黒雲からはとうとう大粒の雨が零れ始めた。雷光が走る。青白い稲妻を弾き、突きつけられた剣先が鈍い光を放った。幸村は緊張に湿った拳を強く握り締め、俯いた。
「どうしたんだ?さっさと得物を取れよ、真田幸村。」
政宗が唇を歪め笑い、顎で背に負われた槍を示した。政宗が手にした刀は、刃毀れした安刀だ。強盗から奪い取ったものだろう。それは戦場で農民出の尖兵が用いる、一人斬っただけで使えなくなる粗悪な大量生産品だった。村民が戦場で遺体から剥ぎ取ってきたものかもしれない。
だから幸村が一薙ぎすれば、頑強な双槍は容易く政宗の刀を圧し折るだろう。いや、そもそもこの五年間鍛錬を積み続けた幸村と、全く積んでいない政宗とでは、たとえ得物がかつてと同じであったとしても、かつての一騎討ちを再現することなど不可能なのだ。
幸村はきつく瞼を閉じ、吐き出した。
「出来ませぬ。」
「Ah?」
「某には出来ませぬ。もう…、もう俺は。」
この五年は幸せだった。
「政宗殿を失いたくない!」
その一言に、政宗が眼光鋭くして刀を振り上げた。
ちらちらと炎が夜空を照らしていた。鉄の、血の香りが鼻についた。屋敷に走ったかすがは目にした光景に足が竦み、思わず立ち止まった。血で湿った地面で燻り続けている松明。その灯りに照らされている、物言わぬ死体。戦場では良く見る風景だが、長閑な屋敷の日常を知っているだけに、かすがが受けた衝撃は凄まじかった。
だがそれ以上の衝撃を与えたのは、刃の毀れた安刀を手に立っている、まつりの姿だった。
「…かすがか。よく来たな。」
刀についた血脂を軽く振り払い、そう言ってまつりは嗤った。五年間で胸辺りまで伸びていた髪は、結い上げているところを断ち切ったのか、ぶつりと不自然な長さで、襟足だけが忘れられたように長かった。
この女は、まつりではない。
「…貴様っ、伊達か!」
思わずくないを構えるかすがを物憂げに見詰め、政宗は楽しそうに笑った。
そのときのことを思い出し、かすがは顔を顰めると、赤い彼岸花の花弁を引きちぎった。ぱらぱらと花弁が、脇にある巨木の上から本陣へと落ちていく。それは幸村が血相を変えて飛び出して行ったときに似ていたが、花と花弁とでは、それなりに光景に大きな差があった。しかし、花を降らす、苛立ちを多分に含んだかすがの不満そうな表情は全く同じものであった。
「あんな馬鹿死ねばいいのに。」
「ちょっとそんな不穏なこと言わないでくれる?俺様の主に向かって。」
「知るかそんなこと。」
佐助は苦笑して、眉間に皺が寄っているかすがをこれ以上刺激しないよう、そっと隣に腰を下ろした。かすがは眉をひそめた。謙信に仲が良いと勘違いされるので、佐助自体がかすがの気に入らないこともあるが、それ以上に何か言いたそうな顔つきが気になった。用があるならばさっさと問うて去れば良いのに、こうしてこちらの機嫌を伺うのも、かすがにとっては佐助の気に入らないところだった。
「何か用か?」
腹立ち紛れに再び花弁を引きちぎりながら問うと、佐助は「勿体無い。」と苦笑いしつつ、本題に入った。
「あのさ、その花だけど。」
「これがどうかしたか?」
「何か、意味でもあるの?旦那はそれで竜の旦那が…って走ってったけど、それだけでもないみたいだし。それに、」
佐助自身詳細を知らぬまま、かすがに告げられたままを信玄や謙信に報告してしまったが、そのとき謙信は、ああ、と合点がいったとばかりに柔らかく微笑んだのだ。それは佐助が首を傾げるのに十分な反応だった。てっきり信玄や佐助同様、度肝を抜かれて仰天するに違いないと佐助は思っていたのだった。最初、かすがが事前に何か謙信に知らせていたのかとも思ったが、それにしては、かすがの何処か後ろめたそうな様子に説明がつかなかった。実際、その直後、謙信はかすがに最近頻繁に何処かへ出かけると思っていたら政宗の元だったのか、と笑っていたのだ。決して咎めることはないから、そのように暗い顔をするものではありません、我が剣、とも。
佐助は首を傾げて、謙信が呟いた一言を思い浮かべた。
「『それでまんじゅしゃげですか。』とか何とかって、謙信公は納得してたみたいだけど?」
かすがが鼻を鳴らして笑った。
「曼珠沙華も知らないのか。貴様、勉強が足りないのではないか?」
「いや、かすがだって上杉に行くまでは知らなかっただろ。絶対。」
図星だったのか言葉を返すことなく、かすがは綺麗に佐助の追求を無視して講釈を垂れた。
「曼珠沙華は天上の花という意味らしいぞ。見目が美しいだろ。毒があるから墓場に植えられて、そのせいで悪い名ばかり広まったみたいだがな。」
