夏の日差しも暴力的なまでに強まり、蝉が求婚に鳴く声も煩くなった。
纏わりつくような暑さと騒音に顔を顰め、佐助はくないを磨く手を休めた。流れる汗で額に張り付いた髪を針金で上げ直す。この暑さでは、北国生まれの姫君でなくとも閉口しようともいうものだ。
唐突に幸村との求婚を申し立ててきた政宗は、現在、信玄が勧めたこともあり甲斐に滞在中である。世は戦国で夏真っ盛りだというのに、戦一つない。これでいいのか武田と伊達、と、別段戦が好きなわけでもないがさしもの佐助も言いたくなった。
というか、君主が城を離れて伊達は大丈夫なんだろうか。陸奥や北条も取り込んだばかりで、防衛や統治が大変だろうに。
他国のことなので、そこら辺のことを佐助はあえて考えないことにした。
それにしても、暑い。
そのとき。
「佐助、伊達殿を知らぬか?」
近付いてくる気配を察してはいたものの、幸村の予期せぬ言葉に佐助は珍しいこともあるものだと眉を上げた。破廉恥破廉恥と政宗を忌避している幸村が政宗を探すなど、よほど重要なことでもあったのだろうか。
「どしたの旦那、あの人探すなんて。」
「うむ、」
言いにくそうに一呼吸間を置き、幸村は佐助の問いに答えた。
「お館さまが今夜酒宴を開くから、伝えて来いと仰られたのだ。」
そんな些細なこと、伝令で事足りるだろうに。わざわざ幸村に命じる点から察するに、信玄も幸村が政宗と結婚するのは満更でもないらしい。
それでも、ただ単に面白がっているだけかもしれない。何しろ信玄と謙信のネタ好きといえば、全国に轟くほど有名な話なのだから、と佐助は内心一人納得し、幸村に言った。
「あの人だったら、ほら、北国の人でしょ?それで甲斐の暑さにばててたから、四半刻ほど前に裏山の水場に案内してそれっきりですよ。」
俺様が付きっ切りでいなきゃいけないようなことでもないし、と告げる佐助を、幸村はしかと見詰めた。
「佐助、」
「…何ですか?」
「悪いが、俺の代わりに伊達殿にお館さまの言葉を伝えてきてくれないか。」
「いやですよ。」
佐助はきっぱり返答すると、幸村に対し、手の中のくないを若干わざとらしく見せ付けるようにして披露した。
「ほら、俺様は今くないのお手入れしてるわけですし、それは旦那が大将に頼まれたことなんでしょ?だったら自分でしなきゃ。」
本当は、馬に蹴られて…というよりは政宗に斬られて死ぬのを嫌がっての言葉だった。大体、信玄が色々画策した上での幸村への命令なら、佐助が邪魔していい筋合いではない。
「ざずけえ。」
「駄目ですって、ハイ、行ってらっしゃい。」
今にも泣き出しそうな幸村の背を押し、裏山へ手を振って送り出し。しばらく経ってから佐助は幸村に振っていた手を止めた。
(デバガメじゃないよ別に。ただ、さ。)
ただ二人の様子が気になるし、幸村がとてつもなく心配なだけだ。何より、暑さに、くないを磨く手も休みがちであるし。
(ちょっと様子を覗いてきちゃおうかな。)
言い訳を口にしつつ、佐助は裏山へと急いだ。
裏山にひっそり設けられた秘密の水場に着いたとき、佐助は少なからず驚いた。
(旦那が逃げないで、あの人と普通に話してる…!)
