尾崎綺憚 第二話   転生パラレル


 長い間、彼は女の到来を待っていた。
 聞けば、女とは夜に会えるという話だった。その前に姿を見ることもできたが、相方が嫌がるので止めてしまった。どちらにせよ、夜には会えるのだ。
 逸る気持ちを抑えるため、彼はそう思うことにした。何も今、焦る必要はない。今まで、どれほどの時を待ったことだろう。待ちわびたからこそ、一刻も早く会いたい気持ちがないでもないが、その想いは考慮に入れないことにした。


 昔のことだった。


 暦を作り、自分の勝手で時間という概念を細分化してしまった人間にとってみれば、随分昔のことだった。人間ではない妖にとってはそうでもないが、それでも、待ちわびたことを考えれば、随分遠い昔のことのように思えた。
 生を受けた大陸は少し前に妖狐が宮廷を惑わせていたこともあり、ひどく住みづらかった。狐を筆頭に、全ての土地で妖獣が退治される傾向にあった。
 それまで、都からは程遠い場所で根城にしている山で迷い込む旅人を取っては食べていた。都の騒動は周辺にまで及んでいたが、勇んでやって来る猟師如き物の数ではなかった。猟師をいなす程度朝飯前のことで、実際、猟師をぺろりと朝飯に頂いてしまったこともあった。
 しかし、結局山は降りた。退魔師がとうとうお前の噂を聞きつけたぞ、と、隣山の黒貂から教えられたためである。妖獣は互いに不可侵を基本としている。他の妖獣の支配地域には踏み入らないし、干渉しない。獲物に関していざこざを起こさないためだ。本来であれば、他の妖獣の干渉は即ち支配地域の侵略を意味したが、今回ばかりは人間の侵攻で少し状況が違った。
 巣穴で毛づくろいをしていると、隣山の黒貂が唐突に姿を現した。
 『私はもう山を降りる。貴様も早く降りることだな。』
 『降りるって?行く宛はあるの?何処かあるのかい?』
 首をもたげ尋ねれば、黒貂は黒い艶やかな尾をしならせた。
 『この国はとかく住みづらい。だから私は故郷に帰る。』
 『故郷?』
 『大和だ。』
 こん、と一際高く鳴いて、黒貂は姿を消した。
 それから、随分長いこと、大和の山中で過ごした。長い時の中で、尾は一つから六つに分かれた。
 そこは大和に降り立った海岸から距離的には程近かったが、高い山が連なり住処を囲むようにして存在していたため、人間にとっては随分遠い土地と認識されているようだった。
 ある日のことだ。
 桜の気は妖を惹きつける。満開の桜に誘われ浮かされたように山の中を飛び回っていると、人間が追われているところに遭遇した。未だ小さい、そのくせ筋ばかりで不味そうな人間だった。
 食べなかったのは、そのとき丁度満腹だったからだ。その人間を追いかけてきた人間を追い返したのは、己の支配する山を好き勝手に荒らされて、気分を害したからだった。花見を邪魔されたせいでもある。助けるつもりだったのではない。
 「狐、お前の名は?」
 その場を立ち去ろうとすると名を問われ、妙なことを尋ねる人間だと思い、興味を覚えた。
 『名なんてないし、あっても邪魔さ。天から授かった名もあったけど、随分長い間呼ばれなかったから忘れてしまった。何にせよ、あったところで邪魔さ。邪魔なだけさ。』
 名は呪力でもって、妖を縛る。名などあったところで呼ぶものがいる訳でもないし、呼ばせる気もない。
 だが、人間は何故か悲しそうに眉尻を下げた。その様子に尚更興味を持って、立ち去ることを思わず止め、人間の周囲をくるくる回った。
 『何で悲しそうな顔をするのさ。アンタには関係ない。俺様の名がなんであろうと、人間のアンタには。』
 「関係なくはござらん。命の恩人の名を知らぬなど。まして、武士であれば尚更。」
 人間の瞳は目の前を行き交う六つに分かれた尾に怯えた風もなく、強く意志を示していた。ますます興を覚え、それならば、とつい提案してしまった。
 『それなら、アンタが名付ければ良い。俺様の名前を付ければ良い。そうだよ、そうしなよ。』


