幸村にとって苦難の始まりは、三年前の春、豊臣秀吉暗殺に赴いた部下が帰って来なかったことである。
幸村が当主を勤める真田には優秀な忍隊があり、その長を勤める猿飛佐助は極めて優秀な戦忍だった。おさんどんにばかりその忍びを用いていた幸村は、戦以外で腹心がどのような働きをしたのか委細を知らないが、それでも、佐助に任せれば万事巧くいくということを経験として知っていた。幸村は佐助全幅の信頼を寄せていたので、それだけわかっていれば十分だったのである。
当時、そして今なおそうだが、幸村はその一方で、武田信玄のことを御館様と慕って憚らなかった。信玄も、良く躾けられた犬のように懐かれて満更でもなかったのだろう。展望がある、その一点に関して尚更、若子に期待を抱いていたのかもしれない。弟子の戦勝を我がことのように喜び、あるいは拳でもって激励叱咤する。そんな愛情を見せる信玄のことを、幸村は無二の主よと崇め奉るまでになった。
その主君が佐助を暗殺にやったらしいと知ったのは、佐助が帰らぬ日が一月続いてからのことである。腹心は野良猫のように、ふいと消息を経ったきり半月やそこら姿を見せぬことも多々あったので、幸村は今回もそのような類なのだろうと高をくくって、佐助の帰還を待っていた。最初の一週間は何事もなく過ぎた。三週間経ち、真田忍隊が一人霧隠才蔵によって、豊臣軍に隠匿されていた秀吉とその参謀である竹中半兵衛の訃報が届けられると、信玄の顔が眼に見えて険しくなった。
その当時天下は、北条を取り込まんとする豊臣、同盟を結ぶ武田上杉勢力、徳川に半ば力ずくの従を要求した織田とで三竦みにあり、奥州や四国は台頭し始めたといえ、信玄らからすればいつでも捻り潰せるような若輩にすぎなかった。その一角が崩れたことは、危うい均衡が崩れたことを示唆する。将来に対する危惧と現状の青さから虎の若子と呼称されていた幸村は、若輩ながら、主君の傍で軍に参与する権限を与えられていた。そのため、日ノ本がどのように揺れ動いているのか、十二分に理解していた。幸村が、信玄が束の間見せた憂いを織田との決戦に対するものと見て取ったのは、決して間違いではない。しかし、正解でもなかった。
幸村が芯から佐助の死を理解したのは、長篠でのことである。
「このような決戦に、佐助め。いずれに出払っているのでしょうな。」
そう言って、腹心の遅参を呆れた様子で嘆く幸村に、信玄は前方の織田軍を見据えたまま、
「あやつは来ぬ。」
それだけ告げた。確信と幾許かの焦りに満ちたその発言に、幸村はようやく、佐助が二度と己の元へ帰りそうにないこと、その死は信玄に端を発したものであるらしいことを悟った。そのとき生まれて初めて幸村は、否定的な意味合いで、信玄の言動に目を見張った。
幸村が佐助と出会ったのは、まだ年端も行かぬ頃のことである。
「猿飛佐助。これが今日からお前の忍びだ、幸村。」
そう言って、父昌幸はひょろりとした体つきの少年を差し出した。鮮やかな髪の色が信州上田を囲う山の紅葉そのままで、きっと烏天狗の子に違いない、と勝手なことを思う幸村のことを、佐助は底の知れない目で見つめていた。佐助の瞳は髪同様特徴的で、深い森を思わせる黒ずんだ緑をしていたので、南蛮の血を引いていることは明らかだった。だが、当時の幸村にはその知識がなかった。
「さすけは、しのびなのか?」
父が席を外した後、馬を模した木製の人形を振り回しながら尋ねる幸村の物怖じしない様子に、この忍びは甚く驚き、と同時に、興を覚えたらしい。賢しい眼が様々に色を変え、口元には皮肉そうな笑みが浮かんだ。一時、佐助の眼差しに紛れもない殺気が混じったように思ったが、それは気のせいだったのかもしれない。
「そう、忍びなんだ。」
そう囁いて、佐助は幼い主の持っている騎馬を指先で摘むと、ぱっと、瞬く間に消してしまった。一瞬のことだった。幸村は呆気にとられて、騎馬の消えた佐助の手をためつすがめつ引っくり返し検分した。だが、騎馬の姿はなかった。佐助は意表をついたことで、何らかの鬱憤を晴らしたのだろう。幸村の小さな掌を引ったくり、勢い良く上下に振った。
