尾崎綺憚 第三話   転生パラレル


 荷物を部屋に置き、ふと、りょうが大きく取られた窓から山を臨むと、来る途中満開だった桜が全て散っていた。眼前に広がるのは枯れ木ばかりだ。来る途中抱いた、桜以外の木は植栽されているのだろうか、という疑問は誰かに尋ねるまでもなくすぐさま答えを得られた訳になるが、桜が小一時間ほどで全て散るなどあまりに不自然だった。異様である。
 「かすが、かすがっ。桜が全部散ってる!」
 不機嫌そうに卓袱台に突っ伏していたかすがは、りょうの小さな悲鳴に目線だけ山へと向けた。
 「桜など散るものだ。」
 「違えって!さっきまで確かに満開だったんだ!」
 「大方、狐が騒いで散らしたんだろうさ。」
 「狐?」
 かすがは長い睫毛に縁取られた目を眇めた。
 「りょうは、仕方ないが、渡されたばかりで資料に未だ目を通していないからな。あの方が作成された資料に書いてあるが。」
 23ページだ、と促すかすがの声に従い、りょうは先程手渡されたばかりのホチキス止めの分厚い資料を開いた。
 「この村の言い伝え…とはいえ、今回私たちが実地調査に来る前の、別の研究者が書いたものにすぎないが。」
 かすがの話を要約すると、以下のようになる。
 神木村という名でなかった頃、村に、一匹の妖獣が流れ着いた。狐憑きの者の、尾崎、という屋号からするに、おそらく尾崎狐だろうと伝えられている。
 狐はその妖力で山の奥深くに生えていた桜の木を巨木に変えると、そこに住み着いてしまった。それから毎年。仔細は定かではないが、山に桜が毎年増えていき、今では、山は桜だけになってしまったのだそうだ。尾崎の人間が狐を鎮めるために植えているとも、桜好きの狐が勝手に増やしているとも言われているが、定かではない。毎年一本ずつ、几帳面に桜が増え続けているのは事実らしい。
 いずれにせよ、村の人間は狐を恐れ桜の伐採は一切せず、近代に至っても、山は狐の領域と踏み入ることを憚るような現状だ。それにもかかわらず、材木を売る訳でも、桜を観光に使う訳でも、農業に富んでいる訳でもない何一つ特産のない村が、被災にも食糧難にもあわず暮らしていけているのは狐の加護のお陰であるとして、狐は神と奉られ、同時にその神官役である尾崎家は大切に扱われている。では、当地に稲荷信仰があるのかといえば、そのようなこともない。村に、元から存在した寺社は見受けられたが、狐に関係するような社や鳥居や像の類は一切発見されなかった。狐を鎮めるという名目で、何故か、盆踊りが大々的に行われるのみである。昔ながらの盆踊りの形式に従い、それぞれ面を着用し踊るのだそうだ。尾崎家の玄関に飾られていた面は、尾崎の者が着ける面だとも記してあった。尾崎が狐の面を着ける理由としては、神たる狐の体現、尾崎の特異性など様々な説が挙げられているが、定かではない。
 さて、当の狐だが、何年かに一度、桜の気に中てられ浮かれるがまま桜を散らしてしまうらしい。強い風が撫でるように桜の枝を揺らし、花弁が空を舞い、山里へ降り積もるのだという。長野という土地柄、冬季に関東地方などでよく吹く乾燥した冷たい強風のような、自然現象との関連もある教授によって考察されているが、山の桜が全て散り遠い山里に降り積もるほどの風が神木村にはそよとも吹かない事実から、信憑性は薄い。狐が騒いだ後は、狐を鎮めるため、その日のうちにその年の盂蘭盆を繰り上げ盆踊りを催すのが慣例である。
 尾崎についても言及されている。尾崎、という屋号で継がれているが、実際の「尾崎」は数代に一人、しかも外部から子どもの時分にやって来る。「尾崎」は婚姻をせず子孫を持たないため、実際の「尾崎」とは別に子どもの「尾崎」を保護するための尾崎があるのだという。狐が選ぶとされているとされている「尾崎」は、狐が情愛細やかなこと人間以上とも言われ、時には人との間に産み置いてきた子を慕って出てくる母狐の話などから、「尾崎」は狐の愛した男が生れ変った人間ではないかとも言われ、「狐の花婿」とも呼ばれている。故に、「尾崎」は独り身でその生を終えるのだと。
 「神風といえば、この辺りでは狐様が起こすものらしいな。」
 講釈を終え、かすがは組んだ腕の中に顔を埋めた。
 「桜の巨木。ただでさえ桜は魔を惹きつけるのに、これほどの数、しかも花鎮めさえしていないのだから、それがどれだけのものをどれだけ集めてしまっていることか。長年の間に、餓鬼や外道の類だとて、山になるほど集まっただろうよ。」
 「けど、災いがもたらされたという話はないし、むしろ良い話ばかり聞くぜ?」
 「だから。数年に一度の風は、清め、だろうな。春先に吹く強風は穢れを祓うとされている。」
 ふっ、ともらしたかすがの呟きはあまりに小さくくぐもっていたため、りょうの耳には届かなかった。
 「あるいは、」


 一瞬で桜は空を舞い上がり、遠くへと飛び去ってしまった。これまで長い生の中で様々な花吹雪を目にしてきたが、これほどまでに見事な花吹雪は見たことがない。鮮やかに散るから、桜はかくも美しいのだろうか。窓から山の様子を眺め、上杉はにこりと笑みを浮かべながら隣に鎮座する生き物に視線を向けた。
 「もう、さくらはよろしいのですか?」
 『あれ以上咲かせておいても、余計なものを呼び込むだけだしね。舞台は整ったんだし。ああ、ほんとう、アンタにも感謝しなくちゃあいけないなあ。』
 「そんなことはありませんよ。わたくしと、つるぎと、そなたと、あのもののなかじゃあありませんか。だいいち、あのものたちのことはわたくしも、ずいぶんと、きにかけていたのですよ。」
 『そうだね。でもありがとう。ああやっとだ。』
 無意識に興奮から九つに分かれた尾を振っている様が微笑ましい。壁で揺れ続ける尾の黒い影に、上杉はそっと笑い混じりの息を吐き、桜が散る前からずっと手の中に持ち続けているお茶を一口飲んだ。
 「ずいぶん、きげんがよいですねえ。」
 『そりゃあ機嫌も良くなるよ、何年だと思っているのさ!あれからずっとだよ。』
 「あれから…。それはまこと、たいへんでしたねえ。」
 『大変だった。本当大変だったよ。何年も何年も、何年経ったか忘れないように桜を植えて数えながらひたすら待ってたんだ、一緒に。』
 感慨深そうに眇められた目は、ひたすら喜びに明るく輝いていた。
 『ああ夜の盆踊りが待ち遠しいなあ。ねえ?』










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