第二話 竜の宝


 小田原城を取り囲むように鬱蒼と茂る林の中、暗闇に差す一条の光は青みを帯びているように見える。男がその場所を好んだのは、その光が理由かもしれなかった。手を翳しても届かず、握り潰そうとしても壊せず、穢されることなく在り続ける光。それは、男の想い人の在り方に似ている。
 男はさきほど此処へ訪れた奇特な武将のことを考えていた。松永久秀。甘言を弄し、策を弄し、人倫を弄する天我独尊。
 久秀が秘密裏に単身小田原城へやって来たのは、四日前のことだった。男の主、北条氏政は、久秀の噂を見聞きしていたのだろう。元より、あれほどあからさまに織田に喧嘩を吹っ掛ける家というのも珍しい。氏政は嫌悪も露に、三好の悪霊、と当人の前で呼び捨てた。だが、久秀はまったく意に介したようすもなく、北条へ取り入ろうとするかのように頭を垂れ、自らの治める国の名産を献上した。
 北条へ取り入ろうとする腹積もりなのか。
 その晩、氏政は男に、相談ともとれない独り言を呟いた。凋落間近、辛うじて男の活躍で表面を保っているだけの家名しかない北条に取り入って何が得られるのか、男にはわからなかったが、主は真剣に疑っているらしい。まったく、独り善がりの滑稽な道化だ。男は長い前髪の下で僅かに目を眇めた。だからこそ、己はこの国に仕えているのだが。
 やがて、当初こそ懐疑的であった氏政の態度は軟化し、今や、陥落寸前である。男は、先祖の偉業をとうとうと語る氏政とそれに相槌を打つ久秀を前にして、北条を取り込もうとする策の一環なのだろうと結論を下した。
 そして、氏政を見限り、この場所へやって来た。
 男は、己の後を追うようにやって来た久秀の言葉を回想する。久秀は、男に、念願成就の策を与えると言った。何処で知れたのか、不明だ。だが、久秀は、男が奥州の竜に惹かれていることを、――竜の右目を刳り貫き、手足を削ぎ落とし、国を滅ぼし、そうして、竜を己と同じ場所まで貶めたいという男の暗い欲望を知っていた。
 久秀は、何が可笑しいのか笑った。無駄を削ぎ、心を殺いで生きてきた男とは違う。無駄を楽しみ、心を惑わし生きるのが久秀である。だが、破壊の中に暗い悦びを見出すところに共通点があった。
 「賭けても良い。竜の右目はきっと、独りで来るだろう。」
 戯言を。男は暗い目で刀を抜き放った。氏政にも弄したような甘言ではないか。
 だが、と、男を引き止める声も在る。久秀は男の心中の葛藤を知っているのか、後ろ手を組んだまま、男に背を向けた。その無防備な背中を、男は凝視する。今、此処で仕留めれば悔恨はなくなる。男の本心を知るものは無くなる。しかし、右目を刳り貫く機会もまた、先延ばしになる。
 「甘言と呼びたければ、そう呼びたまえ。だが、貴殿には、私が惑わせるだけの心もないと思うがね。」
 不快と機会を天秤にかけた結果、男は静かに刀を納めた。久秀はそんな男に一瞥投げかけ、くつくつ笑った。ただ、男は無言のまま立ち尽くしていた。
 これで、久秀が落ち目の北条へわざわざ訪れた理由がわかった。久秀は北条の血生臭い闇を暴き、自らの下に取り込むつもりなのだ。
 だが、男は狗ではない。他人の手によって放られた餌を好んで食すほど、未だ、飼い慣らされてはいない。男の中には獣が潜んでいる。それは、かの竜であっても折れない牙だ。いつでも殺せるならば、今、急いで殺すこともない。どちらにせよ、そう間もない内に、久秀は冥府の扉を叩くことだろう。男は前髪の下、僅かに目を細めた。目的を果たしたならば、躊躇することはない。竜に真実を悟られる前に、殺せば良いのだ。先の、甲斐の忍のように。
 久秀の立ち去った後、男は青く澄んだ光へ手を伸ばした。きっと、彼女の眼前に、右目の無惨な死を晒そう。両目を抉り、手足をもぎ、腹を割き、歯を折り、面の皮を剥いだ上で首を落としてやろう。男は小さく笑みともつかないものを浮かべた。
 もう間もなく、この光が男の手へ堕ちてくる。


