空は青い。洗濯物がよく乾きそうだ。
最後の洗濯物である白い手拭を干し終え、佐助は額を拭った。未だ夏の盛りではないが、それでも暑い。
ここ数日天気も良いし、これといった不安要素があるわけでもない。戦国時代というのが嘘のように、甲斐の地は平穏だった。
戦国時代なのに戦をしないでどうする、と佐助は思う。佐助は別に戦を絶賛しているわけでも推奨しているわけでもない。戦はない方がいいに決まっている。
だが、戦をしない理由が小娘一人に出会わないために、というのがおかしいと佐助は思うのだ。
空になった洗濯籠を取り上げ、佐助は眉間に皺を寄せ縁側の方へと歩いていった。
佐助の主である幸村が奥州筆頭伊達政宗に唇を奪われてから2月。すっかり幸村は政宗を恐れ、伊達関係に尻込みするようになった。伊達の出る合戦に喜び勇んで飛び込んでいき、会ってはすぐさま決闘を申し込んでいた昔が嘘のようだ。
勿論、幸村が伊達を避けているからと言って戦がなくなるわけではない。信玄が謙信と戯れのように合戦をし、本願の上洛が放置されていることも、伊達とかかわりを持たない理由に挙げられた。
しかし武田が戯れている間にも、伊達は陸奥の一揆を治め、北条を平らげ、とうとう織田領にまで足を伸ばしているというではないか。
もしかして幸村とのことはこちらを混乱させるための軍略だったのではないか、と佐助は思う。
あれ以来、伊達からの接触は一切なかった。
(実際そっちの方がいいかもしれないけど、でも旦那がどっちにしろ哀れだなあ。)
佐助は溜め息を吐いた。当然主の貞操は大切だが、このまま放置されていても良いわけがない。幸村は正直相手をするのが億劫なくらい、純情なのだ。
悩みは尽きない。
そのとき。
「さささささささささささささささすけええええええええ!」
転ぶようにして縁側から飛び出してきた主の姿に、佐助は正直度肝を抜かれた。幸村は今にも泣きそうな顔をしていた。
「どしたの、旦那。」
「ああああああああ!」
「ちょっと落ち着いて。はいー、深呼吸ー。」
しばらくして、深呼吸の成果か若干落ち着きを取り戻した幸村は、佐助にはよくわからない顔色をしていた。駆けてきたときと、泣きそうな顔をしている点は変わりない。だが青いような赤いような。佐助の目には恐れているようにも、恥ずかしがってるようにも映った。
内心首を傾げる佐助の肩をひしと掴み、幸村が震える声で言った。
「あ、ああ、ああああの方がとうとう来たのだ!」
「おお、佐助。やって来たか。」
一言断りを入れてから佐助が入った応接間で、信玄が笑って伊達主従と向き合っていた。和やかな雰囲気だ。何故これほどまでに二人が打ち解けているのか、佐助は判断に困った。
戸惑いながらも腰を落ち着けた佐助に、政宗が目を細めた。
「真田はどうした?」
「旦那なら、今、憤死寸前でとてもじゃありませんがアンタの前には出て来れませんって。」
「ふぅん?」
政宗は何かを思うように宙を睨み扇子で床を二三度叩くと、人の悪い笑みを浮かべた。
「で?」
「それでですね、旦那に代わりに聞いてくるように頼まれたんですが。今回はどのようなご用件で…?」
信玄は心底面白そうに、佐助と政宗のやり取りを窺っている。
その大柄な体の後ろには、隠し切れていない大きな酒瓶の群があった。貢物で買収されたようだ。当てにはできないな、と佐助は内心溜め息を吐いた。
「勿論、…なあ、おっさん?」
「うむ、実はじゃな、佐助よ。この伊達の小娘が幸村を婿に欲しいと嘆願してきてのう。」
ガタン、と襖の後ろから何かが倒れるような大きな音がした。
当然気付かぬ政宗ではない。政宗は嬉しそうに立ち上がり、思わず瞑目した佐助の横をすり抜け、襖を一気に開いた。
「hi!真田幸村、元気だったか?」
そこには、床に鼻をぶつけたことだけが原因ではないだろうと思われる、顔中真っ赤に染め上げた幸村がへたり込んでいた。
「で、」
説教されるような形で、佐助は幸村と二人、政宗の前に並ばされていた。政宗の後ろに控えている片倉の同情の視線が痛い。
政宗は幸村ににじり寄り、そっと頬を撫で上げた。
「おっさんは問題ないって言ってくれたんだ。なあ、アンタはどうなんだ?真田幸村。」
「え?あっ、いや、そのっっ。」
居た堪れない雰囲気を醸し出す政宗と政宗に圧倒されるばかりの幸村を、信玄は可笑しそうに見ている。
(大将、アンタの弟子の危機なんですよ!?面白がってないで助けたら?!!)
当然佐助の心の絶叫など、信玄たちに聞こえるはずがない。
「なあ。俺とsweetでdangerousな結婚生活を楽しみたくないか?」
ぽたり、と。
現状を打破したのは、たった一滴の赤だった。幸村の鼻血である。流石の政宗も動きを止め、慌てて鼻を手の甲で抑えた幸村を見た。
「…what?」
いやそんな風にこっちを見られても。
次いで政宗に困惑を多分に含んだ眼差しを向けられ、佐助は顔を逸らした。その一瞬をつき、幸村が鼻を押さえ部屋から逃げ出す。
それまで事の成り行きを静観していた信玄が、とうとう大きな笑い声を上げた。
「どうじゃ、伊達の小娘。幸村は一筋縄ではいくまい!」
「Ah―…、I see.」
正座で相対する存在を失った政宗は、足を崩し胡坐を掻くと、心底不服そうに信玄の言葉に相槌を打ちつつ、窓の方へと顔を向けた。窓からは微かに幸村のものと思われる悲鳴が聞こえてくる。
その政宗の様子を見やった佐助は、思わず息を飲んだ。隻眼を細め窓の外を見詰める政宗に、呆れ以外に愛情のような色を佐助は見受けた。
(…まさか、本気なの?)
幸村が逃げる際に通った畳には、点々と血で道が記されている。主のことではあるが、どうして鼻血を出すような男に心ときめかすのか理解に苦しみつつも、佐助はこれからも流されることになるであろう幸村の鼻血を思い、大きく溜め息を吐いた。
こういう後始末をするのはいつだって佐助なのである。