最初にそれに気づいたのは、武田の若武者真田幸村だった。幸村は成長し胎動する果実から生まれ出た存在に、大きく目を見張った。
「…第六、天魔王…!」
「織田、信長…なのか…?!」
前田慶次の一驚が続き、闇の中心地へ視線を向けた政宗は、腕を組み心底楽しげに笑った。言いようのない禍々しい瘴気。政宗は、そんなものを発する人物を一人しか知らなかった。第一、風を切るあの血色のマントは見間違えようがない。
第六天魔王、織田信長だ。
「…久々の、お出ましじゃねえか…!」
眼前の魔王を見据えている三成の眼が端に政宗を映した。我が目を疑う思いは、政宗とて同じだ。政宗はふてぶてしい笑みを湛えたまま、顎をしゃくってみせた。
「誰の企みか知らねえが、アンタらはこのサプライズPartyのダシに使われたらしいな。」
「全てはこのためだったということか…。」
顔を曇らせた徳川家康の言葉に、政宗も重々しく頷いた。流血と死を思わせる昏い天を戴いて、信長は高嗤いを上げていた。さぞや、復活が悦ばしいと見える。
第六天魔王がいる限り、家康らが希った泰平は遠い絵空事になり果てるだろう。民草は尽きぬ憂いを抱え、苦しみの内に生涯を終えることだろう。
政宗は満身創痍の身体を引きずって、駈け出した。例えそれが運命という名であろうとも、誰かの掌で踊らされるのは、まっぴら御免だ。
好敵手の疾駆に、幸村が決然とした顔つきで続いた。苦虫を噛み潰したような表情の慶次、過去仕えた最初の主との決別を胸に家康が姿を消し、呆気なく第六天魔王の攻撃に膝を屈した後も、三成は動けなかった。
三成は惑うていた。政宗の説明で、家康は得心がいったようだ。しかし、三成には理解が及ばなかった。この状況は、無二の友に亡き主の描いた未来を託した結果だ。減らず口を叩き儘ならない政宗の口を永劫噤ませ、天下にあまねく豊臣の威光を知らせようとした結果だ。
その結果が、この地獄絵図で良いはずがない。
「者々よ…!世に宴し勤めを果たせ!」
第六天魔王の咆哮と共に大爆発が起こり、阿鼻叫喚が広がった。
「やめ、ろ…。」
三成は苦心して立ち上がり、よろめきながら、一歩前に踏み出した。息をするたび、咽喉からはひゅうひゅう嫌な音がこぼれた。独眼竜の会心の一撃を浴びた身体は、痛みに悲鳴を上げていた。それでも、三成は身命を賭して足を動かし続けた。
一寸前の三成であったなら、諦念を胸に死を迎えていただろう。だが、今こそ、第六天魔王が復活し天下を曇天で覆い隠そうとしている今だからこそ、三成には真実為さねばならぬことがあった。
「貴様の蛮行を断じて許可しない…!」
腹蔵ない本心だった。
「これでは――秀吉様が統べようとした世が、滅んでしまう!」
三成は跳躍した。降り立った闇の中心地は、瘴気で煙っていた。もがき苦しむ人々を眼下に、居丈高な嘲笑を振り撒く第六天魔王が動き出す様子はない。三成は取り止めなくながれる悔恨を胸に、腰を落とし、刀を構えた。
「秀吉様の夢を…半兵衛様の夢を…、貴様などにッ、消させはしないッ!」
三成が高く地面を蹴ると同時に、信長の紅い目が三成を映した。瞬き一つの間だった。向けられた銃口が火を噴き、あまりの衝撃に意識がぶれた。
「ぐぉあああっ!!」
視界が朱に燃えていた。
「卑しき猿と故なきその尾よ…、脆き魂と為りて、悠久眺むる価値もなし!」
焔に巻かれたのだと悟る暇もなく、三成は憤怒に狂える銃弾を浴びせ続けられていた。降りかかる一撃毎に、息がつまった。戯れのつもりか、信長は致命傷を避けていたが、身に纏う鎧は虚しさすら感じさせるほど呆気なく罅割れていった。
