第三話


 九月十五日、関ヶ原。
 戦場では、吉継の策に踊らされた諸大名が混乱のるつぼにあった。
 「この無尽の闇、たとえ奴に死を刻み付けても掃滅されることはない。」
 三成は高地から群雄が割拠する戦場を見下ろしながら、その中に目的の人物を見定めて、眦を吊り上げた。竜の蛮勇はひときわ美しく三成の眼を奪った。それは三成にとって残酷な美しさだった。世界が崩落する音と共に宵を束の間照らし、その絶望的な闇の深さを再び思い知らせた青雷の絢爛さに、三成の鼓動は強く躍動した。視界が狭まり、赤く染まった。
 「そこに待つのは紛れもない虚無。私の二度目の死。」
 囁く三成の眼の下には色濃い隈が出来ていた。一度は癒えかけた創は、再び抉り返され、以前よりなおいっそう深いものになっていた。昏き絶望に盲いる三成の姿は、不思議とみなの眼を眩ませ惹きつけた。そこには吉継が望んだ、かつての高みを憾んで闇る淵にもがきし光の姿があった。
 幽鬼のような表情の三成に、整然と並んだ部下は恐れをなし、声もなく一歩引いた。眼下の騒乱が嘘のように、石田軍は静まり返っていた。ごくりと誰かが唾を嚥下する音が聞こえた。
 そのとき、騒然としていた戦場に男の声が響き渡った。
 「ここに集まった者は皆、織田、豊臣という二つの大きな力を、その恐ろしさを目の当たりにしてきた。」
 無秩序な沈黙が下りる中、三成は宴を邪魔する無粋な声に瞑目した。
 「秀吉様の御恩を忘れ、豊臣を去るのみならず、ここでもなお私の邪魔をするか。家康…。」
 「力のみに頼る者の滅びを我々は二度も見てきた。滅びを望んで力を振るう者など、ここにはいないはずだ!」
 三成は込み上げる憤りに歯噛みした。豊臣を離反した家康は、あろうことか、秀吉をかの第六天魔王と並べて愚弄しているのだ。家康の軽侮に、快活な声が賛同を示した。男が告げた前田慶次という名に、三成は聞き覚えがあった。秀吉の旧友と知られた男だ。秀吉を裏切った者の名を忘れるはずがない。
 豊臣に背を向けた男たちが、こうして秀吉が死した後も、主君を詰っている。到底、三成には許せることではなかった。三成が抜刀しようとしたとき、凛とした声が反論を上げた。
 「wait、ちょいと待ちな!その前にあっちこっち襲っていやがったのは誰なのか、ハッキリさせようじゃねえか。」
 女にしては低めの、耳に涼やかな声だった。幾度、この声があまやかに三成の名を紡いだことだろう。三成は抜きかけた刀身を鞘に納め、感情の見えない顔で衆目の前にその身を現した。
 俄かに活気づいたのは、家康だった。家康は僅かに身を乗り出すと、胸中の戸惑いはどうあれ、気の置けない万人の警戒を解く笑顔で三成を拱いた。
 「三成、待っていたぞ。こっちへ来て、お前も皆と話してくれ!」
 「…好きにやっていろ。私を巻き込むな。」
 冷徹な一言に家康が顔を曇らせるのを後目に、三成は滔々と語った。
 「真の絆とは奇蹟だ。」
 亡き秀吉と半兵衛が、主と参謀という垣根を越えて、どれほど固い絆で結ばれていたことか。在りし日の光景を思い出し、三成は烈々と心火を燃やした。自然と眦はつり上がり、声を荒げていた。
 「その歓喜を奪われた悲憤と憎悪は、貴様の吐くような綺麗事では決して消えない…!」
 その何にもまして得がたい軌跡を幕引いたのは、政宗だ。視線が錯綜し、三成の射るような眼差しを政宗は黙って受けとめた。政宗の僅かに憂いを帯びた眼は、早熟な深慮に満ちていた。三成の心は躍った。あの憐憫すら浮かぶ眼が、自分の手によって永遠に閉ざされる瞬間が待ち遠しくてならなかった。