 独眼竜の失われた右目を称する男、片倉小十郎は苛立っていた。とんだ失態だ。目の前で何にも代えがたい主君に怪我まで負わせ、その得物までむざむざ奪われた。これ以上、主君を煩わせるには忍びないと単身撲り込んだ先で待っていたのは、久秀の弄したくだらない罠だった。無論、小十郎も馬鹿ではない。罠だと知った上で、撲り込んだのだ。
 しかし、と、小十郎は眼前の男を睨み付けた。上空から突如舞い降り、久秀への進路を塞いだこの忍び。おそらく、小十郎の勘が外れていなければ、伝説の忍びだろう。一筋、小十郎の米神に青筋が浮かんだ。しかし、伝説の忍びが何だと言うのだ。たかが伝説の忍び如きが、久秀と己の決着に、立ちはだかって良い道理がない。
 神経を逆撫でする落ち着き払った声で、久秀が忍びの労をねぎらった。
 「さすがは風魔、良い仕事だ。…では失礼。」
 そう言ったきり、久秀は小十郎を振り返りもせず去っていく。その背が遠ざかり、やがて、視界から消えた。途端、小十郎は、視界が赤く染まった気がした。掌で両目を覆うと、込み上げる笑いに咽喉が引き攣れる。とうとう、小十郎は声を上げて笑い出した。
 「フッ……クックックックッ……聞こえたぜ…緒の切れる音が。」
 刀を抜き放ち、忍びへと構える。挑発的に構えられた双刀に、プツン、と再び理性の緒が切れた。
 「…………ブッ殺す!」
 暴発した感情のまま一撃を、刀目掛けてぶちかます。だが、直情的な攻撃は、相手に読まれ易い。直接受けては力負けすると読んだのか、忍びは小十郎の攻撃を巧みに殺した。左へ逸らされた刀を反し、そのまま、下方から乱暴に振り上げる。腹を割くつもりで反したその一刀は、忍びの鼻先を掠めるに終わった。まるで、小蝿のように神経に触る男だ。周りを飛んで邪魔臭いことこの上ない。一歩退き、小十郎は低い声で唸った。
 「テメェに信念はあるか…見えるのは金のみか。」
 忍びは答える気配も無い。沈黙の中、言葉以上に雄弁な殺気を漲らせて、小十郎のことを見ている。小十郎には、この草らしからぬあからさまな殺気が、忍びの常態であるのかわからない。だが、それでも、一つわかったことがある。小十郎は乾いた笑い声を上げ、再度、刀を構えた。滾る感情を押し殺し、なけなしの理性を掻き集めて、吐き捨てる。
 「言う気は無しか…それでもいいぜ…もう我慢はヤメだ…!来い!金という薄っぺらい目的でこの俺を倒せるもんなら殺してみろッ!」
 この忍びは、此処で、ブッ殺す。




