りょうははっと目を覚ました。
資料を読んでいる途中で寝てしまったようだ。自分で思っていた以上に、集中講義や旅の疲れが溜まっていたのだろうか。周囲を見回すが、部屋にかすがの姿はない。もしやもう、夜、なのだろうか。あいていたページが腕の下で大きく折れているのを直しながら、りょうは腕時計を見やり、ほっと息を吐いた。まだ十六時半だ。いくら田舎の夜が都会のそれより早いとはいえ、まだ、夜ではないだろう。たぶん。
はっきりしない目を瞬かせ、りょうは傍にあった茶を飲んだ。資料を読み始める前に入れた茶は既に冷たくなっていたが、渇いた咽喉には丁度良かった。
夢を、見ていた。
たかが夢だというのに、緊張で指先まで冷たくなっている。りょうは、不自然なほど白い掌を見詰めた。趣味と実益も兼ねて武道を嗜んでいるため、それほど綺麗な手ではない。柔道で掌の皮は少し厚くなっているし、竹刀を握るためマメも出来ている。
だが、夢の自分はこんなにほっそりした手ではなかった。何故だか、血で汚れた手だと、夢の中でりょうは思った。
そんな手を、男は美しい手だと、民を慈しみ育てる手だと言った。りょうがふざけるなと吐き捨てれば、真正面からりょうの目を見詰め否定し、更にはりょう自身を愛おしく思っているなどと告げるのだった。そんなのは嘘だ。実母ですら見捨てるようなりょうを、人が、それも他国の人間が愛するはずもない。男がそんな冗談を言うような人間とも思えず信頼していただけに、りょうの心は急速に冷えていった。気付けば、嘘を吐くなと吐き捨てていた。
『如何したら、この想いが嘘偽りのないものだと信じて頂けるのか?』
真剣な顔で懇願する男を、そのとき初めて哀れだと思った。好敵手と認めてきた男にそんな感情を抱いたのは、初めてのことだった。この男は本気で言っているのかもしれない。こんなりょうを、本気で愛おしく思っていると勘違いしているのかもしれない。猪突猛進なところのある男のことだ、そんなこともあろう。直情のままに勘違いしているのだ。りょうは固さの残る口調で、男を諭した。
『嘘でないなら、お前のそれは勘違いだ。』
『勘違いではありませぬ。如何したら、信じて頂けるのか?』
本気、なのだろうか。夢の中のりょうは眉を顰め、まじまじと男を見た。
『もしお前が、』
思わず口をついて出た言葉に、りょうは唇を噛んだ。頼りないものかもしれないが希望は零ではないと知り、男が目を輝かせ言葉の続きを待っている。舌打ちを堪え、りょうは言った。どうせこの男は、今このとき、約束を交わしたことなど忘れるだろう。
「もしお前が、五年経っても俺のことを忘れないで想っているなら。何かその証を、か。」
りょうは見詰めていた掌を握り締め、大きく息を吐いた。たかが夢の話ではないか。何を内容など反芻し、浸っているのか。思考を夢から逸らそうとするが、どうも上手くいかない。胸は締め付けられ、かつて感じたことがないほどの痛みを訴えている。りょうは舌打ちをし、資料に手を伸ばした。
「馬鹿じゃないのか。」
かぐや姫でもあるまいし、何が、愛の証を示せというのか。
りょうは頭を軽く振り、資料に目を向けた。かすがが説明した盆踊りの行が、どうにも気になった。
盆踊りは秋に行う行事だ。盂蘭盆の前後に老若男女が多数集まる踊りのことを指す。盆踊りを踊るのは盂蘭盆であり、盂蘭盆とはもともと中国で盂蘭盆経に基づき、苦しんでいる亡者を救うための仏事であった。日本に伝来してからは初秋の先祖の霊を祀る魂祭りと習合し、祖先霊を供養する仏事となった。お面を着用して踊る由来はここにあり、祖霊が踊りに参加しているかもしれないためだと言われているが。
「どっちにしろ仏事になるわけだが…仏事、って訳でもないだろ。」
りょうは盆踊りの意味を浚い直し、首を傾げた。神仏習合や正月とお盆とクリスマスを祝う例などから見るように日本は宗教関係に対して非常に懐が広いが、神が仏事を要求するというのもおかしな話ではないか。神から仏への移行が行われたという可能性もあるが、それにしては、時代が新しい。また、妖だった狐は外来からの客として村に訪れた。客は外から禍福を持ち込むものの象徴であるし、山に依存している地域では山の神と田の神を同一視していることが多い。山に住む妖は神になり、やがて田の神と同一視されるようになり、豊穣をもたらす存在として村の守り神になったのだろうか。だがそれでは山に毎年一本ずつ増える桜も、山に踏み入ることすら忌避する現状も、盆踊りが狐を鎮めるという話も説明がつかない。客の持ち込んだ禍福の禍を山に福を村に分ける形で、触れてはならぬものとして、山に災禍を封じ込めたのだろうか。
