第五話


 藍をこぼしたような鮮やかな夏空には白雲が棚引いていた。
 三成は天を仰ぎ見たまま、隣で同じように寝転がる政宗の気配を窺った。政宗は身動ぎ一つしないで、空を見上げていた。他の主だった武将たちもそれは同じだった。彼らは、そして自分は、天に何を見ているのか。喪失したものの幻影か、未来への展望か。
 三成は眼を僅かに眇めた。政宗との決着は勝利には程遠く、第六天魔王との死闘は志半ば、全身は痛みに苛まれているにも関わらず、三成の心は凪いだように静かだった。政宗への異様なまでの固執は氷解し、淡い温かな感情だけが胸に残っていた。未だそれを何と呼ぶべきなのか知らぬまま、三成は久しぶりの安寧に身を任せて呟いた。
 「…秀吉様の明日を奪った罪を忘れるな…。小蛇の無様をさらすようなら――。」
 一瞬間を置いてから、三成は言い放った。
 「私がいつなりと誅戮する。拒否は許さない。」
 三成の物言いに、天を仰ぐ政宗が一笑した。嘲る類ではなく、耳に心地良い響きの笑声だった。
 「上等だ。お楽しみが増えるってもんだぜ…!」
 隠すつもりもないのか、喜悦を滲ませた政宗の発言に三成は狼狽した。政宗は復讐に囚われていた三成の心変わりを心から喜んでいるようだったが、三成には政宗が三成の変心を喜ぶ理由が理解出来なかった。おそらく、問いかければ政宗は解を寄越すだろう。しかし、三成は努めて意に介さないよう心配ると、地面に寝そべっている慶次を視界の端でねめつけた。
 「…貴様が、前田慶次か。」
 「ああ。」
 何の衒いなく肯定した慶次は、仔猿にじゃれつかれ頬を緩めた。精悍な面立ちだが、笑うと不思議なほど人好きのする男だった。三成は脳裏に亡き主の御姿を思い描いた。秀吉は部下に相対するとき常に厳めしく、渋面で叱咤激励することはあれど、相好を崩すことなどまったくなかった。
 「…頼みがある。」
 仔猿が首を傾げた。慶次は仔猿の小さな手を指先で弄びながら、尋ねた。
 「なんだい?俺にできることなら、何なりと言ってくれ。」
 三成は再び天を見上げた。秀吉は三成の知らない顔をいくつも持っているのだろう。かつては、ねねなる娘と愛情も育んでいたと聞き及んでいる。三成はそんな主の過去が知りたかった。
 「…私の知らない、秀吉様の話を――いつか聴かせてほしい。」
 三成の言に場の空気が変わった。一刻前ならば反感しか催さなかったはずの哀切の情も、今の三成にはすんなり受け止めることができた。それがわかればこそだろう。慶次は口端に微笑を湛え、あっけらかんと応じた。
 「ああ。いつでも、お安いご用さ。」
 幸村と家康の会話が後に続いた。三成は何とはなしに耳にしながら、常に胸に抱いていた主の像と世間での評価の齟齬に心を痛めていた。秀吉が偉大であったことは、政宗たちにしても否定のしようがないだろう。関ヶ原を震撼させた第六天魔王の他には、あれほど天下に近く、勇猛を振るい、諸大名らに危機感を抱かせた存在もなかった。
 「…三成。」
 ふいにかけられた声に、三成は瞼を閉ざした。家康はそんな三成の態度に気分を害した風もなく、ただ切なげに僅かに眼を眇めた。
 「ワシはお前と共に、いつか絆の力で天下を統べることを望もう。」
 家康は熱っぽく言い募った。
 「…慕ってやまない人の志を継ぐことも、…大切な絆だ。」
 「…なれ合いはしない。」
 素っ気ない三成の返答に、家康は苦笑をこぼし何か言おうとした。だが、気が変わったらしい。
 「…お前らしい。」
 悪戯っぽい笑みを浮かべると、家康は勢い良く上半身を起こした。家康の眼には、児戯にも等しい茶目っ気が浮かんでいた。
 「…ではどうだ、力づくで決めるというのは?」
 三成は身体を起こし、肩越しに家康へ一瞥投げかけた。無駄に長い付き合いではない。三成が想像した通り、今や家康のそれは満面の笑みと化していた。家康も長い付き合いから、三成の返事を予想してあるのだ。酷く高揚し、期待を募らせて落ち着きに欠いた家康へ、三成は肩を竦めてみせた。
 「…よかろう。」
 政宗の満足気な笑声が響き渡った。再び三成は密かに狼狽したが、誰の目にも止まらなかったらしい。身体に走る痛みを押して飛び起きた政宗は、唇を僅かに歪めて、長年の好敵手へ挑発的な流し眼をくれた。
 「俺たちもおまちかねのPartyと洒落こむとしようぜ、真田幸村!」
 気が早いことに、政宗の手は刀の柄へと伸びていた。
 「…望むところにござる…!」
 俄かに血気づいた幸村が眼を輝かせて政宗に頷き返した。
 その遣り取りを視界に収めながら、三成の機嫌は急下降した。三成はあんな風に政宗を熱くさせる幸村が腹立たしくてならなかった。だが、冷静沈着を旨とする自分がこれしきのことでへそを曲げているなどと気取られては堪らない。第一、機嫌を損ねる要素がどこにある。