 「筆頭―!」
 「小十郎様―!」
 燃え盛る大仏殿が、てらてらと闇を照らしている。駆け寄ってくる兵士達に、伊達政宗は安堵の笑みを浮かべた。己と小十郎を陽動として松永軍を霍乱する間、成実、綱元ら率いる部隊は、捕らえられている自軍兵士を解放するよう命じてあった。大仏殿に火を放たれたときは、焦りと怒りに胸が詰まるほどだったが、信の置ける二人は見事成功させたようだ。政宗は凝り固まった肩を回した。まったく、彼らは良くやってくれた。全てが愛おしい。
 手を振って、彼らの方へ歩き出そうとした政宗の前に、彼女の右目が土下座した。ぎょっとしたように立ち竦む兵士らを気にせず、小十郎が久秀から取り戻した政宗の六爪を差し出す。
 「政宗様…もとより覚悟は出来ております。あなたに刀を向けた暴挙、許されることではありませぬ。」
 額づいてそう切り出した右目を、政宗はまんじりともせず見つめた。小十郎が続ける。
 「六の刀、そして皆の命…。あなたの二つの宝を取り戻した今、この小十郎に出来る事はただ一つ。」
 きらりと脇差の刃が煌き、次いで、重い音を立った。回転しながら、脇差が大仏殿の方へ飛んでいく。政宗は抜き放った刀を鞘に納めつつ、沈黙を縫うようにして、小十郎に声をかけた。
 「野暮は無しだぜ、小十郎。」
 己の右目は、兎角、物事を重苦しく考えすぎるからいけない。それは、主君より先に子を作るのは不敬だから、と、我が子を殺そうとしたときも抱いた感想だった。政宗が、次代の伊達の担い手を失って、何故、喜ぶと思うのだろうか。全部丸く収まったのだから、そのような瑣末に気を取られる必要が何処に在ると言うのだ。政宗は嘆息交じりに、片膝をついた。大体、小十郎がいなければ、がら空きの己の背を守る者がいなくなってしまう。右目の代わりなど、日ノ本の何処を探したところで見つけられはしないのだ。
 小十郎の肩に手を置いて面を上げさせると、右目は濡れた目で政宗を見つめた。震える声が、その咽喉から漏れ出た。
 「……政宗様…ッ!」
 やがて、息を呑んで事態を見守っていた兵士達が、わっと駆け寄ってきた。その歓声に応えるように、政宗は刀を天に掲げて、自軍の勝利を皆に宣言した。


 「ったく、つまらねえことで時間を潰しちまった。帰んぞ、小十郎。」
 やはり怪我を推しての遊撃は、政宗にとって重荷であったらしい。ぼやきながら大きく伸びをする声には、常のような覇気が無い。そのような真似をさせた己を不甲斐なく思いながら、小十郎は主君の後を追おうとした。だが、ふと強い視線を背に感じて、後ろを振り返る。
 この殺気に晒されたのは、つい先日のことだ、忘れるはずもない。小十郎は目を眇めて、燃え盛る大仏殿を睨みつけた。このあからさまな殺気、あの小蝿以外にありえない。草というには異形で、乱破こそが相応しいあの忍びだ。
 小十郎の視線に気付いたのか、それとも、己の生を知らせることだけが目的であったのか、忍びの気配はすぐさま掻き消えた。それを気にした風もなく、小十郎は口端に笑みを浮かべた。長谷堂で仕留めたつもりだった小蝿は、まだ、しぶとく生き残っていたらしい。まったく、小蝿というより油虫のような男だ。だが、と、小十郎は笑みを深くした。まだ生きているということは、また殺せるということだ。相手が伝説だからといって、負ける気はしなかった。あの金しか眼に入らないくだらない忍びと異なり、小十郎には貫かねばならない信念がある。
 くたばり損ないに討たれるようなへまはしねえ、次こそは仕留める。
 そう固く心に誓う小十郎が立ち止まったままであったので、不審に思ったのか、政宗が振り仰いだ。
 「どうした小十郎?」
 「…いえ、何でもございませぬ。」
 主君を安堵させるように、小十郎は笑いかけると再び歩き出した。
 あの忍びが何を企んでいるのか、小十郎は知らない。だが、竜の右に侍ることこそ、小十郎の無上の喜びなのだ。
 それを、あの忍びに邪魔されるわけにはいかなかった。










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初掲載 2009年5月30日