無様に吹き飛ばされ、徐々に信長から遠ざかりながら、三成はきりもみして空を堕ちていった。岩山への激突に背骨が軋み、肋骨が鈍い音を立てた。手から離れた刀が、地面に突き刺さった。
連射に立ちこめた煙が晴れるまで、信長は無言で仁王立ちしていた。しかし、地面に倒れ伏した三成を眼下に据えると、呵々大笑した。
「力に溺れし野猿を崇めるなど、愚の極み!」
三成は反論しようと唇を開いたが、声を出すこともせず、激しく咳き込んだ。内臓をやられたのだろう。口元の土塊は赤く濡れていた。信長はぜえぜえ肩で息つく三成の様子を見ながら、止めを刺すべく引き金に指をかけた。
そのとき、一条の蒼い光が煌めいた。
「Ha!」
政宗の一撃に第六天魔王がたららを踏んだ。政宗は舌打ちをした。政宗にしてみれば不意を突いた渾身の一撃のつもりだったが、魔王には対して損傷を与えられなかったようだ。間隙を置かず小十郎の攻撃が炸裂し、他の者たちも後に続いたが、魔王に痛打を与えるには至らなかった。
それでも、周囲を飛び交う蠅ほどには不快だったらしい。
「無用どもがァァッ…!」
魔王の咆哮とともに、政宗の身体を衝撃波が襲った。勢い良く岩に叩きつけられた政宗は、激しく咳き込んだ。咽喉元に胃液がせり上がって来る。たかが死人ごときに、膝を屈するつもりはない。しかし絶望的なスリルに、政宗も今回ばかりは昂揚を覚えるより、事態を悲観せざるを得なかった。どうやって、死人に止めを刺せば良い?
信長は地面に張り巡らされた死の龍脈を通して、力に変換しているようだ。まだ、本調子でもないのだろう。だが、それがわかっているからといって、政宗は妖術使いではない。どうすれば良いのか、方案が浮かばなかった。
密やかに絶望が蔓延する中、戦場に揺らめく姿があった。
「…許さない…!絶対にッ…!」
あれだけの傷を負ったのだ、立ち上がることすら困難であろうに、三成は意志の力だけで戦場に立っていた。吉継は俄かには信じられず驚倒した。眼に不屈の闘志を湛えた容貌は、吉継が二度と眼にする機会はないと固く信じていた、かつての三成の姿だった。憤怒に燃え、哀惜に身を焦がしながら、三成は一個の血の通った人間として間違いなく生きていた。死人ではなかった。
豊臣の復興と、独眼竜の誅殺。それ以外の全てに無関心を貫く三成が、泥を啜ってまで必死にもがき苦しむなどゆめ思わず、吉継は混乱した。
吉継はただ友に静謐なる安寧をもたらしたいだけだった。吉継が求めたのは、闇る淵でもがき、夜を伴侶とし、死を供とする清冽な光である。このように、絶対的な絶望に抗いのたうつ人の姿ではない。
苦しませるつもりなど、毛頭なかった。
「唾棄すべき魔王…!…貴様などに…、秀吉…様のっ…、」
取り乱す吉継の眼前で、三成が腰を落とし抜刀の姿勢を取った。額からこぼれ落ちた紅が、細い顎を伝い地面に滴った。
第六天魔王は、眼前を飛び交う仔虫を五月蠅がる態度で粗雑に腕を薙ぎ払った。銃口から禍々しい妖気が紅い閃光となって走り、黒煙を立ち昇らせた。やがてそれは巨大な幻影となって、三成の前に立ち塞がった。信長同様、肉を伴った幻影だった。闇の巨像を従えた第六天魔王は一喝した。
「灰燼に帰するが良いわァァァ〜ッ!!」
吉継は考えるより先に印を結んでいた。複雑な指の動作によって生じた白銀の数珠が、闇の巨像の関節に取りつき、動きを阻んだ。常の吉継であれば、軽挙と嗤って相手にしないほどの愚かしい振る舞いだった。
「ぬわにィ〜?!むぅ。賢しいわあ〜!」
第六天魔王が眼に怒気を燃やしながら、声を張り上げた。巨像が身じろいだ。吉継は額に脂汗を滲ませた。吉継には端から解っていた。吉継がここで小手先の技を振りかざしたところで、蘇えった魔王の邪魔立てにはならない。拘束が解かれ、反撃されるまで、そう長くは保つまい。
