政宗が松永久秀に部下数名を奪われたのは、三年前のことである。
悲劇の始まりは、其処だったのだろうか。
だが思えば、五歳の頃、痘瘡に罹ったときから歯車は動き出していたように感じるのだ。
闇夜を赤く照らしながら、東大寺が燃え盛っている。
仏殿には香の甘い匂いが漂っていた。政宗とその右目である片倉小十郎は、二人に背を向け、赤々と壁を駆け上ってゆく火を見つめたまま立ち尽くしている久秀に刀を構えた。根回しの良い男のことだ。部下から双竜が仏殿に侵入を果たすことを聞き及んでいるだろうに、不自然なまでの泰然自若を保っている。何か策でも隠しているのだろうか。ふいに、怒りに鈍る政宗の頭に危惧が浮かんだ。だが、これが罠だということは覚悟の上ではないか。久秀が散歩にでも出かけるような気軽さで伊達軍に奇襲を掛け、幾人かを人質に取り、政宗の六爪を奪ってから十日が経っている。その間、見せしめで落命した者は少なくない。政宗は己の武器が奪われたことよりも、守るべき民を己のせいで危険に晒した、その事実に腸煮えくり返る思いだった。守るべき主君に怪我を負わされた小十郎も同様だ。募る不安を打ち消し舌打ちをする政宗の前で、ようやく、久秀が重い口を開いた。
「…火は好きだ。千年かけて築いたものを、一瞬で葬り去る。この虚しさに、何ともいえず、心が和む。」
建立一千年にも及ぶ大寺に火を放った男は、そこで不敬にもくつりと笑い声を溢した。それが何とも言えず、政宗の中の違和を煽る。罠を張っていたのだ、伊達軍襲撃は久秀の予想の範疇だろう。しかし、兵らを倒され、仏殿に乗り込まれてなお余裕を見せる久秀は、どう鑑みても尋常ではない。捨て鉢になっているならば、尚のこと警戒して掛からねば。そうは思うのだが、久秀の面に浮かぶ皮肉げな笑みを見た途端、政宗の理性は吹っ飛んだ。
爛と目を光らせ、久秀が口端を歪める。
「次は卿らの燃え行く番だ。さあ、私に虚しさを味わわせてくれ。」
其の言葉を合図に、政宗は久秀の方へ駆け出した。
政宗が下方から走らせた刀が、久秀の刀によって防がれる。重い衝撃にじんとした痺れが腕を伝う。ぎりぎりと一時刃を噛み合わせてから、政宗はスラングと共に触れ合わせた切っ先を退けた。悔しいが、やはり力勝負では敵わない。だが、こちらは何も政宗一人ではない。すぐさま、隙を窺っていた小十郎の黒龍が振り下ろされる。久秀は利き手での対処に間に合わず、左手で握る刀でそれを受け止めた。しかし、右目の渾身の一撃を侮って貰っては困る。弾き飛ばされた刀は弧を描きながら宙を飛んでいき、轟々と燃えている天井へと突き刺さった。重い打撃に、一瞬、久秀の動きが止まる。小十郎はそのまま返し刀で久秀に斬り付けた。厚い鎧を物ともせず、黒龍は易々とその身深くに喰らいついていく。
「ぐっ。」
重傷を負った体を支える刃が抜き取られると、久秀は唇と腹から鮮血を噴出させて、二歩、後ずさった。竜の咢は心臓にこそ達しなかったが、それでも肋骨と内臓にはかなりの深手を負わせることに成功したようだ。あれでは怪我の程度以前に、過ぎる痛みに心臓が耐えられまい。まず間違いなく命を落とす一撃だ。
「小十郎!上等だぜ…おまえって奴は!」
あまりに呆気ない。だが、策を弄するものの武など高が知れている。政宗は燻っていた不安を葬り去ると、一瞬で片をつけた小十郎の実力を讃えた。目を輝かせて呼びかける主君に、それまで強張っていた強面を僅かに和らげて右目が振り返る。その瞬間、腹心の腹から背へ突き立てられた刀に、政宗は目を見開いた。
「どうした?今、何かしたかね?」
呆然と己を貫く白刃を見つめる右目に、死んだはずの男が笑う。その手が握る刀が、よりいっそうの痛みをもたらすため小十郎の身を抉った。
「うがあッぐっはああ!」
全てが赤く染まる。絶叫を上げた小十郎は、倒れ伏したきり動かない。皓々と照らされる床板に、てらてら昏い光を反射しながら血溜まりが広がっていく。やがてそれは、政宗の具足を赤く濡らした。
「小十郎…?」
震える唇で吐息混じりに漏れ出た己の声は、思いの外自失している。そんなことを何処か遠くで思いながら、政宗は、血に光る刀を手にこちらへ近寄る久秀とその足元で転がる右目を眺めていた。一体今何が起こっているのか、頭が考えることを放棄して何もわからない。あれは、まず間違いなく命を落とす一撃だった。鎧のみならず陣羽織すら真紅で染め上げた久秀が、溢れ出る血を拭おうともしないで、それに塗れた唇を歪めた。