 「父上の許可がなければ、お前は飼えないぞ。」
 人間は「佐助」を頭の上に乗せながら、山を下る際、人間のくせにそんなことを言った。佐助は咽喉を鳴らした。名を媒介にした強い契約を結んでしまったため、人間には逆らえなかった。人間の一言一言が、佐助の心を幾重にも縛りつけ、陶酔させた。
 『許可がなくっても俺様は憑いていくよ。もう駄目だよ。狐なのに猿だなんて変な名を付けて。駄目だ駄目だ。アンタがこんな変な名を付けたんだから。』
 「お前が猿飛佐助に似ていたのだ。大体、アンタではない!真田源次郎という立派な名が俺にはある。俺が主だと言うなら、俺の名くらい覚えろ。」
 『あっそう。なら真田の旦那。旦那の言ってる猿飛佐助って誰さ?俺様の名のもとになったソイツは?』
 佐助は尾で源次郎の肩を叩き、先を促した。
 「猿飛佐助は、俺の夢の中に出てくる忍だ。」
 『しのび?しのびって?妖か何かの類かい?そんなもの俺様は知らないよ。』
 「忍は妖ではない。人間の職業…種類だ。」
 『そんなものがどうして俺様にそっくりなのさ?ねえ何で?俺様は人間じゃあないよ、立派な妖狐さまだよ。この六つに裂けた尾が見えないのかい?』
 人間ごときと同一視される言われはない。佐助が不満から、こん、と高く鳴くと、源次郎は眼前に垂らされた尾の合間から佐助を見上げた。
 「お前が狐なのはわかっている!だがな、佐助はそれは立派なのだぞ。強い忍で、とても良いやつなのだ!…とはいえ、夢の中の人物なのだが。」
 『何さ、それは。』
 「夢によく出てくる忍なのだ。お前のように綺麗な黄金色の髪で。」
 『髪じゃあないよ。俺様のは立派な毛並みで、髪なんてのじゃない。髪なんて食べても不味いじゃないか。』
 「そう言うな、」
 はた、と気付いたように源次郎は足を止めた。山で生活している佐助はそれほど詳しくないが、それでも麓の村までは、未だ随分と距離がある。佐助には別に何ら問題ないが、このままでは、日の入りまでにどうにか村には辿り着きたいという源次郎の願いが叶わなくなる。
 何をぐずぐずしているのか。佐助が叱咤する前に、源次郎が幾分小さな掌で佐助を頭から降ろし、真っ向から見詰めた。
 「佐助。父上に許可を頂く前に、そもそもお前が人を喰うようでは、俺は、お前を連れて行けない。」
 頼りなく佐助の尾が宙を揺れた。
 「お前がこれまでどのような生活をしてきたのか、別段俺は問わないが。お前は、これからは人を喰わぬと誓えるか?」
 『随分酷なことを言うじゃあないか。人を食べないで、じゃあ、何を食べるのさ?』
 「肉ならば別に、鹿や兎もいるだろう。」
 何でもないことのように告げる源次郎に、佐助は腹が立った。正直な話人間の肉など不味いし、鹿や兎の方が実際美味い。大陸に居た頃は攻撃を仕掛けてくる人間に苛立ち、仕返し的に食べていたが、佐助は人間の肉を好まなかった。だが、人間ごときに、それもこんな小さな人の形に育ちきってもいないような人間に命じられるのは、佐助の癪に障った。
 それでも、こん、と佐助は小さく鳴いて、源次郎の頭に飛び乗った。源次郎の言葉に逆らえるはずがない。愛おしい、愛おしい。そう声高に叫ぶ心に抗えるわけがなかった。
 佐助の尻尾の下で源次郎が満足そうに頷き、再び、村へ向かって歩き出した。
 夕闇の中どうにか麓の村に辿り着くと、既にそこには松明を手にした捜索隊が大々的に組織されていた。当時佐助は知らなかったが、源次郎は当地を治める武家の次男だ。大々的に捜索隊が編成されたのも、当然のことである。源次郎は佐助を頭上から降ろし腕に抱きしめると、その輪の中心にいた人間に向かって頼りない足取りで走り出した。
 「…父上!」
 疲労困憊の体でありながらわざわざ駆け寄る必然性を理解できず、上下左右に揺すられる状況に辟易し佐助が非難の声を上げたが、誰も気に留めなかった。父上と呼ばれた人間は、顰め面を僅かに綻ばせ、源次郎に駆け寄った。
 「源次郎!無事だったか。お前を、誰がこんなところに連れてきたのだ?」
 元服も済ませていない子どもが独り遠駆けで来るには遠い上に、そのとき、源次郎の馬は居城にいた。それでも、源次郎は山にいるらしいと捜索の手が伸びたのは、源次郎が出掛けに兄に洩らした一言だ。
 父に肩を強く掴まれ、肩膝ついて正面から覗き込まれ、源次郎は一瞬瞳を逸らした。源次郎が何処を見たかなど、大きい人間は気付いていないだろう。佐助の丸い黒い目は、確かに、源次郎の視線の先に山で幸村を追いかけていた人間がいるのを見た。その人間は、幸村の手の中に納まっている佐助を見て、僅かに、緊張と動揺から肩を揺らした。その様子も、佐助は見詰めていた。
 「いえ、」
 「一人で来れる訳がなかろう。誰か手引きした者がいるはずだ。」
 父の詰問に幸村は首を左右に振り、力強く否定した。
 「いいえ。某は一人で参ったのです。ご心配をかけて、まこと申し訳ありませんでした。」
 父は小さく嘆息し、源次郎を抱え上げると、源次郎とは比べ物にならない大きな手で、源次郎の頭を撫でた。
 「…お前がそういうならば仕方がない。もう今日は遅い、帰ろう。母上が待っているぞ。」
 それから腕の中でもぞりと窮屈さに身動きした佐助に気付き、父は笑った。
 「迷子の産物か。はは、転んでもただでは起きないのは立派だぞ。源次郎。」