「?!刑部!何をしているッ!」
粟食った様子で駆けつけた三成が、吉継と巨像の間に立ちはだかった。その眼は友を巻き込んだことに対する深い懸念と悔恨に翳ろうていた。三成が一度心を託した者を身命をかけて慕い尽くす様は、ひたすらに無器用で、無様ですらあった。まるで年端もいかぬような、美しい夢だけを見て育った童のような。吉継はその夢を守りたかった。
「なぜ貴様がここにいる!さがっていろ!」
血相を変えた三成が喚いた。今、吉継の為す妖術が破られれば、三成も吉継も共死にすることくらい、三成にも解っているはずだ。逃げるべきは、三成であるはずだった。にもかかわらず、義務感に縛られ、絵空事にしがみつく三成が吉継は滑稽ながらも愛おしかった。
「さがれ刑部!貴様は、これ以上苦しむな!」
言わせてもらえば、それこそ、吉継の台詞だった。吉継は不敵に嗤おうとしたが、意志に反して、乾き罅割れた唇から洩れ出たのは苦痛の喘ぎだった。第六天魔王がかっと眼を光らせた。
「ムダと知れェ〜ッ!!」
術を破られた衝撃が吉継を襲った。内臓がやられた。血反吐を咽喉に絡ませ絶叫する吉継の身を紅蓮の光が焦がした。吉継はもんどりうって地面へ倒れ込んだ。
「刑部〜!!」
三成の痛切な叫喚が響いた。吉継は止め処なく涙をこぼす三成の哀惜に、無くしたはずの心が痛くなった。吉継はもはや開けることすら億劫な重い唇を動かして囁いた。
「…今の今まで…気付かなんだが…、ぬしはわれを…われがぬしを思うと同じに見ておったと…いうことか…。」
生涯でただ一度きりの軽率な振る舞いに、腹の底から満足を覚えるなど、これほど滑稽なこともあるまい。黒く塗り潰され始めた脳裏では、走馬灯が翻っていた。どれもこれも三成だった。吉継は三成が己の中でこれほどまでに存在を占めていた自覚がなかった。この絆を真っ向から認めていれば、他の施策もあったであろうに。
「この世に、これ以上不幸なものはおらぬと…ヒヒッ…ヒヒヒヒッ…!…滑稽なことよ…。」
最期にそうこぼし、吉継は絶息した。
「刑部〜ッ!!刑部ッ、貴様が死ぬことを許さないッ!刑部ゥ。」
三成は吉継の亡き骸を胸に慟哭した。面を俯かせた拍子に、額から溢れる血が筋となり、まるで血涙のように眦から顎を汚した。零れ落ちた雫は包帯に滲み、痛憤の痕を留めた。
家康はその痛ましい光景に顔を曇らせ、言葉もない様子だった。それは政宗にしても、他の諸大名にしても、同じことだった。かの狂王が無二の友の死を嘆く姿は、皆の心を強く打ち、断たれた絆の強さを思い知らせた。家康は唇を噛んでから、苦渋の言葉を口にした。
「三成!信長をよく見ろ…!豊臣の時代――民の目に、秀吉公が…ワシらがどう映っていたのかを。」
友として、いつかは為さねばならぬことだった。
三成は吉継の遺体を掻き抱き、赤く濡れた眼で呆然と第六天魔王の凶行を見やった。轟々と焔が燃え盛り、瘴気が硝煙の如く立ち昇る中、信長は大笑しながら破壊を撒き散らしていた。地上には屍の山が累々と築かれていた。硫黄混じりの腐臭が漂った。
三成の脳裏には、在りし日の小田原攻めが蘇えった。突き付けられた残酷な現実に三成の理性は拒否反応を起こしたが、呆然自失の状態では抵抗も儘ならずすとんと腑に落ちた。三成は激しく狼狽した。家康の言は検討に値しない愚問と思いながらも、感情が応えた。
「そんな…はずは…!」
眼前では、慄く三成の無知を嘲るように第六天魔王が笑声を上げていた。
戦場を恐怖に陥れたお市は、地面に座り込んでいた。第六天魔王を復活させるまで常軌を逸していた眼には理性の芽生えが見られたが、およそ意志というものは見られなかった。狂乱状態からの目覚めと共に、生気を奪われた肉体は僅かに弛緩していた。