「俺は忍びだ。あんたの影、あんたの闇。そんなものさ。よろしくな、旦那?」
それが南蛮流の挨拶だと幸村が知るのは、ずいぶん先のことである。
以来、佐助は幸村の従者であり続けた。影とは良く言ったもので、幸村が何処へ行くにも付いて回り、違和を覚えさせなかった。佐助はあくまで影として、幸村の生活に馴染み、溶け込んだ。
その佐助が、死んでしまった。
「何ゆえ某の元から佐助を奪ったのです。」
その非難が辛うじて音にならなかったのは、撃て、の掛け声とともに響いた爆裂音のためである。立ち上る硝煙と共に、自軍の一角が崩れた。信玄は未だ、動こうとせぬ信長を睨みつけている。幸か不幸か、織田軍の動向に気を取られている主君がその失言に気付くことはなく、幸村は込み上げる強い衝動に唇を噛み締めると、相交互に並び、武田の誇る騎馬隊を屠る織田鉄砲隊へ、憤怒の矛先を定めた。
長篠は遮蔽物一つない、開けた合戦場である。それは、今までの常であれば、武田が得意とする騎馬戦に適した場所と言っても誤りではなかった。しかし、遮断するものがないがために、武田の騎馬は悉く織田の銃弾の雨に晒され朽ちていった。大きな嘶きと共に、鉄砲を喰らった馬がのたうつ。動揺し制御の利かない馬など、格好の的だ。一つ、二つと銃創がつけられていき、騎馬はとうとう、どう、と血飛沫と土煙を上げて、穴だらけの騎乗者共々地に倒れこんだままぴくりともしなくなった。
明らかに、武田方は劣勢に立たされていた。
信長の編み出した画期的な戦法に、織田方は浮き足立っていた。特に、玉込めに時間がかかるということで冷遇されていた鉄砲方の喜びは、言葉にならぬものがあった。一個の武人の武ではない、これからは数が制する戦が展開されるのだ。前列に配置されている鉄砲隊は、その分危険と隣り合わせでもある。彼らは、当初この位置に配されたとき、大きな不安を胸に抱いていた。しかし、現実には、武田の蹄が及ぶこともない。その上、前列は、敵方からもっとも危害を受けやすい場所であると同時に、敵方にもっとも被害を与えやすい場所でもあった。
一方的な蹂躙の与える不可思議な快感に酔い痴れる兵どもの夢が露と消えたのは、瞬き一つのことである。ふと、その内の一人が、ふいに落ちてきた影をいぶかしんで空を見上げようとした瞬間のことだった。
彼の命は視界諸共迫る白刃に塗り潰され、潰えた。
先まで歓声に湧いていた鉄砲隊が、幸村の凪ぐ豪槍によって無残に散らされる。驕れていた兵士たちに身を守る気構えなど皆無に等しい。前線は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。幸村が力任せに槍を振るうたびに、重い手応えが腕まで伝わり痺れと成った。其れが人の成れの果てであろうと、土であろうと関係ない。幸村は咆哮と共に焔を槍に宿し、武田に仇なす敵を殲滅せんと、縦横無尽に鉄砲方の隊列を切り崩した。
手を伸ばせば届く距離の混戦になってしまえば、数でしか鬨を上げることの出来ぬ兵など物の数にもならぬ。血脂に照る双槍を振り下ろし、幸村は後背へ怒号を浴びせた。
「武田の誇る騎馬隊ともあろうものが、何を、無様に遅れをとっておる!騎馬隊、振るえよ!」
幸村の形相に気圧されたのか、それまで足の疎かになっていた騎馬隊が慌てて動き出す。幸村は戦場を焼き尽くしそうな憤怒を眼に滾らせて、其れを見届けた後、歯を食い縛り低い唸り声を発した。このようなことをして、佐助が帰ってくるわけではない。だが、幸村は当然傍にあるべきものを奪われた喪失感を、理不尽なほど強い怒りに紛らわせて発散させる方法しか知らなかった。
何処から、幸村のことを紅蓮の鬼と呼ぶ声がする。
