第八話 磁気嵐


 長曾我部を追って幸村が佐助と共に奥州を訪れてから、一ヵ月半が経った。
 新年を迎え、武田の正式な使者として新年の挨拶に伺った幸村は、そのとき非常に緊張していた。信玄から直々に武田の正式な使者の役目を仰せつかったのは、なにぶん幸村も初めてのことだ。それに、相手は政宗である。幸村の緊張も並々ならない。
 そんな幸村の心中を知ってか知らずか。政宗は煙管を片手に、黙々と幸村が携えてきた書状へ目を通していた。何枚にも渡る書状に新年の挨拶しか記されていないとは到底思えなかったが、信玄は幸村にその説明しか伝えていない。お館さまが知らせなかったことを、わざわざ己が知ることもあるまい、と政宗に書状の内容を問うことを禁じ、ひたすら読み終わるのを待っているのだが、書状自体も読む時間も非常に長かった。
 出された茶はすでに数度熱いものと換えられ、茶菓子は甘党の幸村の胃の中に納められていた。
 それにしても、政宗の顔色が心なしか良くないように見える。新年で親戚や他国からの使者の対応や行事に追われ、忙しいゆえの疲労からだろうか、とも思ったが、どうも違うような気がする。
 幸村が内心首を傾げていると、最後の一枚を読み終えたのか、政宗がようやく面を上げた。
 「信玄のおっさんは、何か、これについて言っていたか?」
 「いいえ、残念ながら某は何も。」
 「…そうか。」
 眉根を寄せた政宗は書状を元通り折りたたむと、深く煙管を吸った。
 「…まあ、わざわざ甲斐からご苦労だったな。信玄のおっさんは戦もないし、アンタたちを半月ほどうちに置いてくれとのことだ。」
 「お館さまが?」
 「ああ。…あのおっさんも何考えてんだか。」
 政宗の言葉に、幸村も思わず首肯したのだった。


 そういう経緯を経て、今、幸村と佐助は奥州にいる。
 如何せん半月滞在しろと政宗経由で信玄から命じられたが、蘭丸は、年越しは流石に織田夫婦と過ごすということで、今度はいつきを連れて尾張に引き返してしまったらしく、長曾我部も当然居ないし、どうにも手持ち無沙汰である。
 当然、政宗と一緒にいることは、幸村にとって心地よいような苦痛なような何とも言えない感情に襲われるので、選択しなかった。
 奥州を訪れてから3日目。
 その日幸村は、正体もばれているし、ということで忍ぶことを完全に放棄した佐助を伴って、庭を散策していた。政宗直々に設えさせたという庭は、まるで絵画のように整えられ、門外漢の幸村ですら思わず嘆息するほど美しかった。
 「いやー、キレイな庭ですよねー、ほんと。」
 「真だな。」
 しかし、それにしてもどこかこの庭には隙がない。幸村にはよくわからなかったが、完璧を目指して作られたのか、あまりに綺麗過ぎて、少し息苦しさを感じるような気がした。
 じっと見入る幸村の隣で、佐助が何かに気付いたように後ろを振り向いた。つられて幸村も視線を向けると、縁側には、片倉を伴った政宗が楽しそうににやにやと笑って佇んでいた。
 「さっきからずっと見てるが、そんなに気に入ったか?」
 「はあ。」
 ずっと、とはいつから政宗に見られていたのだろう。幸村は恥ずかしさから赤面し小さく俯いた。
 小さく笑う気配。
 それから。
 そのとき、急に変わった政宗の気配に、幸村はびっくりして顔を上げた。戦場で対峙した覇気と高揚感に溢れる気迫でも、甲斐で見た柔らかい雰囲気でもなく、それはあまりに静謐であまりにも尖鋭的で研ぎ澄まされた日本刀に似ていた。
 「、母上、如何なされました?」
 絞り出すように吐き出されたのは初めの空気のみで、それはすぐさま普段の流麗な言葉にとって変わられたが、幸村は政宗の言葉に胸をつかれた思いがして、政宗の視線の先を追った。少々年のいった美女、おそらく政宗の言からすれば政宗の母親だろうが、侍女たちの制止を振り切り、憤りも露わに政宗の方へと歩み寄ってくるところだった。
 「如何もこうもない。何ゆえ、武田の犬が此処におる!」
 幸村は息苦しさを感じた。
 睨みつけられながら放たれた金切り声は、別段、幸村に何の影響も及ぼさなかった。幸村の隣の佐助も、肩を微かに竦めただけで、どうといったことはない。敵とはいえ今は戦中でもないし、正式な使者として赴いていることもあって、政宗の母の態度に少し面食らいはしたが、それだけだ。
 だが、そう母親に叫ばれた瞬間の政宗の瞳に、一瞬だけ過ぎった傷付いたような色と、それを隠すように一度だけ力なく伏せられた瞼が痛々しく、幸村の胸を打った。
 「母上、彼らは武田より正式な使者としていらしている方々。そのような発言は。」
 幸村と佐助の方へ目で謝りつつ政宗がたしなめる口調で言えば、女はますます眦を上げ、しかしふと何かを思うように目を細め、嫣然と笑った。
 「主。伊達を乗っ取り、最上に攻め入ったのみならず、武田に奥州を売り渡すか。」
 「義姫様、」
 政宗は答えない。
 連れ戻そうと袖を引く侍女の腕を振り払い、義姫が低く唸った。
 「一度拾いはしたが、あのまま南に捨て置いておけば良かったものを…。我ながら、何とも短慮なことをしたものよ!」