 三成は口を一文字に引き伸ばし、家康の許へ向かった。歩みに沿って折れた肋骨が疼いたが、三成は意に介さなかった。亡き秀吉が亡くなるまで偉大な主で在り続けたように、三成が三成で在り続けるためにも醜態は晒せなかった。
 時置かず幸村の方へ歩き出した政宗も、微かに足を引きずっていた。しかし、幸村が左肩を痛めていることもあり、対して気には止めていないようだった。それ以上に、好敵手との決着に気が急いているらしい。政宗は抑えきれない興奮に頬を上気させ、眸を輝かせていた。三成が眼にしたことのない美しい貌だった。三成はそれを憎らしいと思った。
 「――Good luck。」
 すれ違う一瞬、三成にだけ聞こえる近距離で政宗が震える吐息を漏らした。先の満ち足りた笑声だった。三成が頑迷から醒め、政宗への固執を止めた今、二人の道が交差することは二度とないだろう。政宗だけではない、三成とても承知していた。だが――。
 ふいに込み上げた実感に三成は無意識のうちに足を止めていた。三成にはなぜこれほどまでに胸が痛むのか、判然としなかった。三成は固く拳を握り締め、かすれる声で呟いた。
 「…さらばだ。」
 ぎこちなく歩みを進める三成を前に、慶次は僅かに呆れた様子で苦笑をこぼした。つられて立ち上がったものの、慶次は誰かと拳を交えるつもりはなかった。慶次が取っ組み合いの大喧嘩を始めるとすれば、その相手は秀吉だったろう。だが、秀吉は疾うに故人だ。
 慶次は意気投合した二組の武将を感傷的に眺めていたが、やがて華々しく両腕を広げた。
 「さあみんなッ!正真正銘、最後の大喧嘩だッ!!」
 重心を低くして拳を構える家康に対峙するは、いつでも居合抜きが出来るよう刀の柄に手を添えた三成だ。邪魔にならぬよう距離を置いた場所では、無造作に六爪を構えた政宗が血気に燃える幸村へ笑いかけていた。慶次は花街仕込みの大仰しさで叫んだ。
 「恨みっこなしで白黒つけてくれ!」
 慶次の呼びかけを皮切りに、戦闘が始まった。
 重心を後ろに引いた左足に移した三成は、踏み込んできた家康の拳を間一髪で避けると、軸足を中心に回り込み家康へと斬りかかった。通常ならば避けるべくもない、神速の一撃だった。しかし、家康は苦もなく避けると、再び拳を連打してきた。
 闘志が漲るといえども、技に常の冴えがないことは二人とも承知していた。先の連戦で肉体は疲弊しきっていた。万全とは言い難い身体で無理矢理執り行う茶番は馬鹿馬鹿しいにもほどがあったが、そのくだらなさが今の三成には心地良かった。それは、家康にしても同様であったらしい。堪え切れなかった笑声を上げながら、家康が大地を蹴った。三成はやがて来る一撃に空を睨んだ。
 「秀吉様、半兵衛様――。今、ここに起たんとする不遜に、何とぞ、ご許可を…!」
 ぎらつく黄金の太陽が家康の姿を呑みこんでいた。三成は眼を眇め、家康を待ち受けた。
 善きことも、悪しきことも。秀吉の為した業は、生半可な決意では超えられまい。元より、超えられるつもりもない。秀吉の示した日ノ下の道を三成は辿るだけだ。
 「お二人のご教示は、生涯、この胸に…!」
 三成は全身全霊を込めて刀を一閃した。衝撃が走った。三成は奥歯を噛み締めた。久しぶりに得物を交えた家康は以前より腕を上げたようだ。拮抗する力を相殺するため、三成は後ろへ跳び退った。
 「絆を結ぼう、三成!」
 土煙を上げて突進する家康が、場違いな程朗らかに笑った。手甲が撃ち込まれるたび、刀と激しくぶつかり合って火花を散らした。
 「お前なら、誰よりも強い絆を築ける!誰かを心から、身命をかけて慕い尽くせるお前なら、必ず…!」
 豊臣秀吉、竹中半兵衛。誰よりも敬い、神に等しく崇めた主従はこの世を去ってしまった。
 無二の友と信じた吉継は、この身の犠牲となった。
 そして、眼前の徳川家康。
 意に染まずとも心を許した家康とは、道を分かつてしまった。だが、分かつてなどいなかったのだ。真の絆とは何ものにも代え難く、得難い物。三成はその事実が初めて腑に落ちたように思われた。今の三成には、秀吉を喪った世界が許容できた。過去を過去と割り切り、自らの二本の足で歩み始める腹が決まった。


 空はあの日を彷彿とさせる快晴だった。からりと澄み渡った空は、この手から飛び去った竜を思わせる蒼色に染まっていた。
 三成は家康の攻撃を捌くため、無言で刀を薙ぎ払った。家康は満足気に唸り声をあげ、三成の一撃に応じた。
 三成の口端には、あるかなきかの笑みが上っていた。










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