全身血に塗れ、真紅に染まった己は確かに鬼だろう。怒りに視界が赤くなり、何ものも識別出来ぬ己のことを、幸村自身、鬼であると思う。無知を指して若子なぞと呼ばれるよりは余程良い。皮肉に口端を歪め、幸村は内に根差す声に従って駆け出した。
壊せ、と声がする。要らぬ、と叫ぶものがある。
当然あるべき影、守って当然の者を守れずして、何のための光か。己か。
何時の間にか、周囲には五体満足と呼べる敵が消えている。鼻を突く異臭は、焼け焦げ爛れ落ちた肉の死臭か、ぶちまけられたように広がりを見せる血の臭気か。
「無名の命を踏みにじる…これが戦…。」
信長の編み出した戦法は、何より戦列がものを言う。披露目に水を差す無粋な大立ち回りに不興を覚えた魔王によって送り込まれたのだろう。幸村は烈々と目を怒らせ、ひそりと溜め息を吐く姫夜叉を睨み付けた。魔王の実妹、お市は、物憂げに長い睫毛を震わせると、散り散りに成った兵らの骸を見つめたまま、切っ先を下げていた薙刀を構えた。
「終わりね…あなた達、ここで滅ぶわ…。急いだって…どうせ間にあわない…。」
皮肉そうに微笑む女の唇は、鮮血を塗りつけたかの如く紅い。色彩を殺した白い貌には、ただただ、無常の哀しみが息巻いている。幸村は、類稀な美貌を誇るお市の昏い眼に、魔王の血筋を見て取り、怖気にも似た興奮が背を駆け上るのを感じた。項が粟立っている。
例えるならば、お市という女は風に浚われる桜の花弁である。心細そうな美しい佇まいは頼りなく、見るものの比護欲を誘うものだ。鮮やかな桃色の戦装束もそう思わせる一因であろう。だが、同時にまた、見るものに齟齬を抱かせるのもお市の特性であった。そうであるはずなのに、噛み合わない。辻褄が合わない。奇妙なずれをもたらし、場を混乱に貶める女がお市である。
お市はぞっとするほどの絶望を孕んだ声調で、花のような笑みを浮かべて魅せた。
「堕ちて行く…何もかもが暗い沼に沈むの…。」
窮まったお市の眦から、一筋の涙が零れ落ちた。それは、地面に触れるや否や、漆黒の闇となり広がっていった。噴出した闇は已むところを知らず、滾々と湧く泉の如く土を黒く染めていく。やがて、黒い霧となり立ち上った闇に、幸村はお市の位置を把握しきれず、全身に緊張を漲らせた。
「この暗き情念…まこと、人の心か…?」
一寸先も見えない暗闇が支配する戦場には、甘い血の香りが煙る如く漂っている。一際胸に寄せるのは、目の眩むような強い絶望だ。お市の放つ深い絶望に、呑まれたか。幸村は自らの未熟に歯噛みすると、足に纏わりつき根の国へ引きずり込もうとする死者の手を薙ぎ払い、斃すべき敵の姿を求めて駆け出した。
しめやかな暗中では、くすくすと微かな笑い声が残響を伴って木霊している。明らかに、お市は魔の血に酔い痴れ、獲物を弄ることに喜びを見出している様子だった。
「あなたは駕籠の鳥…隠れたつもりなの…?」
ひたりひたりと寄せては返す波間の感覚で、死神の気配を感じる。女の美髪の如き漆黒の闇が、真綿で締め付けるように緩々と幸村の生気を奪い去っていく。お市のもたらす永遠の眠りの瀬戸際で、幸村は絶望に足を取られぬようもがいた。
何故、佐助は死なねばならなかった。
何故、俺は佐助を奪われねばならなかった。
痛烈に胸を刺す怒りと、それが去り際残す深い絶望に目が眩む。息が詰まる。負の波に囚われて溺れる幸村の鼻先に、ふわりと甘い香りが漂った。漆黒に、白い美貌が蔑みにも似た憐憫を湛えて浮かび上がる。とっさに幸村は双槍を袈裟切りに払った。しかし、無自覚の死への熱望に鈍った一撃を他愛なく避けた女の双頭が幸村へと走る。
衝撃に、幸村は束の間絶息した。喰らいついた死の咢が、より深く死を味わおうと身のうちに喰い込んで行く。お市は一層刃を抉り込ませると、焦点の定まらない目を昏い喜びで満たした。
「許してね…。」
ばたばたと音を立てて流れ落ちてゆく命に、眼前の死は蕩けそうな声を漏らして微笑んだ。
初掲載 2009年8月1日