一行が一揆の起こった里へ辿り着いたとき、天気は捗々しくなかった。四半刻前から激しさを増した雪のせいで、今や視界は白一色に埋まりつつあった。豊臣軍の将として南に攻め入る機会が多かった三成は、降雪の中の行軍の厳しさを知ると同時に、足を取る深雪であっても容易く馬を操る伊達軍の機動力に舌を巻いた。
やがて先頭を行く政宗が手綱を引いた。馬は二三度前脚を振り上げると、首を振ってから止まった。三成には判然としなかったが、眼下に広がる村が件の里なのだろう。豊穣祭の名残だろうか、櫓が残るそこはよくある寒村の一つでしかなく、三成がこれまで幾度となく視察して来た村に非常に似通っていた。そのありふれた村が一揆の温床になるとは、実に嘆かわしかった。秀吉の下で強硬に刀狩りを推し進めてきた三成はきりりと眦を吊り上げた。
険しい表情で里を睨みつけていた政宗は、腹を括った様子で後背を振り向いた。政宗の紅い唇から白い吐息が立ち昇った。その凛とした立ち姿に、三成は眼を奪われた。白に埋め尽くされ色を失った世界で鮮烈な青を纏う雪の女王は、かつて三成が希望のうちに傅いた秀吉とは異なりながらも、非常に似通った光を放っていた。進んで膝を折りたいと願うような気高さだった。
政宗は体温を奪う冷気に負けじと、空へ愛刀を振り上げた。
「…テメエら、為すべきことはわかってるな!くれぐれも殺すんじゃねえぞ!Are you ready guys?」
「「「Yeah!!」」」
政宗の厳命に怒号が応えた。満足に策を与えられずとも、小十郎を筆頭に、政宗の部下は何を為すべきか知っているようだった。伊達軍は非常によく統制された動きで、眼下の里へと下り始めた。半兵衛が豊臣軍への編成を強く望んだだけのことはあった。三成は自らも後に続こうとする政宗の腕を掴んで引き止めた。
「貴様…造反した愚昧の輩の生与を許可するというのか。」
まるで心外だとでも言うように、政宗が片眉を上げてみせた。
「何のための精鋭だと思ってる?」
「たかが百姓ごときが謀反を企むなど心驕の極み、のさばる弱卒の根絶は道理だ!」
我慢ならず息巻く三成に政宗は苦笑をこぼし、肩を竦めた。眼には茶目っ気があった。
「たかが百姓ごときにかっかすんなよ。アンタが本気を出せば、刀だけ狩るくらい造作ないだろ。」
三成は柳眉を逆立てた。上げ足を取り茶化す政宗の態度には我慢ならなかった。三成は伊達を思って提言しているのだ。このような恥辱を味わわされるためではない。
今にも食ってかかろうとする三成の唇へ、政宗の指先が触れた。過ぎ去った蜜月を思い起こさせるやけに親しみの籠った手つきだった。ぎょっとして口を噤んだ三成に、政宗が白い歯をこぼした。僅かに漏れた笑声には、あの日関ヶ原で三成の胸を打った柔らかな響きがあった。
「杓子定規な生き方なんてつまらない。I decide a rule.――俺が法だ!」
言い捨てるなり、政宗が手綱をさばいた。三成は身じろぎもせず里へ下っていく政宗を眺めていたが、はたと我に返ると、表情を引き締め後に続いた。三成の耳は僅かに赤らんでいた。
里ではすでに戦闘が始まっていた。本来であれば戦闘とも呼べぬような小競り合いは、伊達軍が少人数であり、手加減を加えていることもあって、五分五分の戦いとなっていた。しかし、本気を出すまでもなく鎮圧できる戯れのような競り合いに過ぎなかった。
入り組んだ小道を進んだ先には開けた土地があり、まだ年端もいかぬような銀髪の小娘が巨大な槌の上に腰かけ、戦の行く末を見つめていた。雪の妖精を思わせる愛らしい少女だった。だが、幼さの残る頬は怒りに紅く染まり、眼は剣呑な色を湛えていた。
襲い掛かる農民を鞘で圧した小十郎が、娘へ呼びかけた。
「小娘、今すぐ農民たちを村へ戻すんだ。処罰なきよう、俺が政宗様に頼んでやる。」
小十郎の言葉に、いつきは動揺も顕に頭を振って否定した。