暑さにへばっているからとはいえ、気は抜けない。政宗が異様に気配に敏いことをここ一週間で思い知らされていた佐助は、こそこそ木陰に隠れながら、二人の会話が聞こえる距離へ近付いた。
「某にはわかりませぬが、それほどまでに甲斐の夏は厳しいものですか?」
「奥州に比べれば地獄だ。」
姿は未だ梢に隠れ見えないものの、普段の力強さの欠片もない政宗の頼りない声が佐助の耳に届いた。
「もっとも、あっちの夏だって俺にとっては酷暑だが。」
「それは…伊達殿は暑さに弱くあられるのか。」
「まあな。」
あまりの暑さに政宗が幸村に言い寄る気力もないことも理由には挙げられるだろうが、幸村には、普通の会話程度なら支障はないようである。ちょっとした発見に、もしも政宗が言い寄らず幸村が異常に勝負好きでなければ二人がこういう友情を育んでいたかもしれないなあ、と佐助はふと思った。
「なあ、アンタは暑くねえの?」
パシャと水を打つ音がした。
佐助が緑の間からどうにか覗き見ると、視線の先には、先程まで泳いでいたのか全身ずぶ濡れの政宗が水に腰まで浸かっていた。襦袢一枚だ。そのうえ透けた布に肌が張り付いているため、普段よりよっぽどエロい。
(この人こんな格好になって、どうやって帰るつもりだったんだろう。)
水場に連れてきた佐助が探しに来るまで、ここにいるつもりだったのだろうか。そのまま帰るつもりだったのだろうか。…公衆の面前など気にしなさそうな政宗のこと、後者かもしれない。
というか。
佐助は幸村に視線を移した。
(いつもよりも今の方がよっぽど破廉恥な感じがするけど、本当、旦那の破廉恥の基準って何なわけ?)
幸村は、前田夫妻が揃って戦場に立つことを破廉恥だと喚いていた。しかし、かすがに大しては何も言っていなかったような気がした。
己が情操教育を施したわけではないとはいえ、佐助は痛む頭を抱えた。
「俺なんか死にそうなのに。」
パシャリと再び音が立つ。水にたゆたう政宗が、岩場に腰掛ける幸村の方へと一歩踏み出した音だった。
幸村は気付かない。
「某、寒さは苦手でござるが、暑さには強いゆえ。」
「俺とは反対だな。何が違うんだ?」
政宗が力なく垂れていた腕を伸ばす。ぺたりと額に触れた手の感触に、幸村がはっと肩を揺らした。
「熱い…、基礎体温が違うせいか。」
政宗が普段幸村に迫るとき用いる妖艶な雰囲気は鳴りを潜め、それは、ただ淡々とした口調だった。
が。
「暑さに涼しさで対抗すんじゃなくて、熱さで忘れるのもいいかもな。」
(直球の誘いじゃん!)
しかし鈍感な幸村は政宗の誘いに気付かない。
流石の政宗も、元々体力を消耗していたこともあり、口を噤んだ。幸村も静止したように動かない。二人の攻防を、佐助は固唾を呑んで見守った。
幸村の乾いた唇が微かに動く。
「伊達殿。」
「ん?」
「いや、そ、その。」
居心地悪そうに逸らされた目は、幸村がようやく、政宗の格好の際どさに気付いたからだろう。
「どうした、真田。暑さで頭が茹ったか?なら、」
微かに見えた勝機に政宗が小さくほくそ笑み、幸村の手を強く引いた。
「アンタも、水浴びでもすればいい。」
バシャン、と大きく音が立ち、思わず佐助は瞑目した。
「伊達殿!」
非難の声をあげる幸村は、政宗に負けず劣らずずぶ濡れだ。政宗が心底可笑しそうに声を立てて笑った。
「だってアンタが悪いんだぜ?そんなどもってばっかいるから。」
「どもってなど!」
「嘘吐くなよ。アンタ、俺と対峙するときはいっつもどもってばっかじゃねえか。」
「そ、それはっ。」
「ほらまた。」
くつくつと笑い続ける政宗に憮然とする幸村の顔は赤い。
「なあ、アンタ、俺が本気じゃないとでも思ってんのか?」
「…!」
「俺はこんなに本気なんだから、アンタもいつまでも逃げてないで、正々堂々返事をくれたっていいんじゃねえか?」
政宗は岩場に背を預け、不敵に笑った。
「なあ、真田幸村。」
その一言で、佐助は幸村の敗北が色濃いことを悟った。いや、と佐助はすぐさま考えを改める。
既に幸村の敗北は決していた。
「伊達、殿。」
つと幸村の震える手が政宗の頬へさし伸ばされた。政宗が嬉しそうに勝利の笑みを浮かべる。
やけに蝉の音が大きく耳に届いた。
(いつまでも子どもだと思ってたら、旦那もいつの間にか一人前の男になっちゃったんだね。)
佐助は感慨深さに沸いた嘆息を噛み殺し、これ以上はそれこそデバガメだと、水場をこっそり後にしたのだった。