決戦は武田の勝利で終った。天下人を決める大戦だったにもかかわらず、武田方の予想に反して被害が非常に少なかったのは、基本守戦や援軍を中心として戦を展開してきた謙信にはまるで天下に対する執着がなかったこと、最終的には両軍の総大将による一騎討ちで決着がつけられたことが理由に挙げられた。これ以降、謙信率いる上杉は、武田の天下を存続させるべく手助けするということである。
天下人となった信玄を祝うため、本陣での軍議も早々と終らせての祝宴が近くの海津城で催されることとなり、早くも上機嫌の信玄は、師同様喜びに沸いている幸村に尋ねた。
「幸村よ。おぬしも、折角戦が終ったのだ。真田を盛り立てるためにも、そろそろ、結婚せねばなるまいのう。」
「…はあ。」
てっきり破廉恥でござると反応が返ってくるかと思いきや困ったような返答をされ、信玄は意外に思ったが、昔同じ問いかけをしてから五年もの月日が経っているのだ。単に幸村が大人になっただけのことと受け取り、信玄は、愛弟子の成長に更に嬉しくなった。重ねて好いた娘の一人も居ないのか問おうとしたとき、ぽとりと上から赤いものが幸村の眼前へ降ってきた。それを皮切りに次々落ちてくる赤いものを見やれば、赤い彼岸花である。そういえば今は彼岸なのかと思いつつ、何故彼岸花が降ってくるのか首を傾げる信玄とは対照的に、何か思い当たる節があるのか幸村は血相を変えて立ち上がると、信玄に一言告げて、陣を抜け出てしまった。
信玄は、弟子の見たこともない形相を目にして束の間呆気に取られ、ふと、そういえば彼岸花には他にも呼び名があることを思い出した。
「天から降る彼岸花は、…確か。何だったか、謙信よ。」
「しゅくてき…いえ、しんげんよ。まさか、そなた…ぞんぜぬのですか?」
呆れたように返され返答に詰まっていると、何処から現れたのか佐助が傍にやって来て、信玄に耳打ちした。
「…旦那、ちょっと今日の祝勝会に出席できなさそうです。」
幸村は既に戦場を飛び出し、上田への帰路についてしまったという。
「何?佐助よ!天下が成った祝いの席だというのに、それよりも大切なものがあるのか?!」
驚いて聞き返す信玄に、佐助は「大将の反応はご尤も」と肯定してから、沈鬱そうな顔で「実は、」と、その理由を告げた。
幸村はひたすら馬を走らせていた。まつりが村民によって襲撃されたのだという。かすががまつりを知っている事実に、初めこそ幸村は目を見張ったが、それもすぐさまもたらされた情報の前に霧散してしまった。かすがが滾るような怒りを瞳に宿し、手渡してきた白い紙には、長い髪を束ねたものが包まれていた。幸村がそれを忘れようはずもない。幸村が誉めそやしてはいとおしんだまつりの髪に他ならなかった。髪にはべたりと、既に乾ききって黒く変色している血がついていた。
「貴様が…っ!」
かすがは一瞬憎しみを燃やして幸村を睨み、それから顔を背け、吐き捨てた。
「あいつが待ってる。…行ってやれ。」
まつりが記憶を取り戻したのかと思ったとき以上の不安に、幸村は休むことなく、馬を道々乗り捨てて進み続けた。
屋敷に辿り着き、その有様に幸村は愕然とした。漆塗りの黒い門は見覚えのない傷が、幾つも作られている。水が撒かれたことでぬかるんでいる地面には、流しきれていない血の跡が滲みこんでいた。幸村は衝動に駆られるまま、門の中へ走り寄った。庭に咲き乱れている彼岸花は、政宗の好きな花だった。本当は、白ではなく赤が好まれていたが、記憶を取り戻されるのを恐れて、赤い彼岸花は佐助に命じて全て取り払ってしまった。そのはずなのに、点々と、何処かへ導くように赤い彼岸花が落ちていた。脳裏に、この屋敷には生えていない赤い彼岸花を手にしていたかすがの姿が過ぎった。
これが己に課せられた罰なのか。幸村は涙が零れそうになるのを堪え、ひたすら、彼岸花が何処へ続いているのか見極めるために走り続けた。赤い花で作られた道の先に、この花をいとおしんでいたまつりの墓があるのだろうか。