「そ、そんな手には乗らねえだ!おさむらいはみんな倒すんだ!おらたちとはわかりあえねえだ!」
小十郎は眉をひそめた。小十郎にはとても娘が謀反を企んだとは思えなかった。今回の一揆衆は、元来は、織田の圧政に耐えかね他所から流れて来た民だと伝え聞いていた。成程、他国からの流れ者であれば、政宗の統治を理解せず一揆を起こすこともあるだろう。しかし、眼前で頑なな態度を貫く娘に、一揆首謀などという賢しらな真似が出来るとは到底思えなかった。
「その手は田畑を耕すためのもんだろうが!血に染めて、どうするつもりだ!」
小十郎は襲い来る農夫を鞘で蹴散らしながら、誠心誠意諭した。娘が祀り上げられただけの象徴だとすれば、真の首謀者がいるはずだった。嫌な予感がした。
「もう少しだけ我慢するんだ…。そしたら政宗様が天下を治める…必ずだ。」
「おさむらいなんて、もう信じられねえだ!」
いつきは大槌から飛び降りると、緩慢な仕草で得物を構えた。
「いくさのうめえおさむらいは皆わるもんだ!あの青いおさむらいだって、おんなじだべ!」
「おい、小娘…政宗様をその辺の奴と一緒にすんじゃねぇぜ。」
独眼竜の蒼衣は有名である。だが、あくまでも、戦場での話だ。娘は一体どこから情報を入手したのだろう。
小十郎の胸中では嫌な懸念が凝り固まりつつあった。かつて覚えのある感覚だった。小十郎の脳裏に、小田原で傷ついた主を腕に峠を駆け抜けた記憶が蘇えった。これは政宗に対する卑劣な誘いの罠かもしれない。であれば、主に身を引くよう警告しなければ。舌打ちをこぼして身を翻そうとする小十郎の眼前へ、一頭の黒馬が乗りつけた。政宗の登場だった。
「お前、名はなんだ?」
馬上から投げかけられた問いに、いつきが呆けたように口を開け、大槌を地に下ろした。心底意外だったに違いない。いつきはしばらく睫毛を瞬かせてから、はっと我に返ったように答えた。
「え?お、おら…いつき。」
馬から飛び降りた政宗が、いつきを手で拱いてみせた。
「よし…いつき、お前の覚悟を見せてみろ。」
命を張って一揆を起こしたいつきに対する政宗なりの礼儀だろう。政宗の手には鞘ではなく一振りの真剣が握られていた。いつきは間誤付きながら、覚束ない手つきで再び大槌を構えた。
ただの誰何だといつきにはわかっていた。だが、塵芥に等しく扱われ、虚仮下ろされ続けてきた百姓にとっては、命にも勝る問いだった。
殺気立っていた舞台には、今や戸惑いが満ちていた。問いかけ一つで情勢は変わりつつあった。政宗の求心力、圧倒なまでの存在感の発露だった。
遅れて駆けつけた三成は、政宗の手腕に内心眼を見張った。三成は、絆で結ばれた天下を推奨する家康同様、政宗も他愛ない絵空事を推し進めているのだと思っていた。しかし、政宗はしかと地に足をつけて未来を築きつつあった。亡き秀吉にも三成にも描き得ぬ、政宗の天下だった。
三成は湧いた唾を嚥下した。気付けば、呼吸すら忘れていた。三成は政宗の紡ぐ夢に魅せられつつあった。
そのとき、立て続けに銃声が鳴り響いた。
誰も動けなかった。空気が凍りついた。政宗の身体が不自然に硬直し、血飛沫が上がった。二発目は肩に被弾した。政宗は悪態を吐きながら、多々良を踏んだ。流れた血が新雪を穢した。
真っ先に駆け出したのは、小十郎だった。小十郎は血相を変えて政宗へ跳びつくと、これ以上銃弾に晒されぬよう身を伏せさせ、覆いかぶさった。三度目の銃声が轟いた。ようやく三成も我に返り、愚劣極る行いに出た一揆衆を誅戮してくれようと刀身を抜きかけた。
だが、どういうわけか、いつきの顔には心からの恐怖が張り付いていた。
庇い立てする小十郎の巨躯を押し退けた政宗が、憤怒に隻眼をぎらつかせて吼えたてた。
「Do not do a playful thing. Appear!そこにいるんだろ、出て来い…ッ!」
男の笑声が響き渡った。辛酸を舐めさせられた伊達軍にとっては、忘れようとも忘れられぬ笑声だった。