 その翌朝。
 桜が咲く時期になったとはいえ、未だ早朝は随分と寒い。仮初に設えられた寝床で佐助がぬくぬくと丸まっていると、慌てた様子で源次郎が駆け込んできた。血色を失った顔に、佐助は食う直前の人間の顔を思い出し、尾に埋めていた首をもたげた。
 『どうしたのさ真田の旦那。一体どうしたのさ。顔がまるで美味しそうじゃないよ。随分顔色が悪いよ。ねえどうしたのさ?ねえ、何で?気が晴れるようなことはなかったかい?何かあったろう?』
 不安になり、佐助は源次郎の足元に纏わりつきながら問いかけた。きっと満足してもらえるはずだと、思っていた。だが、源次郎の大きな瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちた。
 「佐助、お前が…、っ、やったのか?」
 『やったってあの人間かい?そうだよそうだよ。だって真田の旦那。あれは旦那を追いかけてきたやつじゃあないか。旦那を殺そうとしていたように見えたよ。旦那を殺すだなんてさせやあしないよ。ねえ笑ってよ。旦那は俺様が殺させやあしないから。ねえもしかして俺様があの人間を食べたんじゃないかって思ってるの?食べてやいないよ殺しただけだよ。ねえ笑ってよ。どうしたらいいかわからないじゃあないか。ねえ笑ってよ。』
 佐助を強く抱きしめ本格的に泣き出してしまった源次郎に、佐助は心底困惑してうろたえた。
 「ああいうことは、それが俺のためだとしても、してもらっても嬉しくない。」
 四半刻ほどしてようやく泣き止んだ源次郎に耳を撫で付けられるがまま、佐助は黙ってその言葉を聞いていた。どうしてと理由を尋ねたい気もするが、また、あんな悲しそうな顔をされるのは嫌だった。
 「佐助の気持ちはとても嬉しい。だが、やはりああいうのは俺の問題だし、大義なしに人を殺すのは良くないことだ。良くない。」
 それが人間の世界なのか。佐助は小さく鼻を鳴らし、源次郎の小さな掌に頭を擦り付けた。
 『ねえどうやって生きたら良いの?人間の世界なんて俺様はわからないよ。旦那がそんな悲しそうな顔をしない生き方を教えてくれよ。頑張るからさ。ねえ。ああほら。猿飛佐助はどうだった?どうやって生きてるの?夢の人間のしのびは。』
 「佐助は、料理が上手だ。それに茶を入れるのが上手い。俺が困るといつも助けてくれるし、最後まで、文句も言わず俺に付いてきてくれた。」
 『良くわからないな。ねえもっと具体的に言ってよ。りょうりって何?ちゃって何?いつ助けたら良いの?最後までってなんの最後?』
 「料理というのは食事の…食事の準備で、茶は飲むものだ。」
 『食事の準備なんて、肉だったら幾らでも俺様が取ってきてあげるよ。りょうりなんて簡単じゃあないか。』
 佐助の返答に幸村は困ったように言いあぐね、上を見た。
