第一話 風の悪魔


 ただ一つ、欲しいものがあった。


 「なあなあ、あんたさ、どこの出身?」
 隣を付いて来る忍に、風魔小太郎はちらりと一瞥を投げかけた。他国の忍だ。竹中半兵衛暗殺の任務で知り合い、豊臣秀吉も暗殺するのであればと勝手に付いて来ているのである。今は亡き半兵衛の言によれば、甲斐の忍らしいが、詳しいことはわからない。小太郎は忍であるが、その特殊な立場ゆえ、他国の忍事情に疎かった。しかし、と、小太郎は再び前を向き、駆けながら思考する。甲斐、といえば、あれがいる国である。
 「はぁ~、また無視かよ。」
 その忍は大仰に溜め息を吐いてみせると、再び、小太郎に質問を投げかけた。
 「あんた、なんで傭兵なんかやってるんだい。」
 「佐助、奴に構うな、話しかけるんじゃない。」
 同様に付いて来ているくのいちが、男の忍らしからぬ口の軽さを嗜めた。その、くのいちの口から漏れた「佐助」という単語に、小太郎の耳がぴくりと動いた。しかし、くのいちも「佐助」も気付いた様子ではない。佐助は、小太郎を警戒して神経質になっているくのいちを宥めるように、他愛も無い軽口を応酬した後、懲りずに、小太郎に話を振った。
 「子供の頃、あんたの話を聞かされたよ。あんた一体、年いくつ?」
 答えない小太郎の代わりに、くのいちが、その続きを引き継いだ。
 「忍は皆、その名を知っている…。だが、本当にこの世にいるのか誰も知らない。」
 それが、伝説の忍、「風魔小太郎」だ。


 ただ一つ、欲しいものがあった。年相応の無邪気な夢だった。
 彼はそれを得る術を父に尋ねた。優秀な忍であった父は、忍らしからぬ失態を犯した。忍など感情を捨ててこそのものであろうに、息子に現実を突きつけられなかった。父は言った。世は下克上、忍であっても姫君を奪えるのだと。金さえあれば、娶れるのだと。金を得るためにはどうすれば良いのか尋ねると、父は伝説の忍になることだ、と答えた。再度、彼が、伝説の忍になるには何が必要か尋ねると、父は非情な心と技だと告げた。そして、彼の頭を撫でた。
 忍であった父は、肝要なことは言わなかった。おそらく、忍ゆえわからなかったのだろう。愛など、不要な生業であったから。
 その晩、彼は父を殺した。そして、そのまま姿を消した。