彼岸花の根に毒があることは、佐助も忍としてよく知っていた。
「でも、それがなんで。綺麗だから何かあんの?」
「これは謙信様が仰っていたことだが、仏教の経典には、赤い花が天から降るという話があってな。」
「うん?」
「それはめでたい兆しだそうだ。」
かすがはそこで再び鼻を鳴らして笑った。脳裏には、安全な場所に避難していた少女を落ち着かせ村に帰した翌日、その故を告げながら彼岸花を摘み取る政宗の姿が浮かんでいた。唇に人差し指を添えて、政宗はかすがに「言うなよ?」と笑いかけた。
「初めてあいつを戦場で見かけたとき、戦場の華だと思った。真紅に最初は血かとも思ったけど、違う、あれはきっと俺のための曼珠沙華なんだって。ひらひら舞ってる姿本当に綺麗で、馬鹿みてえな話だけど一目惚れした。まあ、本人には絶対言ってやらないけどな。かすがも言うなよ?」
勿論、口止めされるまでもなく、かすがには幸村に教えてやる気もなければ、教えてやらねばならぬ義理もなかった。かすがは大きく頷いた。性別が定かではないが謙信様と上杉配下武将以外の男は、全て、死滅すれば良いのだ。義理で、政宗の配下くらいは残してやっても良い。かすがは本気でそう思っていた。
「まあ、貴様が仕えてるあの馬鹿はま…さむねの予想通り、知らなかったようだが。」
「…。旦那、すげえ血相変えて飛んでったけど。」
見送った主の悲壮な姿を思い出し、佐助は呻いて瞑目した。ここ十数年、戦忍としての活動ばかりが多くて、すっかり失念していた。それがくのいちであろうとなかろうと、女とは恐ろしいものなのである。
放り投げられた刀に、一瞬何が起こったのか、幸村は咄嗟に判断がつかなかった。土砂降りの雨の中、政宗がけらけらと腹を抱えて笑っている。思わず反応に困り立ち尽くしていると、しとどに濡れた頬に掌が添わされた。見上げてくる政宗の視線は挑戦的だ。
「お前、ほんと馬鹿だよな。」
「…申し訳ない。」
この五年間の己の言動を振り返り、居た堪れなさから目を逸らす幸村に、政宗が嘯いた。
「猿飛にもどうせ言われただろ。俺を殺すなり、さっさと手篭めにして子でもこさえるなりしちまえば良かったのに。それもしねえで。なあ、どうやって俺にお前を嫌えってんだ?幸村。」
「…え?」
逸らしていた視線が噛み合った。にやりと政宗が口端を吊り上げる。
「You are the fool who does not examine a kind. Therefore I love you very much.」
久しぶりに耳にした異国語だった。意味は全くわからなかった。ただ、まるで歌のようだと思った。
閉じられる間際まで挑発的に笑っていた瞳と、触れ合わされた冷たい唇に、幸村は夢でも見ているのではないかと思った。唇に噛み付かれてその痛みにようやく、これが夢ではないのだと思い知った。幸村は高揚する感情を抑えきれず、衝動のままに政宗を引き寄せて掻き抱いた。次第に雨脚が強くなり、衣類はどんどん重みを増していったが、気にならなかった。何もかも忘れたようにしてひたすらに、唇を貪っていた。
何年も想い続けた夢に似ていた。夢のようだが、夢でなかった。
隣村の村長以下数名が姿を消した事件は、瞬く間に小国村内に広まった。それは隣村に届くよりも早かった。寝ているはずの娘がいないことに気づいた両親が、度々娘が山に消える事実に思い至り山狩りを決行しようとしている正にそのとき、泣き疲れたのか眠る少女を胸に抱き、親御を心配させてはならぬから、と山から降りてきた美しい女が、隣村の村長たちがいなくなった故を告げたのだった。
隻眼の女を魔物と警戒し、娘が魔に魅入られたのではないかと不安に思いながら、山に行きたがる娘を家に引き止め日々を過ごす両親の元に、後日少女宛で大きな葛篭が届いた。中には売れば一生食うに困らぬほどの、艶やかな錦織の着物や珊瑚の簪に鞠、漆器の赤と黒の椀や膳、何故か火鉢や鉄瓶まで入れられていた。おまけのように、大きな米俵まで数個付けられていた。わけがわからず一様に首を傾げる村人たちに、これを送り届けた領主一行は、名は教えられないがさる高貴な方からの贈物であると告げた。娘を送り届けた女の容姿に、あれは何処ぞの隠し姫か妾であったのかと思案しながら山に視線を向ける村人に、少女は葛篭の上に添えられていた紅白の彼岸花と時期外れで到底食べられそうにはないふきを手に取った。赤と黒の椀、火鉢に鉄瓶、足りないと言った赤い花。これは政宗による判じ物なのだと一人悟りつつもそれを胸に仕舞いこみ、少女は、にこやかに笑って告げた。
あれは、まよひがだったのだと。
初掲載 2007年8月3日