尾崎綺憚 第四話   転生パラレル


 源次郎は元服を控え、緊張した面持ちである。元服を済ませると人間は新たな名を賜ることを、佐助は既に知っていた。人間の忍になるため、随分と人間のことを勉強したのだ。佐助は急須を傾けながら、未だ幼さの残る源次郎を人間とは変な生き物だと思いながら眺めた。人間はまるで衣替えをするように名を変えてしまうのである。獣はそんなことはしないし、妖は名に縛られる。名は体をあらわすというように、名がそのものの本質を指す故だ。だが、それは人間に限っては適用しないようである。むしろ、名は変わるが本質は変わらない。だからこそこうして佐助は源次郎を元服に送り出せる訳だが、人間を本当に知れば知るほどわからなくなる。ここ三年、かつてないほど近くで人間を観察し、人間の話し方や暮らし方は大分上手になってきた。しかし人間は何なのか。それは慣習なのだ、と無理矢理納得することは出来ても、未だに、本質的なところは理解できない。人間自身わかっていないのかもしれない。佐助は内心首を傾げながら、源次郎の緊張を解す意味で、今日は、と茶を差し出しながら尋ねた。
 「今日はどんな夢を見たの、旦那。」
 源次郎はある世界の夢を頻繁に見た。猿飛佐助の出てくる世界の夢だ。時間軸は曖昧で、数日連続で続きを見続けることもあれば、一足飛びに進むこともある。逆に昔に戻ることも、同じ場面に留まり続けることもあった。
 佐助の問いに源次郎は受け取った茶を両手で握り締め、長々と嘆息した。
 「今日はあの方が出てきた。」
 「あの方が出てきた割には、何か、悲しそうじゃない。」
 あの方、の名を佐助は知らされていない。だが、秘するようにそっと吐かれる「あの方」という言葉が優しさに満ち溢れていること、まるで大切な宝物を前にしたような声で夢の話をすること、あの方との戦や一騎討ちは心踊ること、多趣味なあの方はそつなく政事まで行うことは知っていた。
 夢の中で好いた女の話もあるまい。源次郎もそろそろ人間として脂の乗ってくる時期だ。その気になれば、子どもも生める。それでも源次郎が幸せならば己も幸せなので、佐助は特に何も言及しない。
 「それが…。秋のことなのだが。」