 狙いを定めて、小刀を投げる。それは違わず、秀吉の心臓に突き刺さった。しかし、力が足りなかったのだろう。小太郎の放った一撃は豊臣秀吉の鎧に突き刺さりはしたものの、貫通するにはいたらなかった。見た目に違わず、分厚い鎧だ。僅かに目を細める小太郎の前で、秀吉が小刀を払い落とした。それを確認する前に、小太郎は跳躍した。鎧が厚いならば、覆われていない部分を狙えば良い。そう、つまり、首だ。上空から襲来する小太郎を、秀吉が豪腕で振り払った。考える前に、左腕で庇っていた。小太郎は受身を取って威力を殺すと、空中で体勢を整え、秀吉と距離を取って着地した。庇い立てした左腕が痺れている。一撃辺りが非常に重い。とはいえ、攻撃など当たらなければ良いだけだ。だが、あの鎧と強靭な体力の方は、「通常の」忍の苦手とする類である。小太郎は長い前髪の下で、ゆっくり瞬きをした。それすらも、「通常の」忍にとってはの話であって、「伝説の」忍にかかれば造作も無い。
 「お前か…半兵衛を倒したという忍は…覚悟の程は、できているのであろうな。」
 小太郎は答えない。露になっている首や顔を狙ったところで、塞がれることだろう。相手も、無能ではない。天下に名を轟かせる武帝である。今度は深く貫通させる目的でもって、小太郎は刀の柄に手を添えた。腕で塞がれるならば、腕を使えなくすれば良い。手で払われるならば、手を落とせば良い。ただそれだけのことだ。
 一切聞く耳持たない様子の小太郎に、秀吉が吼えた。
 「この秀吉を暗殺とは、世の大局も計れぬ小者共が!来い!忍が何をしようと、我を崩すことはできぬ!」
 心中、小太郎は小さく笑った。この男は何を言っているか。大局など知らぬ、それが忍だ。
 「お?もう始まってるな…短気だねえ。」
 突如掛かった声に、小太郎はぴくりと耳を動かした。撒いたところで、大差なかったようだ。結局、目的は同じなのだから、当然といえば当然といえる。小太郎は遅れて現れた佐助に一瞥を投げかけた。間髪入れず、秀吉の拳が襲い掛かる。小太郎はそれを避けると、一歩、秀吉の胸元へ飛び込んだ。予想外の行動だったのだろうが、流石に、武帝と呼ばれるだけのことはある。秀吉は、小太郎が下方から走らせた刃を寸でのところで避けた。切っ先は、僅かに顎を切り裂いただけだ。大きく振り被ったところで当たらないと悟った秀吉の肘を避け、小太郎はたんたんと跳びながら後方へ退いた。
 その間、数秒。くのいち――かすがという名らしい――が悲鳴にも似た感嘆を漏らした。
 「早い…なんて奴だ!」
 佐助、かすが、そして小太郎を順繰りに見た秀吉が、目に憤怒を滾らせた。
 「仲間がいるか…何匹群れようと変わらぬわ!」
 「悪いけど、三人がかりっていうのは成り行きでね。」
 ひょうひょうと肩を竦める佐助の言葉も、秀吉の怒りを鎮めるには至らない。秀吉はぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
 「こうやって半兵衛を倒したか。その愚行、地獄の底で後悔させてやろう。」
 立ち上る憤怒に気圧されて、かすがが一歩下がる。小太郎は気にした風も無く、再度、刀を構えた。先に行動を起こしたのは、佐助だった。次いで、かすがが糸を構え、両手を交差させる。秀吉は群がる小蝿を払うように腕を回転させることで佐助を吹き飛ばし、かすがの糸を断ち切った。その隙を見逃さず、小太郎は跳躍する。狙うは、がら空きの項だ。だが、後僅かというところで、秀吉がその狙いに気付き、身を捩った。やはり、首は駄目か。小太郎は思い切り、刀の切っ先を肩口の鎧の繋ぎ目に当てた。思い切り、体重をかける。秀吉が大きく唸り声を上げた。骨にぶち当たり侵攻が止まったが、それでも、深手にはなったようだ。秀吉は腱を切断され使い物に左腕を忌々しげに見下ろすと、憤然と小太郎を睨み付けた。
 「お前の技はあの二人とは違うようだな。その力を手に入れるため、何を捨てた?」
 小太郎は答えず、再び、跳んだ。


 ただ一つ欲しいものがあった。
 非情でなければ伝説の忍になれぬというのなら、それでも良かった。彼は技を磨き、無駄を省いていった。同時に、心も磨き、不要な感情を殺いでいった。
 彼は父を殺した。師匠を殺した。彼を知るものを殺した。「風魔小太郎」を殺した。自分すら殺した。
 そうして、独りになってようやく、彼は伝説の名を勝ち取った。彼はそのときから、「風魔小太郎」になった。
 それでも、本当に欲しいものは、小太郎の手の中に落ちてこなかった。忍であった彼にもまた、肝要なことがわからなかった。愛など、不要な生業であったから。非情に徹するため、削いでしまったのだから。


