空は昨夜の雨が嘘のように晴れ渡っていた。政宗は肌着の袂を引き寄せ、御堂周辺を散策していた。早朝特有の冷気が足首をくすぐった。夏の盛りにしては珍しく、肌寒い朝だった。降雨のせいだろうか。冷涼な空気はいまだ火照りの鎮まらぬ肌に心地よかったが、閑散とそれは、常に喧噪に巻き込まれていた政宗には寂寥を感じさせた。
ここを聖地と崇め奉る三成は、衛兵を置くことを好まなかった。それでいて、三成は政宗の自由をある程度許していた。こうして政宗が散策に興じているのも、三成が政宗を縛することを厭うたからである。
常識に捉われる傾向にある三成は、仮にも年頃の娘が、肌着一枚というしどけない恰好で脱走するとは思っていないのだろう。加えて、命を取られるなど思ってもいない態度で、安楽のうちに眠りに就いた。今も、三成は褥で惰眠を貪っているはずだ。
ここへ連れ帰されてどれくらいになるのか、政宗にははっきりしたところはわからなかった。少なくとも、政宗の意識が覚醒してから十日が経過していた。あれから毎晩三成の来訪はあった。皮肉なことに言動の端々から、三成がそれを亡き主への義理というよりは、摘み取った花への義務だと感じている様が窺えた。
亡き主君への義理、凌辱した娘への義理。
幾日か共に褥を過ごしたことで、政宗にも三成が生真面目で義理固い性格だということは重々わかっていた。だが、三成も好き好んでこうして義理でがんじがらめになっているわけではあるまい。その生き方は、息苦しくないのだろうか。政宗は身を護るように、二の腕を擦った。
あれ以来、政宗が秀吉への雪辱を乞われることはなかった。肌を重ねた。ただそれだけで無頓着に寄せられる信頼が、口には出さないものの、政宗には負担だった。三成は疑うことを知らないのだ。政宗が減らず口を叩くとき、決まって三成から向けられる呆れ交じりの面白がるような視線は、もしかすると自分は憎からず想われているのではないだろうかと自惚れてしてしまいそうになるほど、温かな色で満ちていた。一度心を託した者を身命をかけて慕い尽くす様は、ひたすらに無器用で、無様ですらあった。まるで年端もいかぬような、美しい夢だけを見て育った童のような。政宗は奇妙に透き通る眼差しの理由を知った。
御堂裏手の木立は、山間ということもあり、影が落ちていた。地面は雨の名残でまだ黒く濡れていた。政宗は依然として二の腕を擦りながら、小さな声で呼ばわった。
「そこにいんだろ、猿。」
不自然な沈黙が下りた。政宗は嘆息を一つこぼすと、頭上をねめつけた。伊達に黒はばきを召し抱えているわけではない。並みの武将より、気配には敏感だ。
やがて、根負けしたように迷彩色の忍びが姿を現した。猿飛佐助。政宗が好敵手と見定める真田の忍びだ。相変わらず派手な色の髪に目を眇める政宗の前で、佐助はわざとらしく眉をひそめてみせた。
「…あんた、なんでこんなとこにいんのさ?それに…。」
不躾な視線が、言下に、なぜ奥州の雄独眼竜が女なのかと問うていた。いくら肉つきが悪いとはいえ、寝間着一枚の姿では秘密を隠し通すことが不可能だということくらい、政宗にもわかっていた。政宗は佐助の問いかけを無視した。秘匿してきた事実を、他国の忍びに説明してやらねばならない義理はない。
政宗のつれない素振りに、忍びはやれやれと大仰しく溜め息を吐いてみせた。元々、答を得られるなどとは思っていなかったのだろう。否、手ずから答を与えずとも、この猿は嗅ぎ取ったに違いない。男を知った政宗の肢体はまろみを帯び、匂い立つような色香を具え始めていた。それに、状況が状況である。嗅ぎ取らぬわけがなかった。
