まよひがに咲く花 第三話


 佐助が立ち去ってからも、まつりは暫く門の傍に立ち尽くしていた。やって来るのを出迎えるのは心弾むが、見送りの際にはそれ以上の虚無感が身を包む。今回はそう待たずに次の訪問者を迎えることが出来ると頭ではわかっていても、簡単に意識を切り替えられるものでもない。独りきりでいることになる長いときを思って、まつりは小さく嘆息して目を伏せた。
 何故か重傷の身で目覚めたまつりは、生活に関する記憶以外全てを失っていた。名すら覚えていない己を見捨てず、篤く愛してくれる幸村には感謝してもしきれないが、それでも自分は前身何をしていたのか知りたいと思うことがある。今までずっと、幸村がその問いを拒絶している雰囲気を察し何も尋ねることはしなかったが、こうして独りでいると、暗い方へ考えが及んでしまうのだ。何しろ、初めから重傷を負っていて、現在は裕福な幸村に匿われる身だ。何か刃傷沙汰でも起こし、結果追われているのではないかと不安がもたげることが多々あった。布団に横になると考えを巡らしてしまい落ち着けず、眠りに落ちぬまま朝を迎えることもしばしばだ。
 初めて会った時の激しい驚愕からすると、今宵尋ねてくるかすがは、まつりが記憶を失う以前を知っているようだった。しかし、やはり幸村のことを思うと、勝手に自分の過去を探るのは躊躇われた。
 自分は殺人者なのだろうか。それとも。
 以前がどうであったかまつりにはわからないが、この五年というもの、幸村がまつりを求めた事実はない。幸村の瞳に時折劣情が浮かぶことを、まつりは知っている。だが決して、幸村はまつりに男として触れようとはしなかった。
 自分と幸村は、腹違いの姉弟か何かなのだろうか。主家の妻か娘、あるいは主家でないにしろ夫持ちの身なのかもしれない。少ない情報を頼りに紡ぐ想像は、決して明るいものではなかった。
 まつりは諦めから再び嘆息して、屋敷に戻るため身を翻し、けれど、屋敷には戻ることなく足を止めた。何か、音がする。がさがさと走る音は獣のものに似ているが、それにしては覚束ない。かすがであれば、音など立たない。不安からまつりは身の竦む思いで、後ろを振り返り、近付いてくる小さな影にほっと安堵の息をついた。小国村の少女だ。
 もうそろそろ陽も落ちる。このような時間に、慌てた様子で少女がやって来るのはおかしい。その事実に思い至り、まつりは再び緊張に身を包ませた。村に何かあったのだろうか。まつりが悪い想像を募らせている間にも、少女は急ききって門のところに立っているまつりに駆け寄り、力いっぱい袖を引っ張った。全力疾走の疲労に喘いでいるため、少女が何を言いたいのかまだはっきりまつりの耳には聞き取れない。落ち着くよう宥め、屋敷に連れて行き水を飲ませると、少女は一気に飲み干してから、まだ疲労に掠れる声で小さく叫んだ。
 「大変な、の!隣村の人が、」
 動転しているのか意味を成さない説明を、辛抱強く聞き続けた結果、まつりは恐ろしい事態を知ることとなった。村で魯鈍と認識されている少女は、村内に親しく付き合うような友達がいない。その少女が最近、よく村を抜け出しては何処かに消えるということで、村では多少噂になっていたらしいが、たまたまその噂を聞き及んでおり、かつ少女が何処かへ向かおうとしている場面を目撃した隣村の男が、少女が何処に向かおうとしているのかやれ調べてくれよう、と後をつけて来たことがあったらしい。結果、立派な屋敷と少女を出迎える美しい女の姿を目にして、最初、男は恐怖に駆られた。魯鈍な少女が魔に魅入られたと思ったのだ。しかし、小国村の山から勝手に茸を取っていた疚しい身であるだけに、小国村の村人に目撃したことを告げるのも躊躇われた。何故、山にいたのかと問われれば、男の身が危うい。暫く真剣に男は悩みに悩んでいたが、酒の影響もあって、つい自分の村の村長にこの話を洩らしてしまった。村長は体格に恵まれなかったため、村を治める程度で済ませているが、そうでなかったら真っ先に兵になり下克上を果たしたであろうと噂されるような、元来は強欲な男だ。村長はまよひがを恐れるよりも耳にした屋敷の金品に目を付け、住んでいるらしい女諸共略奪することに決めた。小国村の山であることなど気にしなかった。
 村長の案に乗り気になった者は少なかったが、決して居ないわけではなかった。以前から村長に対して媚を売っていたような輩は一も二もなく賛成し、今日、屋敷を襲撃することを決定したのだという。
 良心の呵責に襲われた男は、小国村の少女を捕まえて、決して今日という日には屋敷を訪れてはならないと厳命した。まつりとの接触を男が知っていることに驚いた少女は、当然のように、何故行ってはならぬのか尋ねた。更に重ねて明日訪ねる予定であることを告げると、男は慌てた様子で、それはならぬと引き止めた。明日、屋敷には女の影もなく、略奪の限りを尽くされた跡しか残っていない。抗うようであれば女は殺す、そう村長が言っていたのを男は聞いて知っていた。
 「だから、逃げなきゃ!」
 少女が再びまつりの袖を強く引いたとき、橙の光が一瞬障子を過ぎった。酷く小さく頼りないものだったが、このような時分に、松明など手にして訪れるような客を、まつりは持たなかった。
 少女が悲鳴を上げるのを、口を手で覆って無理矢理抑え、まつりは束の間迷ってから、藺草を張り替えたばかりの畳を一枚外した。更にその下に敷かれていた厚い板を外すと、暗い人一人通れるほどの穴がぽっかり広がっていた。この穴道が、屋敷から五十歩ほど離れた距離にある洞穴に続いているのを、まつりは知っていた。独りきりの時間を持て余し、家の中を隅々探検したときに、この抜け道を発見したのだ。
 だが、当然再び板を下ろし、畳を敷かねば、襲撃者にすぐさま勘付かれることも、また、まつりはよく理解していた。逃げきるためには、誰かがここに残らなければならない。そうだとするならば、自分の命を思って知らせに駆けてつけてくれた少女を、まつりがみすみす死なせられる訳がなかった。
 何より、ここはまつりが幸村を待つ場所である。まつりにはこの屋敷しか残されていない。屋敷を見捨てることは、幸村を捨てることと同意義のように思われるまつりが、何処かへ逃げられる訳もなかった。
 まつりは、抜け道が暗くて恐ろしく思われるかもしれないが安全であること、金色の髪の女にあったら保護してもらい、女には危険だから屋敷には近付かぬよう告げることを重々言い聞かせて、少女を穴へ下ろした。がやがやと何かが近付いてくるようなざわめきが、音こそ聞こえないものの、雰囲気で感じ取れた。
 まつりはどうするのか、少女が泣きそうな顔で尋ねた。瞳が既に潤んでいる。
 「大丈夫だ。」
 自らに言い聞かせるようにまつりは言った。
 「俺は大丈夫。だから、早く逃げな。」
 未だ少女が何か言おうとするのを制し、火を点した松明を手渡すと、まつりは板を下ろした。
 何故だか心は、凪いだように静かだった。