政宗の挑発に応えて、久秀が姿を現した。対岸には、見知らぬ赤毛の女と多数の屈強な男たちが控えていた。挑戦的に腕を組んだ女は、赤銅の眼で見定めるように政宗を俯瞰した。
「独眼竜…ご機嫌いかがかな。」
俄かに場が騒然とし始めた。憤怒に駆られ身体を起こしかけた小十郎は政宗に制止された。久秀はくつりくつりと一人嗤った。
「驚いただろう…なに、楽しみ賃は結構だ。」
久秀の眼が弓なりに眇められた。三成はこのときが初見であったが、眼前の男に対しては嫌悪以外の何ものも感じなかった。ただ虫唾が走った。この男はためにならない。ここで殺すべきだと本能が告げていた。
烈々たる蔑視を向けられた久秀は三成を一瞥したが、何事もなかったかのように政宗を見据えた。
「卿からは、あの日貰い受けなかったもの――未来を貰おう。」
いとも紳士的に告げられた穏やかならぬ発言を、政宗は笑い飛ばした。
「Hum、代わりにアンタは何をくれるんだ?」
政宗の要求に、久秀は顎に手を添えて考え込んだ。しばらくすると逡巡で名案が思いついたらしくその口端に笑みがのぼった。久秀は快活に囁いた。
「そうだな…では、彼らの死を贈ろう。」
道化じみた仕草で指が鳴らされた。銃声が轟き、寒村に動揺が走った。
久秀の合図を皮切りに一揆衆の虐殺が始まった。黒い煙幕が視界を遮り、あちこちで絶叫が響き渡った。まさに地獄絵図だった。久秀の蛮行を小十郎が糾弾した。
「松永、テメエ…農民を相手に容赦なしか…!」
「鎮圧の手間を省いたのだから、感謝して欲しいくらいだが…ふむ、卿には何を言ったところで無駄だろうな。」
まるで小十郎の理解力の乏しさを嘆くかのように、久秀は肩を竦めてみせた。小十郎は米神に青筋を立てて激怒に身を震わせた。
「テメエだけはブッ殺す…ッ!!」
もとより、小十郎にとって久秀は憎悪の対象である。殺してはならぬ理由などない。小十郎の言い草に久秀が呵々大笑した。
三成の視界では、いつきがこぼれ落ちそうなほど大きく眼を見開いて、兇行を呆然と眺めていた。顔は雪よりも白くなっていた。己の犯した過ちに怯え、視認出来るほど震えていた。己も標的の一つであること、自分の身を守ることなど念頭にないようだった。
銃声が響いた。三成は手近にいたいつきの腕を掴み、地面へ引き倒した。間髪入れず、銃弾が空を引き裂いた。三成はいつきの双肩を掴み一喝した。
「貴様、政宗が救済すると決めた命を無駄にするのか…ッ!」
例えかような愚挙を神仏が黙認しようとも、三成には許すつもりなど毛頭なかった。みすみす政宗を死地に誘いながら勝手に死ぬなど、許せるはずがなかった。三成の面罵に、いつきは濡れた眼差しを久秀へ向けた。裏切られたわけではない、仲間の死を拱いたは自分の浅慮ではない。そう慰めを求め、一縷の望みに縋る、頼りない視線だった。久秀は冷笑を返した。
「君には甘言を贈ろう…。欲しかったのだろう?」
久秀は後ろ手を組むと、虚脱状態のいつきに背中を向け、騙り始めた。
「幼子の遊びは嫌いではないよ、不思議だがね。」
しみじみとした口調だった。久秀の眼は夢見るように遠くを見つめた。まるで叶わぬ奇蹟を惜しみ、世の無常を嘆くかのような哀惜の眼差しだった。久秀は数歩歩みを進めてから、背後を振り返った。
「残念だが、人はそんなに優しくはない。私が良い人間だったという結末などないよ。不幸自慢は他所でやってくれ。偽善が欲しいなら、他所へ行くのが一番だ。」
堪え切れなかったのだろう。いつきが鼻を啜り、小さく嗚咽をこぼし始めた。自由を夢見た巫女は今や絶望に暮れていた。いつきを眼下に据え、久秀が恫喝した。愉悦交じりの示唆だった。
「卿らが味わったのは世の本質だ。奪われた者が罪なのだ!」
それから一転して優しい声で、久秀は切言した。
「大丈夫だ、死ぬとしても一瞬ですむ。」