 三成の嘆きを合図に、怒号を上げながら部下たちが攻め込んで行った。地上の兵たちは惨めたらしく間誤付いていたが、やがて、石田と徳川が結託していたものと早合点したらしい。
 今や、乱闘が再開されるのは時間の問題だったが、そこへ、火に油を注ぐ存在が音を立てて到着した。巨大な戦車の上に据えた大神輿に腰かけていた男は、億劫そうに立ち上がるなり、明朗と響き渡る声で家康や慶次の甘さを処断した。
 「愚かな…。絆など目に見えない糸に過ぎぬ。人は争えずにおられぬもの。その理に抗うは愚者の所業――。」
 安芸の智将毛利元就は、烈しすぎる感情を殺そうと苦心する三成と異なり、元来侮蔑や卑下といった冷酷さ以外持ち合わせのない眼差しで、眼下にひしめき合う兵どもを見渡した。
 「関ヶ原に集いしすべての駒どもよ!見知らぬ顔あらば残らず斬らんと致すが良い!」
 元就の言葉に惑わされた雑兵が、近くにいた他国の兵を戸惑いがちに斬りつけた。一度堰き切って溢れだせば、悪感情の堤が決壊するのは早かった。元々、ここは戦場だったのだ。休戦協定の場ではない。矢が飛び交い、血が流れ、怒号の入り乱れる戦場に、元就は満足そうに宣伝した。
 「勝ち残りし者が天下人!これぞ、天下分け目の戦場なり!」
 同調した輩の歓声が響き渡った。
 突如始まった茶番に、三成は肩透かしを食らった思いで戦場を見渡した。
 騒乱の只中にあっても、闇夜に閃く蒼雷のように、政宗の姿を見つけるのは実に容易いことだった。すぐさま戦場へ繰り出そうとする三成へ、吉継が嗤った。
 「毛利め、思わぬ賑やかしよ。お陰で戦場がより渦るわ。」
 ぽつりとこぼした吉継は高みの見物を決め込んでいるらしい。元々病弱な男だ。策謀家である吉継が、強いて戦場へ向かう必要はあるまい。
 「お膳立てはいたしたゆえ、あとは好きに殺すがよかろ。」
 からからと笑声を上げる吉継へ、三成は生真面目すぎる眼差しを向けた。
 豊臣秀吉、竹中半兵衛。誰よりも敬い、神に等しく崇めた主従はこの世を去ってしまった。
 伊達政宗、徳川家康。意に染まずとも心を許した二人とは、道を分かつてしまった。三成が彼らを許す日は二度と来ないだろう。
 豊臣の威光を天にあまねく知らしめようとする三成に、今なお追従する者は、吉継だけだ。
 三成は言葉少なな口を開いた。世辞は嫌いだ。
 「感謝する。」
 真っ直ぐ視線を向けて述べる三成に、吉継はどういうわけか言葉を失った。見開かれた瞳が驚愕を伝えていた。三成は意に介さず、政宗へ向かって歩き出した。
 空はあの日を彷彿とさせる快晴だった。からりと澄み渡った空は、この手から飛び去った竜を思わせる蒼色に染まっていた。
 「…やれ…進め…。」
 吉継の声が奇妙な調子を湛えて、背中へ投げかけられた。
 歩みに合わせて、腰に佩いた刀が賑々しい音を立てた。土煙が立った。昂る三成の心を表しているようだ。三成は拳を握り締めた。束の間の夏日を忘れられず、幾夜煩悶したことだろう。失ったものがようやく還る悦びに、三成の手は震えていた。
 三成はもはや交情を求めていなかった。先に裏切ったのは、政宗だ。三成の頑なな心は、裏切り者を受け入れるようには出来ていない。
 「手折った花に生彩を求めるが愚行よ。」諭すように吉継は憂いた。「ぬしとて、見目麗しいだけの造花を手元に飾るつもりはなかろう。なれば、蹂躙し、爛れ腐る様を愛でるがよかろ。それが自然の条理よ。」
 吉継の示唆には一理あった。確かに、死人ならば御するも容易かろう。再び不義を犯すこともない。女子供を手にかけるのは本意ではないが――亡き第六天魔王に倣い、黄金の杯を作るも愉しかろう。三成は狂気を宿した眼を眇めて笑った。
