上田から僅かに離れた場所に、小国という山間の小さな村がある。
その村の脇を流れる小川に沿って山深く入って行くと、山奥であることを考えれば場違いなほど、立派な黒い門の家がある。元々は忍の隠れ里として使用されていたためにこのような場所にあった家は、佐助が忍として独り立ちして後住人皆が他へ移り住み、廃れる一方だった。
そこに手を加え修繕し、佐助がまつりを移り住ませたのは丁度五年前のことである。
まつりは、真の名を伊達藤次郎政宗といった。現在武田に吸収されている伊達家の元当主だ。そのような人物が何故家を離れ、当時敵国の武将だった幸村に囲われるようにして生きているのかといえば、重傷を負い意識を失った政宗を、幸村が連れ帰ったためだった。敵の総大将を胸に抱いて帰還した幸村に、当然、佐助は困惑した。困惑したが、結局、忍の性も手伝って、佐助は幸村の指示に従った。政宗を連れ帰ったその理由を問うことすらせず佐助が口を噤んだのは、幸村の瞳が何よりも雄弁に、政宗を死なせたくないと物語っていたからだった。
戦場に一番近い真田の屋敷に政宗を隠して、その怪我の治癒に専念したが、当然、そのような場所でそう長く隠せるものではない。家臣は皆口が堅かったが、それでも漏れ出るものは漏れる。佐助は皆が政宗の正体に勘付く前に、政宗を何処か他の場所に移さねばならなかった。
幸村があんな存在を秘匿している事実が判明すれば、信玄は幸村を罰しはしないだろうが、それでも大事になるのは目に見えている。
佐助は幸村の願いを強く胸に刻みつけて、日夜問わず、隠れ家を求めて奔走した。
そのときに、ふと、かつて佐助自身住んでいたこの家のことを思い出したのである。
決して多くないとはいえ里の人間全てを養えるだけの、今は野生化した野菜がちらほら雑草に紛れて生えている畑もあった。長い放置に崩れかけてはいたものの、牛小屋や馬舎もあった。何より、佐助はその理由を知らないが、幸村が所望する彼岸花も、門を入ってすぐの庭に赤白揃って咲き乱れていた。
「名を改めなきゃ、ばれるもんはばれますよ。」
手直しすればすぐにでも移り住める場所を確保したことを報告に向かった際、政宗の記憶が定かではないことを知った佐助は、幸村にそう言った。なるべく存在自体を人の目から隠すつもりではあるが、女の身で政宗などと名乗っていては、目立って仕方がない。ただでさえ政宗は、美貌と隻眼とで人目を引くのだ。政宗が女であることが一般に知られていないとはいえ、わかる者にはわかることである。ならばいっそ、記憶がないのを利用して新しい名をつけてしまえば良いと佐助は告げた。
「しかし名は…、」
「俺たち忍と違って武士にとって名が大切なのは重々承知ですけどね、命より大切なもんはないでしょう。命より武士としての名誉を貴ぶんだったら、あのとき、死なせてあげてりゃ良かったんですよ。」
言いよどむ幸村を制するように、重ねて佐助は言った。幸村の顔色はあまり良くない。覚悟を決めての行動だったのか、衝動に駆られての行動だったのか。その点に関しては今尚図りかねている佐助は、幸村の反応を窺いつつ報告した。
「そういえば首級こそ挙げられてないですけど。竜の旦那は一騎討ちに敗れて、遺体は旦那が手厚く葬ったって。世間では専らの噂です。」
政宗は今もこうして生きているが、生きておりながら死人同然の立場なのだ。
全ては幸村次第だと暗に報せる佐助の言葉に、幸村は唇を噛み、拳を握った。
「あれから、五年、ねえ…。」
結局幸村は、名を捨てさせてでも政宗を生かす道を選んだ。せめてもと、「政」の字を用いて「まつり」と名乗らせている。まつりは訝しむ風もなく、幸村に教えられた名を自分の名として受け取った。