久秀の妄言に、三成はもう我慢ならなかった。だが、驚くべきことに、久秀の台詞に反発を覚えたのは、三成だけではなかった。それまで無言で控えていた孫市が、嫌悪に顔を歪め、広場を挟んで向かいに立つ久秀へ蔑視を向けた。
「お前は我らの誇りを侮った。」
自由を尊ぶ雑賀衆にとって、久秀の揶揄は謗言以外の何ものでもなかった。自由を愚弄した久秀は言うに及ばず、弄された甘言に屈し理念を違え、他愛ない自由を欲した百姓に銃を向けた造反者も同罪だった。
「我らは自由という名の偉大なる我侭を尊重する。」
孫市は厳めしさすら感じさせる固い表情で撃鉄を引き上げ、久秀を守るため銃口を向けた元仲間を一撃の元仕留めた。迷いはなかった。精神の惰弱は罪ではない。生への固執も一概に罪ではない。だが、穢れた金に惑わされ媚を売る輩が己の群れに居たことが、如何であり恥辱でもあった。
孫市は再び撃鉄を上げると、銃口を天へ向けた。ひときわ大きな銃声が喧噪を殺した。
「聞けッ!」
降り立った沈黙の中、孫市は身を乗り出し、頭領の言葉に耳を傾ける仲間たちへ宣言した。女王然とした有無を言わせぬ口調だった。
「我ら誇り高き雑賀衆、受けた屈辱は必ず返す!易くは買えぬ雑賀の名、存分に味わうがいい!」
紛うことなき久秀への布告だった。孫市の言葉の端々からは、並々ならぬ怒りが感じられた。それは生粋の雑賀衆も同様らしく、歓声が上がった。自由を尊重する雑賀衆にとって、久秀は罪過の象徴だった。湧きたつ部下らの同意を得た孫市は、爛々と眼を光らせ、良く通る声を張り上げた。
「休戦だ、只今より我らは伊達の味方となる!」
雑賀衆の反旗にも、久秀は余裕を崩さなかった。雑賀衆も織田相手に辛酸を舐めたという。おそらく、同族への憐憫が燻ぶり続けていたくだらぬ感傷を再燃させたのだろう。久秀は物思う様子で僅かに首を傾げ、一人ごちた。
「火薬が強すぎたか…計算外だが、まあ問題あるまい。」
久秀が部下に要求する素質は、自己を持たぬことだった。久秀は己が望むまま踊る傀儡を愛でた。敵であれば弄ぶ気にもなろうというものだが、調教する上で気位の高さは邪魔にしかならないことを久秀は承服していた。
端から、久秀は籠を厭う三つ足の烏など爪の先ほども当てにしていなかったのだ。
「状況は流転する…有利、不利、それが何だ。欺瞞、欺瞞。」
久秀の嘲笑に合わせて、牧歌的な村の影から多数の兵が現れた。男たちは一様に鬱金の装束に身を固め、松永の家紋を背負っていた。
新たな敵の出現に、失血で貌を白くした政宗が舌打ちをこぼした。いくら精鋭とはいえ、伊達は少数。一揆衆は壊滅状態にあり、雑賀には造反者も出ている。政宗からしてこのザマだ。到底、楽な戦いとは言えなかった。
そのとき、静かに泣き暮れていたいつきが、三成の拘束を振り解き、震える声で久秀へ詰問した。
「なんでこんな簡単にみんなを…!おらたちは生きてちゃいけないだか…?」
悲憤に彩られた悲鳴だった。血反吐混じりの、魂の叫喚だった。自身も覚えのある強烈な感情に三成は顔を曇らせた。多分に偏狭な面のある三成には、いつきの失意がもはや他人事とは思えなかった。無感情な眼でいつきを一瞥した久秀は、酷薄な笑みを浮かべた。今のいつきならばわかる、笑みならぬ笑みだった。
「もう一度言ってくれ、よく聞こえなかった。」
のうのうと久秀は言い放った。憎悪を奮い立たせようと努力する者にとって魂の圧し折れる、ぞんざいな無関心さだった。見る間に、大きく見開かれたいつきの眼から涙が滂沱となって溢れ出した。
三成は泣き崩れたいつきの激しくしゃくりあげる身体を掻き抱き、久秀をねめつけた。今の三成には、眼前の男に対して憎悪すら感じられた。おぞましいまでの虫唾が走った。この男はためにならない。ここで殺すべきだと本能が告げていた。
苛烈な殺意を向けられた久秀は三成に薄く微笑んでみせた。
「強い面持だ、壊し甲斐がある。」
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