 三成同様、相手も騒乱の中に凶王の姿を求めていたのだろう。雑兵を一刀の下に斬り捨てた政宗が、後背を振り仰いだ。独つ眼には何の感情も見えない。政宗は白刃に付いた血を振り払いながら、三成へ問い質した。
 「石田三成…。俺への恨みでどれだけ関係ねえ連中を巻き込みやがった。このCrazyな騒ぎは何のつもりだ?」
 政宗の口端は皮肉に歪んでいた。かつては政宗の首を取るべく単身奥羽へ乗り込んだ三成が、有象無象共を巻き込んだことに、政宗は僅かな失望を覚えているらしかった。だが、そのようなこと、問題ではなかった。三成が吉継に求めたのは、政宗との再会だ。
 三成はもはや自制していられなかった。あの日喪失した花が眼前にある。その事実が否応なしに三成の胸を焦がした。
 「そんなことはどうでもいい!私は貴様を許さない!」
 今や三成の瘴煙に揺らめく眼は、相対する政宗ではなく、轟々と勢いづく焔の中見据えた巨像を睨んでいた。政宗も己が眼中にないことを悟ったのか、諦念混じりの笑みを湛え、悠然と刀を構えた。
 周りの喧噪が一瞬途絶えたかに思えた。無論、錯覚だろう。
 三成はすっと腰を落とした。爪先が土を蹴った。
 「懺悔して死ねえェッ!」
 光が一閃した。違わず首を狙った一撃を上方へ跳ねあげ、政宗は舌打ちと共に一歩退いた。
 肉薄するとはいえ本来の実力から言えば、三成より政宗の方が劣っている。
 しかしこの日、政宗の身体からは、敗北を喫する原因となった怒りゆえの力みが消えていた。対する三成の攻撃は、烈々たる怨嗟に駆られ、的がぶれていた。
 技量は、拮抗していた。


 吹き荒ぶ風に白髪が宙を舞っていた。長い毛髪が狂い踊る様は、お伽噺に出て来る悪鬼のようだ。事実、その男の胸中は茫洋たる闇で満たされていた。狂気に沈む眼は、これから描き出される地獄絵図に期待し、弓なりに笑んでいた。
 「これで全員がともじによ。」
 背後から現れ呟く吉継にも、男が驚いた様子はない。
 男は、天海という名で通っていた。僧という触れ込みで仕える男の正体を、主である小早川秀秋は知らなかったが、吉継は知っていた。同じ穴の狢だ。知らぬはずがなかった。闇つ淵を望むのは、何も、吉継だけではない。昏い眼をした眼前の男が、かつて明智光秀として勇名を馳せ、主君である第六天魔王と狂宴を演じた男と同じ眼差しをしている事実を、何故誰も気に留めないのか、吉継は不思議でならなかった。それも、天海が得意とする奇術の結果なのかもしれないが。
 「毛利の参戦は何よりの僥倖。奇襲のつもりが私たちに手を貸しているとは、稀代の智将も気付いていないようです。」
 謳うように、天海は両手を広げた。青白いを通り越して土気色をした肌は、紛うことなき死人のそれだ。陽が差さぬ深海を漂う海月のように身震いし、天海はくつくつと嗤った。
 「豊臣を忘れ去った者たちへの凶王の恨みの念と、日ノ本すべての和睦を願う徳川家康の清廉なる志――。」
 天海は喜悦を抑えきれず、哄笑を上げた。失った第六天魔王への妄執に揺らめく眼は、あの日、三成に止めを刺した焔を思い起こさせた。
 ここでは、誰もかれもが狂うておる。元より、人の身で天下を治めようなどという不遜からして、甚だしい過ちなのだ。眼下で憎悪に塗れた刀を振るう三成に、吉継は慈愛に満ちた眼差しを向けると、小さくうそぶいた。
 「三成よ、ぬしも嬉しかろ。この世のすべてを許さぬと申す眼には、実に無上の光景であろ。」
 ようやく、夢が叶う。吉継は呵々大笑した。


 高らかに金属音が響いた。火花が散った。荒削りな猛攻に腕が痺れた。