 「…何ていうか、凄まじいもの見ちゃいましたね。」
 引き上げた部屋で、流石に呆気に取られたような佐助の呟きを、幸村は黙って聞いていた。
 義姫は騒動に駆けつけた近習の手によって喚きながらも引き戻され、その後反動で妙に静まり返った庭先で、幸村と佐助は政宗直々に詫びを入れられた。重々しい沈黙を振り払うような政宗の声は、空々しいほど明るく、それがかえって幸村には苦々しいものに感じられた。
 「先程の、…。」
 幸村は言いよどみ、唇を噛んだ。先程の、義姫が口にした台詞は何だったのだろう。あのまま南に捨て置いて?
 「…佐助は、前回米沢を訪れた際、伊達殿が語ってくださった話を覚えているか?」
 少しばかり婉曲的に幸村が尋ねてみると、佐助は大きく溜め息を吐いて答えた。
 「あれ、御伽草子なんかじゃなかったんですね。」


 夜半。どうにも寝つけない幸村は、自然、昼間騒動のあった庭先へと足を進めていた。
 あの後佐助や忍隊を使い収集した情報によれば、政宗が幼い頃四国へ捨てられていたのは事実だった。
 城下町の町人はもとより、家臣でさえ身分の高い者や古参者でない限り知っている様子はない。現当主が過去他国に捨てられていたなどと、外聞が悪いから伏せられているようだ。酔いに任せて吐かせた最上の古参の家臣でさえ、最上が伊達とは決して友好関係を築いているとは言い難いにもかかわらず、最後まで口にするのを渋っていた。
 一度見捨てた政宗が家督を継ぐと、義姫は実家の最上へ帰ってしまった。その後、すぐさま最上に伊達を襲わせたことからいって、自らの仕打ちに子の報復を恐れたわけではないだろう。数年がかりの戦の末最上は伊達に統合され、そのことを未だ根に持っている義姫は、それでも主家となった伊達へ今回は年明けということもあって、渋々挨拶にやって来たらしい。
 伊達側が騒動必至と、必死に武田主従のことを隠そうとしていたらしいが、たまたま誰かが口を滑らせたらしく、それで憤りも露わなあの登場に至る、と。
 親戚関係の友好な武田に属する幸村にはよくわからなかったが、政宗の境遇が哀れでならなかった。
 いや、と幸村はゆるく首を振った。
 この想いは、哀れ、ではない。だが、だからといってその感情を何というべきか、幸村にはわからないが。
 辿り着いた庭先の縁側に見知った姿を見つけ、戸惑いから幸村は足を止めた。縁側に腰を下ろす人物の頼りない姿に我が目を疑い、幸村は確認するようにして名を呼んだ。
 「伊達殿、」
 「…真田、か。」
 ゆるゆると力なく政宗に振り向かれ、幸村は胸が締め付けられるような思いがした。昼間もそうだったが、これほどまでに弱った政宗の姿を見るのは、初めてだった。
 「昼間は本当にすまなかったな。いくら詫びても足りはしないが。」
 「いえ、そのようなお言葉は。」
 「いや、良いんだ。わかってる。どれだけのことをしてしまったか、アンタたちが取り繕ってくれても、俺が一番よくわかってる。家族の非は俺の非だ。本当にすまない。」
 幸村はそれ以上発言することを躊躇われ、押し黙った。政宗のきつい口調は、幸村に向けられたものではなく、自身と家族とに向けられたもののようだった。
 「…ああ、悪ぃ。立ったままじゃ何だな。」
 そのまま立ち止まり続けるのもおかしいが、かといって立ち去るのも近付くのも躊躇われる。所在無く立ち尽くす幸村を、政宗が苦笑交じりに手招いた。呼ばれ恐る恐る隣に腰を下ろした幸村から視線を外すと、政宗は深く息を吐いた。闇夜に白い息が立ち上った。
 自嘲を浮かべ、政宗が瞼を伏せた。
 「本当に、…。」
 政宗が何を言おうとしたのか定かではない。言葉は呑まれ、告げられることはなかった。
 言葉を待ち政宗の横顔を窺っていた幸村は、近付いたことで政宗の微かに濡れた眦に気付いた。
 衝動のまま、思わず政宗の手を取る。闇夜に浮かぶ白い手は驚くほど冷たく、刀を握り続けたためか掌には硬い肉刺が出来ていた。
 幸村は泣きそうになった。
 家の勝手で遠い地へ捨てられ、連れ戻され、家のために女ながら武器を手に奥州を平定しても見返されることもなく。家を思って。
 (「家」を思って、今度は、某を。)
 そんな政宗を、家のためだといって見捨てることなど幸村にはできなかった。
 「伊達殿、」
 幸村は力の限り、政宗の手を握り締めた。一般人と比べても体温の高い幸村の手は、政宗の手と比べれば別物のように熱かった。幸村は握り締めながら、少しでもこの熱が政宗に伝わればいいと思った。
 「伊達殿の家族に某は、なれませぬか。」
 政宗の瞳が揺れた。
 衝動に違いないけれど、この選択を悔やむことは決してないだろう。幸村は必死に言葉を紡いだ。
 「伊達殿をお慕い申し上げております。一度は忘れようと試してみましたが、この想い、捨てられそうもありませぬ。某は、」
 込み上げた唾を飲み、何と言うべきなのか言葉を知らぬまま、幸村は衝動のままに言った。
 「某は、伊達殿を守りたい。」
 あれは、哀れみではなかった。愛おしい人を守りたい、その想いだった。
 政宗の眦から、涙が一筋流れ落ちた。










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