国によって名称はまちまちであるが、隠れ里、という伝承が広く流布している。迷岡、迷ひ家とも呼ばれることのあるそれは、山奥に立っている無人の長者屋敷から何か持ち出してきた者は長者になれるという話である。しかし、何も持ち出さず引き返した無欲な女の元には、自ら隠れ里の椀が幸せを運ぶため流れて来たという説がある一方で、何も持ち出さず引き返したものの後に隠れ里の話を耳にするに及び、欲に駆られ引き換えした男は何も手にすることが出来なかったという説もある。
上田の小国地方ではまた少し異なり、隠れ里伝承はまよひがという名で親しまれているのだが、住人の有無にかかわらず何一つとして持ち出してはならないという内容だ。これによれば、まよひがの主は、一般に村里の人間が、自分たちとは異なった容姿や習俗を持つものと認識していた山人ではなく、迷い神とされている。迷い神は読んで字の如く、人を惑わす神であり、人にとり憑いて道などを惑わす神である。ここにおける道とは、山道などの他に人としての道、いわゆる道徳も含まれていて、人の道を逸れないかどうか迷い神が迷い込んだ人間を試しているというのだ。欲に目が眩んだ者にはそれに相応しいだけの罰が下されるという話である。
初めてまつりの住む屋敷に迷い込んだとき、以来時折村から遊びに来る少女は、屋敷をまよひがかと思ったそうだ。ふきを採っている最中に見つけた、とても山奥にあるとは思われないような立派な黒い門の家。子ども特有の好奇心に駆られ門の中に入ってみると、大きな庭に白い彼岸花が一面に咲き乱れていて、とてもこの世のものとは思われなかった。急に怖くなって引き返そうとしたとき、見たこともないような美しい女が山菜の入った駕籠を手に帰って来たのを目にして、少女は、まよひがに入り込んだに違いないと確信すると同時に家の中へと駆け出していた。
点々と散らばり何処かに続いていくふきを、まつりが訝しみ、拾いながら後をついていくと、泣くのを必死に堪えるような嗚咽が、台所の米櫃付近から聞こえてくる。恐る恐る米櫃の蓋を開けてぼろぼろ泣いている少女がいるのを見て、まつりは目を丸くした。最初は、山女か妖の類だと思い込んでいたらしく、食べないでと少女に泣きながら哀願されて、流石のまつりも対応に困ったが、小一時間、自分は人間であることを説明して宥め続け、自らが採ってきた山菜を持たせてやって村に帰すと、少女は何を思ったのかまつりの元に遊びに来るようになった。話を聞いてみると、少女は村で厄介者扱いこそされていないものの、魯鈍と認識されているらしく、まつりのような美しい者に優しく扱われて嬉しかったのだという。考えてみれば、まつりから何か害を加えられた訳でもない。それどころか、様々な山菜まで土産に持たされている。だから安心してやって来たのだという少女の説明に、自分が人買いか何かだったらこの娘はどうするつもりだったのだろうとまつりの方が心配になりながらも、それでも一人で幸村や佐助の訪問を待ち続けるのが寂しかったのも確かなので、訪問を歓迎したのだった。
「まよひがには、山の奥深くに立派な黒い門の家があって、大きな庭には紅白の花が咲いてて、牛小屋とか馬舎もあるの。」
赤い花が足らず、住人が人である点こそ違うが、正しく噂されるまよひがの姿をこの屋敷が取っていると言う少女の言葉を、まつりが、様子を見に訪れた佐助に語って聞かせたので、佐助は内心苦笑した。なるほど、何故忍の里としてわざわざ山奥にこのような目立つ外見の屋敷を設えたのかと常々不思議に思っていたが、目立つことがかえって人々の忌避を招くような場合もあるのだろう。里長は、近隣の住人間に流布している伝承を巧く利用していたのだ。
少女の話では赤い花が足りない、ということだったが、本当は、白い彼岸花同様庭一面に咲き乱れていた。まつりが入居したその日に、幸村の指示で佐助が全て摘み取ってしまった。
「紅…、血…?」
あのとき、赤い彼岸花を見て、僅かに目を見張りそう呟いたまつりの様子は尋常ではなかった。
何かを思い出すような厭うような、恐れるような姿に、記憶を取り戻されては厄介だと、ただそれだけを判断した佐助と異なり、幸村は不安に駆られたのだと思う。誰しも一度手にした幸運を、手放すのは惜しい。佐助は朴念仁の代名詞だと思っていた幸村が、所詮人間だった事実、戦乱の世を生きる将であった現実を知った。
幸村は、赤い彼岸花はもとより、戦場や武家といった過去をほうふつとさせるようなものは全て、可能な限り取り払い、まつりの目から隠した。自身も赤い衣は避け、佐助にも忍らしい行動は慎むようにと命じた。現に佐助は今も、忍という身分を隠すため、町に潜入するときのような御召茶の地味な着物を着込んでいる。
「まあ、まよひがなんて単なる噂話の類みたいなもんでしょ。それより、最近はどう?それ以外に何かなかったの?」
赤い彼岸花を嘆願されては大変と、話を逸らした佐助の意図に気付かず、まつりは嬉しそうに、少女が、と笑った。
「明日、また来るはずなんだ。約束したから。あと、かすがも今夜頃来るって。」
「へえ…、かすがが。」
武田と上杉の決戦まで残る三日。流石に、かすがも何か思うところがあるのだろう。まつりには知らせていないが、此度の戦はそれまでのものと違い、生きて帰れる保障が全くないのだ。戦は、苛烈を極めるであろう。
幸村や己やかすがが死んだ場合、まつりはどうするのだろう。ひたすらに幸村の帰りを待ち続けるのだろうか。
ふっともたげた疑問に縁起でもない、と佐助は頭を強く振り、別れを告げてその場を後にした。
「幸村によろしくな。」
「うん。きっと伝えておくよ。」
結局、幸村も己も帰らぬかもしれぬ事実は、まつりには告げなかった。
帰路を黙々と進みながら、佐助はまよひがについて思いを巡らせていた。
仕事に追われ伝承や民話の類には案外疎い佐助と異なり、この地で生まれ育った幸村は、まよひがのことを知っていたに違いない。己のことを囲われ者なのではないかと思っている節のあるまつりが強く勧めなかったこともあるが、幸村は決して何かを持ち帰ろうとはしなかった。佐助の記憶のある限りでは、一度も、である。第一、屋敷以外でばれぬよう巧く取り繕っていたことを、佐助はそれだけ幸村の決心が固いのだと思い込んでいたが、考えてみれば奇妙なことである。朴念仁で嘘をつけない幸村があれだけ、二心なく、巧く立ち回れるはずがないのだ。
まつりのことを迷い神だと思ってこそいないものの、屋敷をまよひがと幸村が捉えている可能性は多分にあった。まよひがから何一つとして持ち出してはいけない、というこの地の風習を固く守っているのは、何れ己が罰を受けるべき存在だと思っているからだろう。その罰こそは、まつりが記憶を取り戻すことだった。
だが佐助にしてみれば、まつりは、幸村を惑わせる迷い神に他ならない。
「それに旦那、」
次第に暗くなってくる道を急ぎ足で進みながら、佐助はそっと呟いた。
幸村は心をすっかり、屋敷にいるまつりの元に置いてきてしまっている。
それは、まよひがから物を持ち出すことで受ける以上の罰であるような気が、佐助にはした。