に茶箱を包んだ布ではないか。驚愕しながら女が視線を落とせば、当然のように、箱はいつかの茶箱だった。女は我知らず震える指先で、茶箱の蓋を開けた。
 「、っ。」
 中に詰まっていたのは茶箱と共にいつか渡した、振出し、棗、茶筅筒、茶巾筒、香合、お茶碗ではなかった。五年前の今日、他愛なく好きだと告げた芙蓉の花弁が縁いっぱい納まっていた。その中で青く光るものがある。女は尻込みする己を叱咤し、花弁の中からそれを摘み上げた。神秘的な深い色合いを表す青い玉のつけられた指輪。異国では婚姻の証に指輪を交わすのだと告げた記憶が甦る。
 玉は、翡翠だった。
 村里を背に、旦那旦那と鳴きながら、一匹の狐が野を駆けていく。一度だけ狐は後方を振り返ったが、それ以来、憑かれたように山野を走り続けていた。主と出会った山に帰るところなのだ。振り返る時間すら惜しい。狐の周囲では鳴きながら雀が舞っている。主と引き離され連れてこられたことが不満なのだろう。狐は丸く小さい目を雀に向け、こん、と高く鳴いた。雀の気持ちはわからないでもないが、雀のこの主を愛おしむ想いが、帰巣本能ともいえる愛情が、きっといつか必要になる。
 『旦那が姫さんと再会するのに、お前さんの助けが必要になるんだよ。』
 振り返らずに狐は直走る。俺様は約束を果たしたよ。姫さんにちゃんと渡したよ。ねえだから戻ってきておくれよ、早く。旦那も約束を果たしておくれよ。死んでも戻るって言っただろう。俺様はずっと変わらないでいるからきっと旦那はわかるだろう。旦那や姫さんが来やすいように桜を植えて待ってるよ。大きな桜は色々なものを呼び寄せてくれる、何年経ったか忘れないよう毎年一本ずつ、旦那が姫さんに再会できる日まで植え続けるから。ねえ。
 『早く、帰ってきておくれよ。』
 物悲しい狐の鳴き声は、静かな夜に響き渡った。


 とっさに、りょうは男の袖を引いていた。


 『勘違いではありませぬ。如何したら、信じて頂けるのか?』
 『もしお前が、』
 『もしお前が、五年経っても俺のことを忘れないで想っているなら。何かその証を。』


 『変わらぬ思いを示せるなら、俺は、お前の言葉を信じよう。』


 「幸村。」
 幸村と呼んだ男の面を、りょうは慄く指先でそっと外した。そうだ、幸村。確か男の名は幸村だった。見たはずがないのに、誰よりも見覚えのある顔。伏せられた瞼が上げられ、赤褐色の瞳が意志の強さも露わにりょうを見詰めた。
 「政宗殿、」
 幸村が柔らかい笑みを浮かべ、現世ではりょうという名の政宗を抱きしめた。
 「政宗殿、信じて頂けるだろうか?」
 愛おしさ、嬉しさ、悲しさに咽喉が震えた。
 「随分約束の時から経ってしまったが、某は未だ、政宗殿のことが好きだ。」
 熱っぽく恥ずかしげもなく真っ向から告げられた台詞に、政宗は黙って幸村の肩口に額を押し付け、厚い背中に腕を回した。きつくきつく、浴衣を握り締めた。
 涙が止まらなかった。


 「お前にしては随分気長に辛抱強く待ったものだな。」
 いつの間にか隣に立っていたかすがの言葉に、巨桜の枝に腰を下ろし、下の幸村と政宗の様子を窺っていた佐助は小さく笑った。
 「そう思う?」
 「ああ。不本意ながらお前とは随分と長い付き合いになるが、それでも、こんなのは初めてだろう。」
 「だって旦那のためだもの。かすがだって、軍神さんが頼めばどれだけでも待てるだろ?それと同じさ。」
 かすがは眉根を寄せ、小さく嘆息した。その昔、上杉と一時でも離れねばならない事実を受け入れられず、かすがは苦心して手に入れた人魚の肉を食べさせた。己のことを忘れているかもしれない、もう会えないかもしれない。そんな不確定な未来に縋るのはかすがの性に合わなかったし、耐えられなかった。かすがをちらりと見やった後、ぶらりと二本の足を嬉しそうに上下に揺らし、人の形をした佐助が呟く。
 「旦那はね、姫さんに会った時から知ってたんだ。今生じゃ叶わない恋だって。」
 「…そうか。」
 何処からともなく飛来した雀が人差し指を差し出した佐助の誘いを断り、頭に腰を落ち着けた。
 「まだ戻らないの?でも、この数百年で愛着も沸いちゃったし、お前が行っちゃったら俺様は寂しくなっちゃうしなあ。」
 ちゅん、と首を傾げ雀が鳴き、佐助がゆるく笑う様をかすがは横目に眺めた。佐助の仕える真田幸村という男を、かすがは憎い男の部下だった青年という程度しか知らなかったが、あの佐助が心酔する人間なのだ。そう悪い人間ではないのだろう、と一人ごちる。
 狐は情に深いという。
 今までかすがは信じていなかったが、本当だったようだ。佐助の幸村たちを見詰める目は、上杉を慕うかすがの恋に勝る想いなど存在しないと信じているかすがが、思わず嫉妬するほど温かく優しかった。想いを物差しで測れるはずもないのだが、何となく敗北感を感じ、かすがは鼻を鳴らした。
 「それはそうとお前はこれからどうするんだ。もう目的は果たしたのだろう。」
 「どうするって、…勿論旦那の傍にいるに決まってるじゃない。これまでと一緒だよ。旦那の生は、今回だけで終るんじゃないんだって俺様はもう知ってるからね。一緒に生きて、それからは気長に待つよ。今度からはその中に、姫さんも加わっただけの差で。何にも変わらないよ。」
 お囃子の音は変わらず響き渡り、火は夜空を明るく照らしている。束の間の沈黙の後、ふっと佐助は思いついたように洩らした。
 「ああでも。」
 中途半端に終えられた言葉に、眉を顰めたかすがが目で続きを促した。佐助が照れたように頭を掻き、留まっていた雀が夜空へと飛び立つ。ちゅん、と不服そうに鳴く雀に謝罪しつつ、佐助は心底嬉しそうに笑った。
 「旦那が本当に幸せそうで姫さんも幸せで俺様も幸せなのが、これまでとは、全然違う。」











初掲載 2007年3月14日
加筆修正 同年9月5日


参考文献等
『百鬼夜行抄1〜8 今市子 ソノラマコミック文庫』
『雨柳堂夢咄1〜6 波津彬子 ソノラマコミック文庫』
『封殺鬼選集1〜3 霜島ケイ 小学館』
『伊達政宗1 山岡荘八 講談社』
日本文化いろは事典 http://iroha-japan.net/
武家の家紋 http://www2.harimaya.com/sengoku/bukemon.html
など。