空は今にも泣き出しそうに、暗く、重い灰色をしていた。
「死人花でござろう。彼岸の折に咲く。」
「アンタんトコじゃそう呼んでんのか。」
かつて、束の間の休戦協定を結ぶため使いとして訪れた幸村に、政宗はそう言って笑った。場所は、政宗が幼少期に虎哉禅師の下勉学に励んだ資副寺で、周りを赤い彼岸花が取り巻くようにして咲いていた。
「墓場に咲いてて、確かに縁起悪ぃかもしれねえな。だがそりゃ、根に毒があるからだ。」
政宗は彼岸花を一輪手に取って説明した。彼岸花はその毒で死人を鼠の害から守る役割を果たしていること、茎は薬として用いることも出来ること。
最後に政宗は人を食ったいつもの笑みを浮かべて、挑発的に幸村を見やった。
「まあ。アンタも害為すつもりがなければ、この花を恐れることなく俺の元に辿り着けるだろうさ。きっと、いつかは。なあ、真田?」
まだ幸村は政宗の本来の性別を知らなかった。男だと信じ込んでいたが、それでも、政宗が欲しくてたまらなかった。本当に好きで、その想いを、幸村は好敵手に抱く闘争心だと勘違いしていた。それが戦うことでは決して癒えぬ渇きだと気付いたのは、政宗に殺めかけてからだ。腕の中で血の気を失い冷たくなっていく政宗が、永遠に失われてしまうのではないかと思って、あのとき、幸村は本当に気が狂いそうだった。ただ何も考えず、少しでも熱が失われないようにときつく腕に抱きしめ、佐助の待つ陣へと走った。
「死んだらこの花に埋もれたいもんだな。俺を肥やしにして、きっと、見事に咲くだろうさ。」
あのとき、政宗はそう嘯いていた。
だから彼岸花に囲まれたまつりの住まう屋敷は正しく政宗の墓であり、同時に、幸村が政宗に近付いても許されることを確かめることの出来る場所でもあった。花を掻き分けてまつりの元へ辿り着ける限り、幸村は政宗にとって害を与える存在ではないのだと、許されている気がした。やがて来る罰に怯えながらも、そのときが今ではないのだと確認出来た。
幸村自身、自分が酷く勝手なことをしているとわかっていた。本来であれば、好敵手として、まつりが政宗としての記憶を取り戻すのを率先して手伝うべきなのだ。あるいは伊達家の中興の祖の名を抱かせたまま、せめて逝かせてやるべきだった。しかし、仮初の楽園は生温く、涙が零れそうなほど優しかった。愛する人が幸村の帰りを心から待ち受けてくれる。それが、真実欲しい人ではないのだとしても、大切なものが本当は欠けている人だとしても、それでも、幸村はもうこの手から失いたくなかった。
ただひたすらに、愛していた。
次第に彼岸花に隠しきれない程の赤い線が、掠れ途切れながら、段々色を濃くして連綿と続いていた。怪我を負ったか、あるいは既に死んでいたか。何れかのものが身を引き摺るか、引き摺られるかして進んだ跡だ。代わりに彼岸花が置かれる間隔は、間遠くなっていく。
急に、視界が拓けた。
視界いっぱいの真紅の彼岸花、そこに埋もれるようにして立っている人影に、幸村は目を見開いた。
「よう、真田。」
蘇芳地に大柄の竜胆をあしらった辻ヶ花染の着物は、幸村がまつりに贈った物だ。髪は、女としては異質なほど短くなっているが、見間違えようはずがない。
「ま、」
だが、こんな風に不敵に笑う存在を、幸村はただ一人しか知らなかった。それは、まつりではない。
何より、まつりは幸村のことをそう呼んだりはしなかった。幸村の姓すら、知らなかった。
「…さむね…、殿。」
震える咽喉で絞り出した声は吐息のようにか細く、掠れていた。しかしそれでも、風に紛れたそれを捉えた政宗は目を眇め口端を吊り上げると、腰に佩いていた刀を抜き放ち、幸村に突きつけた。
「けりをつけるようぜ。アンタと俺はあまりにも時間をかけすぎた。そうだろ?真田幸村。」