「片倉さんが血相変えて探してたよ。もっとも、表向きには隠しているみたいだけど。そりゃ、大将が消えましたなんて公言できないよね。」
佐助の何気ない情報に、政宗は唇を噛んだ。今更ながらに、国元へ残して来た部下たちに心労を負わせた事実が悔やまれた。特に、常日頃から政宗を掌中の珠よといとおしむ小十郎の焦慮といえば、並々ならぬものがあるだろう。政宗は、己のことで手いっぱいでそこまで気が回らなかった自分に怒りが募った。
「そういうテメエは、何でここにいる?」
「勿論、偵察。」
佐助が油断のならない視線で探って来た。
「…こんなとこにいたあんたは知らないかもしれないけどさ、最近石田軍も物騒なんだよ。血生臭いったらありゃしない。」
政宗は反論しかけた唇を閉ざした。経緯はどうあれ、自分が敵の本陣にいたことは事実だ。それに、血生臭い、という表現もどうも気にかかる。政宗は頭を振った。
「…そろそろ俺も国元に帰る。連れていけ、猿。」
政宗の居丈高な命令に、佐助は諦念まじりに肩を竦めてみせた。知らぬ仲ではない。政宗には己如きが反論しても無駄だと承知しているのだ。政宗は佐助の反応に薄く笑った。まったく、そのとおりだったからだ。
奥州への帰還が決定し、手段も見つかれば、長居する必要もない。これまでは、倉庫に鍵がかかっていたこともあり戦装束を奪取できなかったが、手練の忍びにかかれば障害にすらならなかった。
政宗は御堂の倉庫から己の戦装束を出し、着物を身に纏った。久しぶりの厚い布地の感触が、安心感を与えた。鎧を身につけ、六爪を腰に佩く。政宗は心許ない装いせいで、己が否応なしに浮足立っていた事実を悟った。
空は早朝特有の灰色がかった白さから、次第に青を帯びた色へと変化していた。時折耳に届くのは、雀の音だろうか。政宗は最後に一度だけ、三成を見に行った。
障子を開け放つと、薄暗かった部屋へ光が満ちた。それでも、三成は夢にまどろんでいた。眠りが深いのだ。共に過ごすようになってから、三成の眼の下の隈は薄くなっていった。その熟睡を就寝前のしどけない運動がもたらしたと考えるのは、短慮というものだろう。
この十日は、まるでめくるめく夢のような日々だった。女である道を棄てた政宗にとって悪夢ともいえる幻想は、どういうわけか、心慰めるものがあった。根拠のない三成の信頼は負担でもあったが、同時に、密やかな悦びでもあった。
「――Good bye。」
深層の想いが声色に滲んだらしい。眉間にしわを寄せた三成の手が、敷布の上を這った。政宗を探しているのだ。政宗は身に詰るものを感じ、苦い笑みを浮かべた。これしきで絆されるなど嘆かわしい。十日前の政宗であれば、唾棄したに違いない。
三成のことが気にかからないといえば、嘘だった。これだけ純真な男だ。政宗が己の許を後にした事実を知れば、裏切られたと言って怒り狂うだろう。政宗にはそれが手に取るようにわかるからこそ、三成がどのような暴挙に出るのか見当もつかず、不安だった。だが、無理矢理契られた縁に立てる義理はない。第一、政宗は奥州の雄、独眼竜なのだ。治める民がいるのだ。このような土地で燻ぶって良いはずがない。
政宗は後ろ髪を引かれる思いで、外で待機していた佐助へ頷いてみせた。三成が目覚めるのは、陽が昇ってからだろう。その頃には、政宗も佐助の手で近江を脱しているはずだ。何よりもまず、奥羽へ帰還を果たすことが先決だった。三成との決着はそれからだ。
「もう良いの?」
こちらの真意を探ろうとする眼差しに、反吐が出た。次第に蘇える十日前の自分の感覚に、政宗の気分は昂揚した。感傷に浸る必要はない。自分は空高く上る竜なのだ。政宗は狼狽を押し殺し、佐助へ鼻を鳴らしてみせた。
「ハッ、十分すぎるだろ!」