 何処からか泣き声が聞こえてきたような気がして、かすがは訝しみ、足を止めた。時間帯を考えれば、子どもの泣き声が聞こえてくるはずがないのだが、耳を済ませると確かに、娘の泣き声が耳に届いた。
 夜分に、このような山道を年若い娘が泣きながら歩いているなど、不自然極まりない。もしや妖の類だろうかと一瞬もたげた恐怖を、かすがはすぐさま打ち消した。この山には伊達の元当主が住んでいる。その関連ではないだろうか。
 かすがは政宗のことが嫌いだったが、まつりのことは買っていた。家を重んじ恋を切り捨てた政宗と違い、まつりは恋に生きる健気な乙女だった。何より、かすがの恋を応援し、相談にも乗ってくれている。嫌えようはずがない。
 悪い予感が過ぎり、かすがが急くままに泣き声の方へ駆けると、泥まみれの少女が地面に落としたのか燻るだけの松明を手に、ぐずぐずと泣いていた。
 「娘、どうした?」
 少女に近寄り訪ねてみるが、余程恐ろしい目にあったのか酷く混乱していて、洩らす言葉は意味を成さない。それでも、「まつり」と「襲撃」という単語を拾い上げて、かすがは少女に安全な場所にいるよう命じると、身を翻して屋敷の方へと駆け出した。










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