山に設けられた修練場で、佐助は差し入れの茶請けと茶を手に、空を仰ぐ幸村を眺めていた。
幸村がふとしたひょうしに手を休め何かを思うように天を見やり、はっとしたように慌てて厳しい表情で鍛錬をし直すのは、もう今日だけで数え切れないほどになる。佐助は心の中で溜め息を吐いた。
唐突に現われた伊達主従が突然奥州へと帰ってから、一月が経った。今では立派な盛秋である。幸村が政宗に押し倒されてからもう半年以上が経つのか、と佐助は感慨深いものを感じた。
「旦那、それくらいにして休憩にしませんか?」
佐助が声をかけると、幸村はぼんやりとした顔つきで佐助の方を振り向いた。あまり良い傾向ではない。佐助が苦笑するのも束の間、幸村が急に唇を噛み締め気を取り直して固い表情になるのは、更に良い傾向ではなかった。
「ほら、旦那。今日は星香堂の新作大福ですよ。」
「うむ。」
隣に腰を下ろした幸村に大福と茶を握らせて、佐助は澄み渡るように青い空を見上げた。
「今日はいい天気ですね。」
「そうだな。鍛錬には些か暑いが、秋には丁度良い天候だ。」
「本当良い天気ですよねえ。空なんてあんなに、青くて。」
「…そうだな。」
佐助の言葉に若干視線を逸らした幸村を見逃す佐助ではない。
(どんだけ長い間、アンタに仕えてると思ってるんですか。)
それでも幸村にしてみれば、随分と隠し事が上手くなったものだ。もっとも常人に比べるべくもないほど感情が素直に表れているが、昔は全部包み隠さずなんでも話してくれる子だったのに、と佐助は一抹の寂しさを感じた。
「…まだ勘違いしてるんですか?ちゃんとこの前のは誤解だって説明しましたよね?」
答えはない。何よりもこの沈黙こそが答えだと思いながら、佐助が言葉を続ける。
「確かに音沙汰があれから一切ないのはちょっとアレですけど。あの人が気になるなら、文の一つや二つ旦那から出すなり、直接会いに行くなりすれば良いじゃないですか。」
佐助に春画を押し付けた政宗は、佐助が幸村相手に四苦八苦している最中、信玄にだけ帰る旨を伝え帰っていた。奥州に潜ませた草からの報告も政宗からの連絡も一切ないので、伊達主従が突然帰った理由は定かではない。
(前々から思ってたけど。うちの草、ちょっとサボってない?ていうか忍っていう割りにそういう隠密活動してないっていうか、うちの忍。)
減給してやろうかなどと奥州の部下に思いを馳せつつ、佐助は空から幸村へと視線を移した。
「ていうか、旦那はどうしたいんですか?」
佐助の問いに、幸村は無言で何か考え込んでいるようだった。瞳の上で目まぐるしく入れ替わる感情は色ボケした者のものではない。信玄を大将に据えた戦場で見せるものだ。確かに幸村は直情的で感情が読みやすい傾向にあるが己は何か勘違いしているのだろうか、と佐助は首を捻った。
不思議に思う佐助を前に、幸村が己の中で言うことの整理をつけたのか、重い口を開いた。もとより隠し事が出来る性質ではないし、話す機会を見計らっていたのかもしれない。
「あのときの説明は、まあ、嫌というほどされたから、別にもう勘違いはしておらん。」
そのときの説明に伴った教育を思い出したのか、幸村の顔は赤い。
「そうですか、そりゃ良かった。」
「それから、伊達殿に会いたいのかと問われれば確かに否とは答えられぬが。」
だったら会いに行けば良いじゃないですか、と簡単に続けるには少々幸村の顔が暗い。政宗から音沙汰もないし、すっかり存在を忘れられているとでも不安になっているのだろうか。政宗は奔放で勝手で気紛れだ。もしかしたら、と佐助も少しだけ思わないでもなかった。だが春先も初夏突然甲斐に来訪してくるまで、政宗からの接触は一切なかったのだ。大体、武田を撹乱することだけが目的であれば、いくら信玄が奇特とはいえ、君主自らが出張るには危険極まりないし、何より政宗の思いは本物だと佐助は思った。
しかし佐助は口を挟まず、幸村の言葉を待った。両手で握り締めた茶の水面を睨みつけ、どこか泣きそうな声で幸村が続けた。
「伊達殿は奥州の君主で、俺は武田の単なる一配下にすぎん。」
「…それは別に、あの人は気にしないんじゃないですか?」
そもそも最初に手を出してきたのは政宗の方なのだ。今更身分の差を気にするなどとも思えない。大体、気にするような人間であれば、敵武将を婿に希望したりしないはずだ。
佐助の言葉にも幸村の表情は晴れない。
「佐助よ。」
「はい。」
「俺は真田の人間なのだ。武田を捨て伊達に降ることは出来ん。」
深刻な声で放たれた台詞に、別に、武田を捨て伊達に降るとかそういうことでもないのではないかと佐助は思う。たかが結婚だ。敵方の君主と武将の結婚ともなれば、政治的要素は多分に含まれるには違いないが、幸村が武田を捨てる必要性も伊達に降ると考える必然性もさしてないように感じた。
佐助の疑問を見て取ったのか、幸村が言う。
「兄上が徳川に婿入りした今、真田の当主は、俺だ。」
あまりに甲斐の地に長く居すぎたため佐助が失念していた事実を、辛そうに幸村が告げる。
「今でこそ戦続きでいつでも馳せ参じることが出来るよう甲斐に居るが、もともと上田に帰らねばならん身だ。他の地に赴くなど、もっての外」
求婚者である政宗は伊達の君主だ。夏の間こそ甲斐に居たが、それこそ、幸村以上に家を離れられない身であることは想像するまでもない。
双方共に、他に兄弟はなかった。
「伊達殿を想う気持ちに嘘偽りはないが、それでも、」
幸村が吐息と共に吐き出した消え入るような台詞の末尾を、佐助の性能の良い耳は捉えた。
胸をつかれた思いがして、佐助は再び天を仰いだ。空はひたすらに青い。晴れやかな様が皮肉な気がして、佐助は視線を逸らすと小さく嘆息した。
「そういうもんですか、ね。」
(人を愛おしく想う感情を、殺さねばならないなんて、)
勿論、佐助とて真田の忍だ。幸村の義務と決意を理屈の上ではよくよくわかってはいた。しかしそれが実際にどれだけの意味を成しているのか、感情の上では納得出来そうにもなかった。
それははたして幸せなのか、幸村に尋ねたかった。