それに――政宗はふっと眼を眇め、拳を握った。三成の秀吉に対する盲目を晴らすことが、己の責務のような気がしていた。
「――…これはまた、荒れたものよ。」
一昼夜繰り広げられた凄惨を前に、吉継は感情の読めない声で感想を漏らした。
乱心、とは良くいったものだ。姿を見せぬ三成に訝り、様子を見に行った部下の報告を受けたときは、まさかと思ったものだが――。
吉継に眼もくれぬまま、肩で息を吐き、天を睨む三成の眼光は鋭かった。眼差しだけで人を殺められるものならば、日の本に根の国を築いたに違いないと思えるような眼だ。三成が強く握り締める刀は打ち震えていた。憤怒、いや、絶望ゆえだろう。
狂乱のうちにあるとはいえ、三成にも辛うじて理性が残されていたらしく、亡き主君を模った像は原型を留めていた。しかし、それ以外のものはことごとく破壊された。まるで天災に襲われたようなありさまだった。斬り落とされた蝋の火は床を焦がしていた。舐める舌が勢いづいて御堂を呑みこむまで、そうかかるまい。天井があったはずの場所では、飛び去った竜を思わせる三日月が薄く笑っていた。
「許さない…。」
薄く開かれた唇から怨嗟がこぼれ出た。抑えきれない憤怒に、かたかたと刀が音を立てた。
まじろぎもせず天を睨んでいた三成は、かっと眼を見開き、再び呪いの言葉を口にした。
「貴様の犯した罪を、私は許さないッ…!伊達政宗ェェェ――!!」
山間の御堂に絶叫が響き渡った。身も世もなく、三成は叫喚した。
「許可しないッ!貴様が去ることは許可しないィィッ!!」
痛憤にも等しい、魂の慟哭だった。
吉継は友の狂乱を呆然と眺めた。胸を突かれた思いだった。吉継が求めたのは、闇る淵でもがき、夜を伴侶とし、死を供とする清冽な光である。このように、自壊するほどの絶望に苛まれのたうつ人の姿ではない。吉継はぽつりとこぼした。
「やれ、無情よな…一度死した者でもまた死ぬるか。」
一抹の後悔が胸中に飛来した。今更の悔恨だった。死人は死人ゆえに、傷が開き、血が流れることはない。再び熱を帯びることも、魂が悲鳴を上げることもない。三成がこうして悲嘆に暮れているのは、生きているからだ。いまだ人の心を失っておらぬからだ。
苦しませるつもりなど、毛頭なかった。
まったく予想だにしなかったことだが、三成は独眼竜の魂に当てられたらしい。
吉継はゆるく頭を振ると、三成の方へ歩み寄った。次第に強まる焔が堂内を明るく照らしていた。荒ぶ風が吹いた。嵐の予感がした。
「…自ら飛び去った小鳥を籠に入れても、また同じこと。いずれは飛び去るであろうよ。――相手が戻るように仕向け、待ち受けるがよかろ。お膳立てはいたすゆえ。」
三成は黙して巨像を見つめていた。今や、燃え盛る巨像は悪鬼の形相だ。はたして、三成は亡き主君の姿に何を見出しているのだろう。遠き理想郷か、この世の地獄か。吉継の視線の先で、三成が微動だにせず応えた。
「……――全て任せる。」
「術策を聞かずとも良いのか?」
「貴様のやることを疑う余地はない。」
踵を返して、三成が去っていった。その背を眼で追いながら、吉継は投げやりな命を拝受した。
「あい、わかった。」
光がもっとも輝く世界を手中に収めるため、血で血が雪がれるは致し方なかろう。
吉継は三成の不幸がひどく憎かった。三成はこのような辛酸を味わうべきではなかった。高みへ昇りつめ、誰よりも輝くべき存在だった。
しかし、実態はどうだ。展望を失い怨嗟に暮れる三成が、幸福を知る未来はない。
なれば、深く暗き闇つ淵から天を憾んで手を伸ばす三成のために、吉継は世界を三成の同位まで突き落としてやろう。秀吉の教示に従い、仇為す屍で築く王威は、さぞかしめでたかろう。