 どうと音を立てて、秀吉が斃れた。
 「風魔小太郎、その正体は風どおりで掴めないワケだ。」
 少し離れた場所から投げかけられた佐助の感心した風な言葉にも反応を示さず、小太郎は黙って刀を鞘に納めた。斬り付けた後、刀を鞘に戻す癖は、居合いを尊んだ父に叩き込まれたものだ。今では、これくらいしかかつての己の名残は残っていない。
 「いいクジ引いたのはあんただったか。」
 「こんなにも簡単に…。」
 若干の恐れを滲ませて、かすがが額の汗を拭いながら呟く。その静けさに耐えかねたように、佐助が大仰な身振りで伸びをした。
 「ともあれ、これでお仕事完了!次に会うときはお互い敵同士だな。お手柔らかに頼むよ。」
 そこで、微動だにしない小太郎にようやく不審を覚えたのか、佐助が煩い口を塞いだ。かすがは相も変わらず、警戒心も露に小太郎の出方を待っている。一時間を置いてから、小太郎はゆっくり二人へと向き直った。一歩、二歩、二人へと近づく。
 「なに、を…?」
 「おいおい…冗談。」
 恐怖に震える声を漏らし、かすがが後ずさった。いまだ現実を直視せず、冗談で済まそうとする佐助に向かって、小太郎が静かに刀を抜き放つ。血に濡れた刃に、かすがが息を呑んだ。
 「佐助っ、これはどういう事だっ。」
 「知るかよ!来るぜ、構えろッ!」
 小太郎は跳躍した。お人よしではあるが、名うての忍である。二人とも馬鹿ではない。かすがは動揺を露にしつつも、小太郎の刀を避けて跳びすさった。
 「そんな…なんで…ッ!」
 そんなかすがを叱咤するように、佐助が固い口調で武器を構えた。
 「「この世に存在しない忍」…。考えてみりゃ簡単なことだった…。姿を見た敵は全部消すってことだ!」
 もうこれ以上、見るに忍びない。しかし一方で、これこそを、この瞬間こそ望んでいたのだ。小太郎はゆらりと佐助を振り仰いだ。佐助は、ただ慌てるかすがと違い腹をくくった様子で、小太郎を正視していた。その目には、必ず生きて帰るという覚悟があった。
 「これは北条の思惑か、それともあんたの本質か。あんたがその気ならそれでもいいさ…返り討ちにあっても文句は言うなよ。」
 低い、感情を押し殺した声だ。先ほどまでの不快なほどの陽気さは影を潜めている。そうでなくては、殺しがいがない。小太郎はうっすら笑みのようなものを浮かべ、佐助へと飛び掛った。生きて帰す気など、小太郎には毛頭ない。この男はここで確実に仕留める。常は嫌っているとはいえ、それなりに連帯意識はあるのだろう。とっさに放たれたかすがの糸が小太郎の身体に巻きついた。しかし、脆い。小太郎は糸を引き千切り、一歩、前へ踏み込んだ。だが、佐助も忍だ。かすがによって作られた一瞬を無駄にすることはなかった。
 「忍ってのは死ぬときゃ一人だ。あんたもそうやって生きてきたんだろう。なら分かってるな。かかる火の粉は自分で振り払う。あの世で好きなだけ恨むがいいさ。」
 小太郎の眼前に巨大な手裏剣が迫る。小太郎の刀でまともに受けようとしても、弾かれるか、刃が潰れるかのどちらかだ。逡巡することも無く、小太郎は腕を薙いだ。厚手の刃に二の腕と指を僅かばかり切り裂かれ、血の雫が飛ぶ。だが、側面から掴まれ無効化された手裏剣は、最早、小太郎の腕の中だ。半兵衛、そして秀吉戦。たった二度の戦闘で己の武器の特徴を掴んでいた小太郎に、佐助が小さく舌を鳴らした。その顔に、焦りの色は濃い。小太郎はしげしげと手裏剣の取っ手部分を見やってから、佐助が用いるようにそれを扱った。なるほど、忍らしく、それなりに良い武器かもしれない。しかし、「伝説の」忍には必要ない。躊躇一つ見せず、小太郎は右手の刀を一閃させた。手裏剣だったものがばらばらと地面へこぼれ落ち、その光景に、佐助が呻いた。
 「かすが、今回ばっかりは助けられねえ。自分の命は自分で守れ。」
 「大した口のききようだな…私を見くびるな!」
 怒鳴り様、かすがが右腕を振り上げた。通常であれば、不可視の糸だ。だが、使い手に見えるのであれば、そしてその使い手が忍であるならば、「伝説の」忍びたる小太郎に見えない道理がない。光を反射して煌く糸を避け、小太郎はかすがへ跳んだ。確かにこの糸は有益である。例え一本一本は惰弱な糸でも、幾重にも張り巡らせれば非常な強靭さを誇り、大きな獲物すらも吊るすことが可能だろう。だが、皮肉なまでに接近戦に適していない。それに、使い手と糸と獲物、一つでも時機を失すれば無効化するのも大きな欠点だ。長い前髪の下で、小太郎の目が暗く光る。
 何より、指を落とされれば、使いようが無い。