 女の治める土地は米どころとして有名である。元々米に適した土壌だったが、女の徹底した治水工事が功を帰し、領地を流れる川を鎮め、多くの田へより水をもたらすこととなった。治水工事を行うため民から男を徴集し、北で一揆を起こされたことは記憶に新しい。だが、現在から未来へと繋がる偉業に相違ないと今では誰もが認めている。
 自らの成果を見届けるため北へ向かった女に連れられ、源次郎はそのとき、女の所有する屋敷に滞在していた。民を信頼してのことかなおざりに儲けられた竹柵の向こう、赤く色付いた山が緩やかな曲線を描き、その下で、収穫されたばかりの黄金の稲穂が農民の手により運ばれている。今笑顔で収穫を喜んでいる民が、昨年、鍬や鋤といった手に入る限りの武器を手に巫女を祀り上げ一揆を起こしたなど、誰が信じられよう。
 あのとき、援軍として駆けつけた源次郎は、農民が武士に逆らうなどあってはならないことだと言った。女子どもだとて関係ない。武器を手に取ったからには、それなりの覚悟を持っているはずだ。下克上の流行る戦乱の世にあっては珍しい昔ながらの考え方をする源次郎を制し、女は悲しそうに首を振った。悪いのは、民がこれほどまでに苦しんでいることを気付けなかった俺だ。断罪されるべきは俺だろう。女は民の方を振り仰ぎ、朗々とよく響く声で告げた。お前たちのためと思ってしたことが、お前たちを苦しめていたとは。本当にすまない。
 「仰られたとおり、まこと、豊かになったでござるな。」
 竜の守護する土地だ。竜といえば、水中に住むことから水を司るものとされ、ときに農業では雨乞い祈願の対象とされている。農業の神だ。まさに、よく治水を為し農民にも優しい女に相応しい。微笑ましさに思わず頬を緩める源次郎の隣で、女が勝気な笑みを浮かべ源次郎を見た。
 「俺が盟約を違えるとでも思ったのか?」
 「いいえ、そのような!そなたが嘘を吐かれるなどあろうはずもありませぬ!」
 「ha!そんなん、どうだかわかんねえぜ?」
 快活に笑う女の様に、源次郎は夢のようだ、と夢の中で思った。女と肩を並べられる日が来るなどとは、思いもしなかった。尾があれば盛大に振っていたことだろう。本当に心の底から嬉しかった。喜びを噛み締める源次郎の視線の先で、つい、と女が細い手を伸ばした。
 「珍しいな。」
 女が軽く目を見張り優しく撫でたのは、淡紅色の五弁花をつけた低木だった。武芸一筋で生きてきた源次郎には何の花なのか、何が珍しいのか。多少見覚えはあるが、まるでわからない。先だって女のもとを訪れた折、将が武にのみ長けていては駄目だ、太平の世になってから恥をかいたらどうする、と言って、茶に関しては基本を教え込まれ、領地に帰ってからも鍛錬を積むよう女の家紋の入った包布で巻かれた茶箱も持たされたが、花鳥に関しては未だ知識がない。
 「某には普通の花に見えますが、どこが珍しいのでござるか?」
 「Ah-,I see.今回はじゃあ花の講義だな。これは、芙蓉というんだ。」
 「ふよう、」
 「聞いたことくらいあるんじゃねえか?花鳥画で秋の花として有名だし。これじゃなくて蓮のことを指すんだが、芙蓉の顔、芙蓉の眦。知らねえ?」
 「花鳥画はわかりませぬが、確かに、芙蓉の顔や眦は聞いた覚えがありまする。」
 確か、女のように、美しい顔や目許のことを言うのだ。源次郎は伝えたかったが、気恥ずかしさに言うのを断念した。
 「しかし、そうすると。どこが珍しいことになるのでござろうか?」
 「芙蓉は秋っつっても初秋に花をつけるんだ。それに大概は暖地に生えるからな、こっちは寒いし、どう考えても今の時期は遅い。」
 女はゆるく首を振り、肩を竦めた。
 「狂い桜ならぬ狂い芙蓉か。まあ、単に少しばかり寝惚けて咲くのが遅れちまっただけなんだろうが。見れて良かった。俺、好きなんだ。」
 「芙蓉が?」
 「yes。花なら芙蓉が好きだ。他には、この前お前に仕込んだ茶―――あれちゃんと練習してるか?茶も好きだし、煙草も好きだぜ。鳥なら全部、特に、川蝉なんか良いな。」
 「かわせみというと、あの青い川にいるやつでござろう。それくらいなら某も知っている…漢字はわからぬが。」
 「川蝉は、色々なpatternがあるな。川蝉の季語は夏で、こうやって書くんだ。」
 女に手を取られ、源次郎は内心慌てた。細く白い女の指先が、源次郎の掌を踊る。
 「川に蝉でかわせみ。魚の狗でかわせみ。翡翠と書いてかわせみ…確か翡が雄で翠が雌を意味すんだったか?」
 「…翡翠とは石ではござらぬのか?」
 「確かに玉もある。川蝉みたいな美しい玉だ。」
 触れたままの女の指が、源次郎の思考を鈍らせる。翡翠を思い返したのだろうか。蕩けるような笑みを浮かべた女に、源次郎は胸が熱くなり、ふい、と視線を逸らした。顔が熱かった。そのときは気恥ずかしさより、伝えたい気持ちが勝った。
 「その、美しい手でござるな。」
 女が怪訝そうな顔つきで源次郎を見た。良い印象を受けない表情に、源次郎は慌てて付け加えた。
 「いや、その。勿論美しいのは手だけではないのだが、その、民を慈しみ育てる手だと思っただけで。あの…某は好きだなあと…。」
 尻すぼみの言葉に女の眉間の皺は増えるばかりだ。何か不味いことを言ってしまっただろうか、と源次郎はかつてないほど慌てた。低く冷たい声で女が吐き捨てる。
 「、ふざけるな。」
 「っふざけてはござらん。」
 良くないと源次郎は思った。理由は定かではないが、女は何かに甚く傷付いている。なりふり構わず、源次郎は女を正面から見詰め、否定した。常ならば女を真っ向から見るなどどうにも赤面してしまうため、戦場でもない限り無理だったが、今は女を諭すこと以外、何も考えられなかった。
 「ふざけてはござらん。某はそなたの手が好きだ。手だけではない。そなた自身を好いておりまする。」
 「嘘を吐くな。そんなことあるはずない。」
 女は強く頭を振って、源次郎の吐露した想いを否定した。


 「旦那は必死なのに、ひどいねえ。それで、どうしたの?諦める旦那でもないでしょ?」
 「ああ。だから俺は尋ねたのだ。如何したら、この想いが嘘偽りのないものであると信じて頂けるのかと。」
 控えめに屏風の外から呼びかけられた。
 「源次郎様。元服の支度が完了いたしますゆえ、昌幸様が、そろそろ、と。」
 「わかった、すぐ参る!…佐助、茶は美味かった。お前はどんどん腕を上げているな。」
 茶を飲み干しすっくと立ち上がった幸村を見上げ、佐助は笑った。忍である佐助は、元服に相席することは叶わない。狐に戻れば人の目に触れず盗み見ることは容易いが、佐助は今は人間の忍なのだ。夢の影響か妙なところで老成している割に単純な失敗が多い源次郎が、何か失敗をしでかさないか心配だったが、ここでその帰りを待つことにした。新しい源次郎の名は、きっとすぐさま佐助の舌に馴染むことだろう。どちらにせよ、人間の本質は元服程度では変わらないのだ。空になった湯飲みを取り上げ、佐助は源次郎の背を見送った。










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