お市はうなだれ、何故こうなったのか、眠たげな眼差しで戦場を眺めていた。遊戯に飽いた童のそれだった。そのまま眠りに就きそうなお市の耳に、懐かしい声が響いた。
『…市…。』
熱を覚えるほどに温かな、けれど生真面目な程決然とした声は続けた。
『逃げるな、市…!今こそ、刮目するのだ。』
「…長、政さま…?」
お市は顔を俯かせたまま、微かに目を見張った。そんなはずがない、あの人は兄の手にかかって死んだはずだ。そう思いはするものの、お市の眼は亡き良人の姿を求めて周囲を彷徨った。
「これはお市様、まだこんなところにおられたのですか。」
強い戸惑いと恋慕に胸を打たれ、迷い子の如く辺りを見渡すお市の元へ、天海がゆったりした歩調で近付いていった。天海は嗤いながらも、お市の奇妙な行動に首を傾げた。だが、問うても無駄と判断したのだろう。天海は愛用する双頭の鎌へ手を伸ばした。
天海にとって、お市は譫妄に呑みこまれた哀れな人形だ。天海にも美を愛でる趣味はある。お市が国を傾けるほど麗しいことは否定しないが、感情に乏しく、実兄のような噛み応えも皆無。使い道と言えば第六天魔王の蘇生だけ。今や唯一の使い道すら失ったお市をわざわざ生かしておかねばならぬ理由などなかった。
「お役目、ご苦労様でした。」
ここで死なせてやるも情けだろう。天海はくつくつ笑みをこぼしながら、緩慢に上半身を捻り、鎌を振り上げた。
「この天海が冥底へと送って差し上げましょう――。」
天海の言葉に、微動だにしなかったお市の背が微かに震えた。色を失った世界で、お市の艶めく黒髪が花弁のように広がり、曼珠沙華を思わせる真紅が咲いた。
天海は何が起こったのかわからず、驚愕のうちに眼を見開いた。
先ほどまで座り込んでいたはずのお市は、すっくと立ち上がっていた。どこか決然としたその態度に亡き長政の姿を見た天海は、お市がたおやかな手に握り締めるものを見て、ますます当惑した。お市の掌中では、戦乱の最中に失われたはずの長政の愛刀が、淡い白光を放っていた。
「天魔ァァ、即ち五十年ンッ!!」
第六天魔王が地面へ突き刺した刀から、昏き光が迸った。世界が明滅し、衝撃が走った。政宗はまろぶように吹き飛んだ。同じ末路を辿った大勢の苦痛の喘ぎと共に、強烈な硫黄の臭いが辺りへ立ち込めた。
政宗は口端から垂れた血を親指で乱暴に拭い、起き上がろうとしたが、走る痛みに顔をしかめた。見やれば、先の三成との対戦で強かに斬りつけられた腿が腫れていた。足首も捻ったようだ。これでは、満足に歩くことも出来まい。だが、今ばかりはそうも言っていられない。政宗は苦痛に奥歯を噛み締めながら立ち上がろうとした。ここで第六天魔王の野望を阻止できなければ、日ノ本が闇に呑まれ二度と日の目を見ないことは、明白な事実だ。政宗が改めて辺りを見渡すまでもなかった。関ヶ原には絶望が蔓延していた。
しかし、そんな重い沈黙が垂れこめる中、ただ一人、立ち続ける男の姿があった。
「秀吉、様――、…ここに朽ち果てる、無様に――」
三成はよろめきそうになる足を叱咤し、突き立った刀の元まで歩いた。利き手は疾うに死んでいた。左腕も使い物にならなかった。それでもなお果敢に挑もうとする三成を、第六天魔王は嘲笑することだろう。常の三成とて、愚行と判ずる。しかし、秀吉の残した夢を守るため、三成は為さねばならなかった。三成は天に坐す主への哀悼を込めて咆哮した。
「何とぞッ…!ご許可をッ…!」
三成に迷いはなかった。三成は歯で柄を噛み締めると、鞘から刀を抜き出し、そのまま駈け出した。常ならぬ所業に、顎が嗤った。ばたばたと勢い良く零れ落ちる血が真紅の轍を描いた。