佐助が感慨深いものを味わいながら、前方に目を向けると、まるで夫婦のように仲睦まじい幸村とまつりの姿がそこにはあった。ふきを探していたところこの屋敷へ迷い込み、それ以来何かと遊びにやって来る少女が、二人を夫婦と間違えたのも当然のような気がした。
人の口には戸を立てられないことをよく知っているが、幸村も佐助もいない大半のときを一人でこの広い屋敷に住んでいるまつりのこと、時折遊びに訪れる少女が真田領の民であることを思うと、少女を無下に扱うこともできなかった。屋敷の存在を噂に立てられぬよう少女を殺めてしまえば良いのかとも思うが、それすらも最善の道ではない。何より、幸村に止められている。何れこのことが禍になるのではないかと思いながらも、佐助はそれを止める術を持たなかった。
暫く二人の様子を眺めていた佐助は、苦笑いをしつつ視線を逸らした。一人身には少々辛い光景である。嘆息して、佐助は上杉にいる幼なじみに意識を向けた。かすがは、今も、元気だろうか。かすがが息災でいるらしいことを、一応、佐助はまつりから聞いて知っていたが、気になるものは気になった。
何故まつりがかすがのことを知っているのかといえば、それは、ここが佐助にとってかつての故郷であったのと同様、かすがにとっても故郷であったからだ。ゆえにかすががこの場所に訪れ、手入れのなされている屋敷を不審に思い、結果まつりを発見したとしても不思議ではないように佐助には思われた。不思議なのは、かすががまつりの発見を謙信に報告していないらしいことだ。何故かすがが無上の存在と崇拝している謙信にその発見を報告しないのか、事情を覚えていないまつりに尋ねてみても悪戯にかつての記憶を掘り返してしまいそうで、佐助は問うことも出来なかった。かすがに直接問うてみたい気もするものの、やはり地雷を踏みそうで怖い。何より、数年前に武田と上杉で会合を開いたとき以来、佐助はかすがに接触を絶たれていた。
幸村、己、そしてかすがと小国村の少女がまつりの存在を知っている。それは穏やかならぬことだろうか、と佐助は思案を巡らす。秘密は共有する者が少なければ少ないほど良い。一般人や敵国のくのいちに知られているなど、本来ならば論外だろう。それ以外の者は未だ知らないし、出来うる限りこれからもまつりの存在は隠し続けなければならない。
厄介な者を背負い込んだものだ。佐助は少なからず、まつりに対して苦い思いがある。主の願いを叶えてやりたいのは本心で、事実叶えるために佐助は奔走しているが、それでもまつりが厄介な人物である事実は変わらない。伊達政宗が行方知れずになってから伊達は武田に帰属したが、帰属してからまだ五年である。まつりを得、かつ真実を知った伊達が上杉に寝返らないとも限らない。
上杉と武田の決戦は今秋にも行われる予定だ。つまり、あと2ヶ月最低でも秘匿しなければならないことになるが、それも最悪の場合であって、伊達が武田に対して裏切る可能性が皆無になるまで隠し通さなければならなかった。
決戦まであと2ヶ月。時期からいって、これが戦前最後の逢瀬になるだろう。これから幸村は武田の将として戦の支度に忙しくなり、まつりに会いに来るどころではなくなる。これまでのように、幸村と違いある程度時間の持てる佐助が、一応、まつりの様子を見に来る予定ではあるが、実際の逢瀬と文とでは比ぶべくもない。
「大将もこんな急に戦決める必要ないと思うんだけどなあ。」
長い間膠着状態にあった織田との決着をとうとうつけたのが、一月前。武田の天下を阻むものは、仇敵の上杉だけだ。長年好敵手よと互いに思い続けていた間柄だけに、早く戦いたいと急く気持ちはわからないでもないが、それにしても、決戦のための準備期間が二ヶ月とは短すぎる。何より、屋敷以外ではばれぬよう巧く取り繕っているものの、その武田でも名のある将がこうして恋に現を抜かしている有様だ。
佐助は小さく嘆息した。正直、先行きが不安である。