「見たまえ、これが時間の破壊だ。」
そう言う久秀の血に滑る指先が、政宗の顎を捉える。
「卿らの築いたものは何だ?そう、虚構だ。右目を患い全てを亡くした幼子に、右目の代わりを与え全てを取り戻したかの如く錯覚させていただけではないか。ハハハ、実に、滑稽なほど感動する話だ!気の毒に。この状況、虚しくはないかね?欺瞞、欺瞞。」
二人の視線の先には、真紅に伏す小十郎の姿がある。
痘瘡を患い右目を失ったことで、政宗が母の寵愛や生来の明るさを失ったのは久秀の言うとおりだ。それから間もなく、守役であった小十郎が竜の右目を務め、政宗を未来へ先導し、ここに、勝気で明るく優れた武将が誕生した。後の奥州筆頭、伊達政宗である。しかし、右目がなければ虚勢を張るしか能のない蛇、それが己だとは思わない。政宗の築き上げたものは、それほど惰弱な代物などではない、はずだ。そう思うのに、どうしてか、唇からは頼るもののない女の如き呻き声しか出てこない。顎を掴まれ目を逸らすことも許されぬまま、政宗は自らの拱いた右目の死にただ目を瞬かせていた。まるで、そうすれば時間が巻き戻るとでも言う風な政宗の弱さを、久秀が嗤う。
「双竜よ、卿らが味わったのは世の本質だ。奪われたものが罪なのだ!犯した罪に嘆く必要はない。卿らもいつかは、朽ちゆくのだからな!」
「てめえの行く先は…地獄じゃすまねえ…。」
無意識に毀れ出た言葉に、ようやく、政宗の目に理性が戻った。その途端、強い衝撃を覚えて上を見やれば、天井を背にした久秀が心底楽しそうに目を眇めていた。多量の失血に動くことすら不自然なその手が、政宗の頭上に繋ぎ止めた両手首をぎりぎりと締め上げる。骨の軋む音が聞こえる。ばたばたと久秀の顎から伝い落ちる鮮血が、治める土地の如く白い首を汚し、鎧の中へ流れ込んでゆく。政宗は屈辱に唇を噛み締め、拘束から逃れようと身を捩った。
からん、と軽い音がする。
「卿は何が欲しい?モノか?それとも私の命か?ならば欲望のまま奪うがいい。それが世の摂理。私もそれに従って生きている。」
炯々と光る目が、政宗の首筋を辿る。それが呼吸と共に上下する胸元に辿り着いたとき、政宗は太股を猥雑に撫でる掌を感じ、眦に朱を走らせた。久秀が愉快そうに笑う。
「卿からは、未来を貰おう。」
政宗は新たな右目を手に入れるに際して、女としての生を捨て去った。男として生きてきた。
積み重ねてきた歳月が、崩される。
そんなのは嫌だ。
政宗は衝動的に、瞼を瞑った。
「くうッ…!」
鼻を差す異臭。目を閉ざす政宗の耳に、久秀の呻き声が届いた。頬を温かいものが濡らしている。絶望に濡れる眼差しを向ければ、其処には、小十郎が憤怒の形相で立っていた。轟と燃え盛る白刃が久秀の咽喉に突き刺さり、その肉を焦がしている。
「これはテメェが地獄に堕ちる為の送り火だ。テメェは仏に抱かれて地獄へ行きな。」
眼に怒りを滾らせた小十郎が、失血にままならぬ体を酷使して、黒龍を構えた。小十郎は、天井から抜け落ちた敵の武器を利用したのだろう。久秀は己の刀を首に突き刺したまま、政宗の上から身を起こした。何故、この男はこれほどの深手を負ってなお生にしがみついている。
まるで性質の悪い悪夢でも見ているようだ。
「ハハハ、人生はこれだから分からない!なかなかどうして詩人だな、竜の右目よ!」
尋常ならざる踊りを続ける二人の声が相交互に耳を打つ。
「ハハハハ…竜の火あぶりも悪くはない。」
より一層激しさを増す熱気が、頬を焦がす。
「政宗様…申し訳ございませぬ…!」
血の轍を床に残しながら舞う二人の頭上で、焼けた支柱が崩れ粉塵を溢しながら落ちて行く。紅が視界を閉ざしてしまう。
言うな。
「屍は…残さないようにと…決めている…お別れだ。」
自らの崩壊すらも楽しそうに嘯く久秀と刃を交えながら、小十郎が初めて政宗の眼を真っ向から見やった。並々ならぬ決意に、涙が毀れそうになる。
それ以上、言うな。言ったら、許さねえからな。
唇を震わせて睨み付ける政宗の視界に、小十郎が最期の言葉を投げかけた。
「この小十郎をお許し下さいますな…!」
頼むから、俺を置いて往かないでくれ。小十郎。
伸ばした指の先で支柱が崩れ落ち、小十郎の最期の舞を遮った。
初掲載 2009年8月2日