「全て義のためぬしのため。」
もうすぐ、夢が叶う。うっそりと吉継は嗤った。
二週間ぶりの奥州にはきな臭い空気が立ち込めていた。他国へ攻め入るのだという。小十郎たち側近によって国主の不在は伏せられているようだが、情報が漏れ出るのも時間の問題だろう。
眉根を寄せた政宗は、鎧では目立ちすぎるからと佐助に纏うよう渡されていた外套を脱ぎながら小さく嘆息をこぼした。身から出た錆とはいえ、問題の対処は困難を極めそうだ。佐助が労うように笑った。
「じゃ、俺様は大将への報告もあるし、そろそろお暇するけど、何か他にある?」
「Ah…、そうだな。特にはねえが…。幸村に一言でも余計なことを口外しやがったら、テメエの首を掻き切ってやる。」
あっけらかんと脅す政宗に、佐助もあっけらかんと肩を竦めてみせた。
「物騒だねえ。」
しかし、本心からの一言だということは、双方共に分かっている。政宗は佐助が視界から消えるまで眺めてから、ゆっくり城下へ向かって歩き出した。
最初に政宗がやらねばならなかったことは、豊臣残党への復讐に浮足立つ部下たちを問答無用で黙らせることだった。どうやら、三成との一件を義光がばらしたらしい。厳重に緘口令が敷かれていたものの、軍内に広がった噂を打ち消すのには黒はばきの力を以てしても時間がかかった。
「まったく、面倒なことだぜ。」
政宗はぼやきながら、ここ二週間で溜まっていた仕事を片付けていた。傍に控える小十郎が、気遣いつつも訝るような眼差しを政宗へ向けた。近頃、頓に見せる眼差しだった。
小十郎は義光から直々に、三成が政宗を誅殺すると息まいたことを聞き及んでいた。その直後の、政宗の失踪である。他の家臣たち同様、政宗の死を覚悟したに違いない。だが、政宗は生きて帰ってきた。小十郎は安堵しながらも、それが何故なのか、気にかかって仕方ないらしかった。
おそらく、小十郎にしても薄々思い当たる節はあるのだろう。三成に抱かれた日を境に、政宗は変質してしまった。微かな憂いを帯びた眼差し、媚態めいた白肌。滴る程の色香は眼に痛いほどだ。しかし、直接問うことも躊躇われるのか、小十郎は黙して語らなかった。
それから、あっという間に十日が過ぎた。政宗は己で蒔いた種と知りながら、ぎこちない平穏のうちにも、立ち込める黒雲の予感を覚えて気が確かではなかった。
政宗の許に再び豊臣残党の穏やかならぬ噂が届いたのは、最上の地で三成と対峙してから一ヶ月後のことだった。月は移ろい、長月になっていた。
「Fum…まあ、そろそろ頃合いか。」
政宗は大きく伸びをすると、胸元へ手を滑らせた。本来であれば、もっと早く軍を起こすべきだったのだろう。だが、胸の創がそれを妨げた。
政宗も気が咎めないわけではなかった。三成は政宗に女として在る道を示唆した。しかし、どれほど三成に乞われようと、君主である政宗の歩む道は一つだ。
「石田三成――もしもそのど真ん中で待っていやがるのが本当にアンタなら…、」
民草のため最善だと思うことをする。天下統一を為し、戦のない泰平を築く。
どちらかが勝ち、どちらかが死ぬ憎悪に満ちたデスマッチだとしても、他に選択肢がなく、彼に安息をもたらす術が一つしかないのであれば――政宗は伸びかけた爪へ一瞥投げかけたが、強く拳を握り締めた。
「今度は俺が、アンタを許さねえ…!」
小十郎が視線で命令を促している。政宗は勢い良く立ち上がり、小十郎へ頷いてみせた。
「Partyだ、小十郎。派手に行くぞ!Don’t slack off!!」
夏が終わろうとしていた。
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