 「違うのだ。食糧の調達のことではなくてだな。料理は。料理はだな…。…今度母上に聞いてくる。助ける、のも。…臨機応変だな。説明が難しい。」
 『じゃあ最後って何?最後って何が終るの?りょうり?食事?ちゃ?何が終るまで?』
 「俺の今生が終わり、死ぬまで。佐助は付いてきてくれた。」
 佐助は目を見張り、源次郎を見上げた。
 『死ぬって、旦那死ぬの?死んでしまうのかい?俺様が守っても?食べなくても?食べさせなくても?』
 「生きている限り、いつかは死ぬ。そういうものだ。」
 源次郎は首にかけていた飾りをとり、佐助の前に差し出した。丸い輪が六つ、丈夫そうな紐に連なっている。
 「これは真田の家紋…家は何というのか…群れ、の象徴で六文銭という。」
 『ろくもんせん?六もんせん?何それ?そんなの関係ないよ。ねえ、死んだらどうするのさ?だって俺様、未だ旦那に会ったばっかりなのに嫌だよそんなの。ねえ死んじゃうのかい?』
 「ああ、いつかは死ぬ。だがまだ先の話だ。そのときに、この六文銭が必要になるのだ。」
 『そんなの要らないよ。俺様が死なせないもの。ねえ死ぬなんて言わないでおくれよ、旦那。』
 「佐助、」
 否定しない源次郎の頼りない声に佐助は心許なく咽喉を鳴らした。昨夜殺した人間のように、人間はいつか死ぬものだ。生きている限り死ぬものだ。だが、源次郎だけは例外だと信じていた。
 『死んでしまうのかい、旦那』
 源次郎を愛おしい、愛おしいと叫ぶ心が千々に張り裂けそうだ。こん、と佐助は小さく鳴いた。
 「まだ死にはしない。第一、佐助が最後まで付いてきたのは、そもそも夢の話だぞ。」
 ふっと遠くを見やる源次郎の悲しそうな様に、佐助は丸く小さい目を瞬かせた。まるで夢じゃなければ良かったのに、とでもいうような口振りだ。
 『ねえ。』
 「ん、なんだ?」
 『ねえ。俺様がしのびになって、りょうりが上手になって、ちゃが上手くなって、旦那を最後までなんて嫌だけど最後まで憑いていったら、旦那を助けることになる?旦那を助けることになるなら、俺様、しのびに化けてやっても良いよ。だから猿飛佐助っていう人間のしのびの格好を教えてよ。ちゃんと化けるから。そしたら笑ってくれるかい?喜んでくれる?』
 「どうした急に。」
 『だって旦那は生きてるから死ぬんだろう。旦那が死ぬんだったら俺様は待つから。その六もんせんを使って早く河を渡って、早く帰っておいでよ。死んだらまた生き返るんだ。そうだろう。人間ってやつは。俺様だってそれくらい知ってる。違う人間になってても旦那は絶対俺様が見つけるからさ。だからずっとこっちに一緒にいようよ。死ぬなんて言わないで…ねえ泣いてるのかい。ねえ泣かないで。笑ってよ、ねえ。』




 あれから、彼は本当に長い時間を待った。










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