 政宗は舌打ちをこぼした。三成の攻撃は常の精度を欠いていたが、その分、勢いが増していた。三爪でもってして弾くのがやっとだ。剣の円舞は残光を振り撒いて輝いた。三成が絶叫した。
 「許しを望んで希い願え!」
 振るわれた刀を三爪でどうにか絡め取り、残る三爪で三成を追いかけた。だが、三成は政宗の攻勢を弾くと、背後に回り込み、一刀の下に兜を両断した。
 「そして、」
 時を置かずして、右腿の具足も破壊されたようだ。流石に顔色を失う政宗へ、三成が刀を振り被った。
 「首を刎ねられろォォッ!」
 辛うじて三爪を構えたものの、衝撃に政宗の身体が吹き飛び、地面を滑った。朦々と土煙が立ち込めた。政宗は幾度か激しく咳き込んでから、睨みつける三成を見つめ返した。
 「…アンタ、」
 ふてぶてしい不敵な笑みが、政宗の唇に上った。
 「このrevengeを終わらせたら、何を叫ぶつもりだ?」
 政宗の言葉は、核心を突いていた。三成は息を詰まらせた。崇拝する主の怨敵であり、この身を裏切った愛おしい花を手折れば、それで終いだ。三成の生は政宗で帰結していた。狂おしいほどに憎悪し、狂おしいほどに恋着する政宗を殺めれば、三成にはもはや何も残らなかった。
 政宗の右手が挑発目的で、ひらひらと三成を拱いた。
 「全力で来い…!これがアンタのclimaxだ!!」
 三成は激しすぎる憎悪に端正な面立ちを歪めると、腹の底から咆哮を上げて、政宗へ邁進した。他人に指摘されずとも、三成もそんなことは端から承知していた。承知していてなお、終焉を求めた。地に這いつくばって泥を啜り、天の月へ手を伸べて生きる苦痛には飽いた。だから三成は、どれだけ望まずとも、この道を選ばざるを得なかったのだ。
 理性をかなぐり捨て、殺意を撒き散らす三成を政宗は迎え撃った。小賢しい真似は終いだ。
 政宗には、三成の絶望が痛いほどわかった。
 この世への失望、己の無力を噛み締め、立ち続けることはひどく困難で、辛い行為だ。かつて実父を亡くし、弟を処断し、絶望の闇を彷徨った政宗が、こうして希望を胸に抱いて立ち続けていられるのは、信頼を寄せてくれる部下がいるからだ。守るべき民草がいるからだ。
 三成の白刃が政宗の喉笛に喰らいついた。小さな呻き声が上がった。
 秀吉の逝去以来、はじめて、三成は満面の笑みを浮かべた。手ごたえは確かだった。三成の眼は転がる首級を期待し、軌跡を追いかけた。三成の太刀筋は紛うことなく政宗の頚を捉えていた。しかし――、手ごたえが確かすぎた。
 眼を見開き仰天する三成に、政宗が六爪を薙ぎ、続けざまに、下方から斬り上げた。防御のことなどまったく頭になった三成の身体は、易々と吹き飛んだ。鎧が軋む音を立てて弾けた。
 政宗は憤怒に奥歯を噛み締めた。三成には心にぽっかり空いた虚を埋めてくれる存在がいないのだ。それは、三成の落ち度ではない。しかし、生を投げ打って絶望に浸る現状は、三成の怠慢だ。
 幕引いてやるつもりでいたが、気が変わった。政宗のへそ曲がりが顔を覗かせた。
 政宗は声高に叫び、いまだ我が目を疑い自失している三成へ、五爪を投げた。天空に竜が舞いあがった。
 「一度死んだ身なら尚更、生きるために力を揮いやがれ…!」
 残る一爪を構え、政宗は三成へ跳躍した。三成は紋様の上で、針に留められた蝶のようにもがき苦しんでいた。悪鬼の形相だった。政宗は勢い良く刀を振り被った。
 「テメエの死神を断ち切ってやる!!」
 嘘偽りのない本音だった。
 「JUMPING JACK BREAKER!!」
 朝焼けにも似た閃光が戦場を染め上げた。