「刃に咎を、鞘に贖いをッ!!」
三成はしかと眼を見開き、信長の喉笛に鉄の顎を食い込ませた。掻き切った咽喉から黒煙が噴き出し、第六天魔王の動転した絶叫が響き渡った。
懐かしい声は続いていた。
お市は意志の灯った眼を瞬かせ、空を見上げた。他人に問えば、妄想と嗤われるだろう。だが、お市の眼にはしかと亡き良人の在りし日の姿が映っていた。清廉潔白なあまり、夢見がち、ともすれば融通が利かないと悪し様に罵られることもあった長政は、お市だけに許した温かな笑みで滔々と諭した。
『…今こそ贖うのだ、市――。』
長政の手が燐光を発する白花を差し出した。
『成せるのはお前しかいない。』
それは、生前に長政がお市へ捧げた花だった。実際には、枯れ細る前に、兄の手で散らされてしまった儚く脆い花だ。呼吸すら忘れ長政に魅入っていたお市はあえやかに嘆息すると、白花が壊れ物であるかのようにそっと手に取り、胸元へ運んだ。
長政との蜜月は斜陽の日々だった。いつ訪れるとも知れぬ終焉は、お市に浮世の無情を強調するだけだった。幾度、お市は長政を想って涙したことだろう。いずれ来る破綻を憂えて胸痛めたことだろう。愛する背の喪失に泣き暮れ、それでも、何も変わらないと思い知らされた絶望はお市の美しい貌から生気を奪った。
だが――。
「…長政さま…。」
長政が導くように首肯した。ただそれだけで、お市には十分だった。お市は決然たる態度で花を胸へ掻き抱き、小さく頷き返した。眼には良人の遺志を成し遂げようとする強い力があった。過ぎる感情に唇が震えていた。今や、心に深く立ち込めていた闇は晴れ渡り、お市には全てが明瞭に理解出来た。
自分が為すべきことも。
迷いなどなかった。
「にいさま…。」
誰もが息を殺す中、お市はゆっくり歩き出した。囁く吐息が白花の旋風となり、触れられそうなほど沈殿した瘴気を散らした。お市の視線の先では、半ば千切れかけた咽喉から第六天魔王が闇の血霧を吹き出していた。狼狽混じりの絶叫は続いていた。
誰からも恐れられ、誰も許容せず、常世の摂理すら拒み蘇えった亡霊。
今にして初めて、お市は兄の本性を理解した。そして、その生がどれほど悲哀に彩られていたかも。三成の脇を無言で通り過ぎたお市は、憐憫と情愛を胸に膝をつくと、愛すべき兄を抱き締めた。
「市と、ねむろう…。」
「化楽ゥ…?!うつけがぁ…。」
お市の肢体から温かな光が放たれた。浄化の光だった。光は白銀の花となって、地面に降り積もった。血に塗れた胴着へ頬をすり寄せる妹の抱擁を振り解こうと、信長は必死の形相で足掻いたが、儚い徒労だった。水音と共に生じた足元の黒き波紋が、二人の姿を呑みこみつつあった。お市は肉親を冥底へ伴いながら、嫣然と微笑んだ。
この身が常しえに根の国へ縛られようとも。それが、長政との永劫の離別を表したとしても。
「市が…ずっとそばにいてあげる…。」
お市の高らかな宣言によって開かれた闇の顎が、二人を噛み砕いた。豪雷が轟いた。空を舞っていたひとひらの花弁が、地面に闇の波紋を描き、掻き消えた。
誰も言葉を発さなかった。一体何が起こったのか、判然としなかった。いつの間にか空は晴れ渡っていた。
政宗は狐につまされたような心地で、呆然と現世から掻き消えた兄妹の残滓を見つめていた。まるで悪夢に魘された後のように、誰もが怖気を覚えていた。はたして、あれは白昼夢だったのだろうか。到底起こりうることとは思われなかったが、それが現実に起こった証として、関ヶ原には累々と屍が横たわっていた。
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