りょうは溜め息を吐いた。それでは説明がつかない。実際に桜が半時間も経たないうちに全て散り去った事実を目の当たりにしたではないか。
「っかんねえな。今回は、マジでなんかいるのか?」
ちらちらと脳裏を未だ掠める夢を振り払い、りょうは低く呻くと、窓の外を見た。山は確かに裸のまま、そこに存在していた。少なくとも、桜に関しては夢ではないのだ。
りょうが米国の有名大学院で修士を得ながらも、仙台に拠点をすえた亡父の貿易会社を継がず、日本で民俗学を専攻することにした転機は、今回のように人力では説明のつかない現象を目にしたことである。病床に就いた父がとうとう亡くなり、父の趣味だった骨董品を片付けていたときのことだ。視界の端にその古い屏風が入り、りょうはつけていた物品表を机の上に置いた。黒い漆の塗られた衝立が垣間見えているだけの屏風は、妙に心を引き付けた。がたん、と壁脇から持ち上げて開けた場所に置くと、ここ一年あまりで溜まっていた埃が待ちかねたように舞い上がる。りょうは顔を背けながら、屏風の表面に張り付いた埃を払った。
「古いが…こりゃ、随分綺麗な絵だな。」
りょうは小さく嘆息した。骨董品に詳しい訳ではない。どれくらい古いものか定かではないが、それでもざっと数百年は経っているのが見て取れる屏風には、一面非常に美しい花鳥画が描かれていた。何処かの山村を描いたのだろうか。芙蓉を中心に菊や竜胆や楓といった花々が、山野や里の風景ごとに区切られ、それぞれ対応する鳥を従え咲き誇っている。
ある一点を見詰め、りょうは眉を顰めた。
「雀?」
一羽の雀が芙蓉の上で首を傾げ、りょうを見上げていた。雀は春の鳥だ。秋を彩る花鳥の中にあってはどうしても違和感がある。
つい、と、指先を伸ばしたのは何か考えがあってのことではない。ちゅん、と小さな鳴き声を耳が拾い上げ、触れる寸前、りょうは動きを止め周囲を見渡した。何処かに鳥でもいるのだろうか。タイミングが良いものだと思いながら耳を済ませるが、僅かに開いた天窓からは蝉の音が微かに届くばかりである。勘違いか。夏の日差しが眩しいばかりの天窓から目を離し、りょうは視線を屏風へと戻した。
ちゅんちゅん。
りょうは目を見張った。ちゅん。鳴きながら雀が首を傾げ、二度三度左右に小さく跳ぶ。その足元で芙蓉が柔らかく揺れる。ちゅん、ちゅんちゅんちゅん。
雀が、飛んだ。
「あ、」
思わず手を伸ばすが、届かない。雀は政の指先をすり抜け、天窓の合間から外へ逃げ出してしまった。白昼夢だろうか。りょうの足先には、芙蓉の花弁が一枚落ちていた。
あの日拾った芙蓉の花弁は、押し花にして今も大切に保管してある。
りょうは溜め息を吐いた。不可思議な現象を期待して入った民俗学の道だが、いざ実際にその現象と対面するとなると、疑う気持ちが先にたつ。自然現象や人力で説明のつく事象は多いが、それだけではないことも自分は知っているはずだ。それでも、どうしても鵜呑みにするつもりになれないのは、もともとはりょうが経済学を専攻していたような現実主義者だからだろうか。
りょうは書類を閉じるべく持ち上げた。ひらり、と何かが落ちる。メモ用紙だ。長方形の至ってシンプルなタイプで、大学の購買部で見かけた記憶があった。何か書いてあるようである。その流麗な字体には見覚えがある。りょうの師事する上杉のものだ。誤って、りょうに渡す資料に挟んでしまったのだろうか。
「万海上人、出羽のミイラ信仰の変形…?」
万海上人、とりょうは口内で小さく反復した。耳に馴染んだ音のような気がするが、それが誰を意味するのかまるでわからない。記憶を総浚いしてみるが、覚えがなかった。それでも良く知っているはずだと感じるこの気持ちは、単なる気のせいなのだろうか。
かつて同じような想いに駆られたことがあった。上杉とかすがに会った時のことだ。だが、何故そう感じたのか未だに理由がわからない。ソウルメイトという言葉があるが、その類なのだろうか。
「万海上人、か。」
もう一度だけ呟き、りょうは出羽のミイラ信仰へと意識を変えた。万海上人が何者かわからないが、出羽のミイラ信仰ならば触りだけ知っていた。出羽三山では名僧のミイラが再生の日を待っているという信仰がある。伊達政宗がその中の一人の生れ変りという説が上げられていた。高僧が隻眼であったことから、擬えて後付した逸話なのではないか、と書簡を捲りながら思った覚えがある。
「その変形って、何か甦るのか…?」
首を傾げメモを裏返してみるが、何も記載されていない。真っ白な紙面に期待を裏切られ、りょうは小さく嘆息した。
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