 着地と同時に膝をついた政宗へ真っ先に駆け寄ったのは、右腕である小十郎だった。政宗は小十郎の肩を借り、どうにか踏ん張って立ちながら、朦々と立ち込める粉塵の向こう、翼を射抜かれた烏のように堕ちて来る三成の姿を見定めようとした。
 そのとき、太陽を背に予期せぬ黄金が瞬いた。眼を眇める政宗の眼前で、家康と三成が相次いで落ちてきた。地面に激しく胸部を打ち付けた三成は、堰き込みながら、政宗の攻撃から身を呈して己を庇おうとした家康を睨みつけた。
 「何のつもりだ…家康。」
 仰向けに寝転がり、肩で息つきながら、家康は衒いなく笑った。
 「憎しみも……憤りも……癒すのは絆だ、三成。グッ…ワシは、お前を…、」
 家康は肘に力を込めて上半身を起こそうとしたが、失敗して再び地面に倒れ込んだ。三成はそんな家康に蔑視を向けながら、立ち上がろうともがいた。まだ、政宗との決着はついていない。三成は身命に賭して秀吉への軽侮を晴らすと誓ったのだ。愛しい屍を墓前へ捧げると約したのだ。意識のぶれる中、三成は吐き捨てた。
 「驕るなと言っている…!助けろなどと言っていない!」
 膝が嗤った。体中が悲鳴を上げていた。爪で土を掻いていた三成は、繋ぎ止めていた意地が決壊し、無様に仰臥した。
 「どこかで…のたれ…死ね…。」
 「…そんなことを、平気で言うなよ…三、成…。」
 三成の悪態に、家康は一抹の寂寥を覗かせた眼を伏せて笑った。


 天上では太陽が翳に喰われつつあった。日食だ。
 それを、戦乱の最中で、一人の手弱女が凝視していた。本来美しいはずの瞳は、禍々しい闇に塗り潰され、かの根の国の女王伊邪那美を彷彿とさせた。この並々ならぬ魔性の美を誇る娘は、紅を刷いた唇で唄った。
 「開け放たれよ、底の国…。」
 娘の導きに応じて、地鳴りがした。第六天魔王の最も近しい血、お市の闇が、現し世に底の国を開け放った。くるりくるりとお市は回った。
 「連なり来たれ、底の闇…は、は。」
 地より立ち昇った漆黒の腕が、犠牲者を求めて戦場を駆けずり回った。その腕に抱かれた兵たちは、糸の切れた操り人形のようにばたばた倒れ伏していった。お市は屍の山を築きながら、花のように微笑んだ。百花の王牡丹に擬態した食虫植物の甘い笑みだった。
 「甘い香り…みんな死んで行く…ふは、は。ふ…ふふ…ふふふふ…。」
 お市はたおやかな両腕を天へ掲げた。漆黒の闇がお市を取り巻いた。人々はただ為す術もなく魔の妹の凶行を見つめていた。
 白い残光を湛える空には黒雲が垂れこめ、地上からは茨の棘を模した岩が勢い良く次々と生えていった。貫かれた雑兵たちの断末魔が響き渡った。
 「フフ…ハハハハハ…!」
 阿鼻叫喚を前にして本性を露わにした天海の哄笑が響き渡った。つんざく高嗤いの影で、闇の手に導かれ上昇していくお市が、眼下の地獄を眺めうっとり囁いた。
 「死にゆく呻き、華のよう…。」
 今や、お市何をすべきか、本能で知っていた。お市は病んだ眼を笑みの形にすると、まるで祝詞を口にするように厳かに、高らかに宣言した。
 「「開け根の国、根のやしろ。」」
 どこからともなく聞こえる声が、それに同調した。
 関ヶ原に闇の花が爆ぜた。球体が大きく胎動し、視界を遮る程の瘴気が立ち込めた。数え切れぬほどの死を養分に成長した花は、今、結実しようとしていた。
 「長政さま、見える…?冥底へと続く門が…ほら、開いたわ…。」
 お市は腹の底から嬉しそうに嫣然と笑んだ。地が分かたれ、虚無が飛来した。










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