 ただ一つ欲しいものがあった。
 姫君であることを止めた彼女は、優秀な武将であると同時に、物好きな女でもあった。彼の正体を知らないくせに、安易に引きとめ、そして、慣らした。彼女は、彼の名すら知ろうとしなかったのだ。ただ、適当に「お前」とか「おい」などと呼んだ。彼女にはそれだけで十分らしかった。
 非情でなければ伝説の忍になれぬというのなら、それでも良かった。彼は技を磨き、無駄を省いていった。同時に、心も磨き、不要な感情を殺いでいった。
 彼は父を殺した。師匠を殺した。彼を知るものを殺した。「風魔小太郎」を殺した。自分すら殺した。
 そうして、独りになってようやく、彼は伝説の名を勝ち取った。彼はそのときから、「風魔小太郎」になった。
 それなのに、彼女はそんなもの不要だと言う。本当に欲しいものは、彼の手の中に落ちてこなかった。忍であった彼にもまた、肝要なことがわからなかった。愛など、不要な生業であったから。非情に徹するため、削いでしまったのだから。
 そんな中、彼女に気に入りの忍がいるらしいと知った。甲斐の忍で、名を、猿飛佐助というらしい。その忍について語るときの彼女の目に宿った優しさが厭わしくて、彼は、その忍を自ら手にかけることを夢見た。


 そして、とうとう、夢は叶った。


 分身しようと、禁術を用いようと関係ない。それらを用いてなお超えることのできない小太郎の圧倒的な強さを目の当たりにして、佐助の憔悴と絶望も濃かった。だが、佐助には帰る場所があった。守りたい女があった。右足に、小太郎が体重を乗せる。跳ぶ前動作だ。とっさに飛び退いた佐助と異なり、そのときにはもう、かすがには攻撃を避ける体力すら残っていなかった。小太郎の刃は音もなく、かすがの曝け出された胸元へ沈んでいった。大きく、かすがが目を見開く。その目には、絶望と諦めが浮かんでいた。
 「悪、魔…。」
 どさりとかすがが斃れた。異人の血が流れていることもあり、常であれば仄かに桜色に色付いているかすがの肌は、失血のため青く、流した血で斑に汚されている。倒れたきり動く気配の無いかすがに、佐助は一瞬動きを止めた。じわじわとかすがの胸から溢れ出した血が、大地に吸われていく。その真紅に、強い眩暈がした。
 「か、かすが。」
 幼馴染の死に、佐助は強く唇を噛んだ。目に焼きついて離れない死体の残像を払おうとするように、きっと前を向き、小太郎を睨みつける。勝ち目のない争いに執着するほど、佐助は馬鹿ではない。しかし、仲間を殺されて黙っていられるほど、愚かでもなかった。小太郎は無言のまま、佐助の静かな殺意を受け止めた。佐助が跳躍する。一瞬だった。小太郎の刀が閃いた。
 「くッ…。」
 最初に膝が折れた。痛みが襲い掛かったのはその後のことだった。そのまま、抗いきれず、佐助はどうと倒れた。意識は混濁することもなく、蝋燭の炎が掻き消えるように、すぐさま途絶えた。小太郎はしばらく立ち尽くしていた。胸には奇妙な興奮があった。それは「風魔小太郎」になって以来、忘れていた興奮だった。父を殺したとき、師匠を殺したとき、己を知るものを殺したとき、「風魔小太郎」を殺したとき、それだけ彼女に近づけるものと信じて胸に沸き上がったあの暗い喜びだった。倒れた二人を前に、やがて小太郎は静かに掌をかざした。掌に生じた力はうねりとなり、風を生じた。渦巻くその中心に、小さな焔が現れる。小太郎はその焔を地面に落とした。魔力で生じた焔は掻き消えるでもなく、大地すら焦がして燃え広がっていく。炎の爆ぜる音、舞い上がる火の粉。死体を飲み込んだ焔の赤い照り返しが、小太郎の顔を照らした。
 最後の瞬間、あの忍が口にしたのは他国のくのいちであったと告げたならば、彼女はどんな顔をするのだろう。訪れるはずのないその瞬間を夢想しながら、小太郎は跳躍した。
 ただ一つ欲しいものがあった。年相応の無邪気な夢だった。
 彼はそれを得る術を父に尋ねた。父は言った。世は下克上、忍であっても姫君を奪えるのだと。金さえあれば、娶れるのだと。金を得るためにはどうすれば良いのか尋ねると、父は伝説の忍になることだ、と答えた。再度、彼が、伝説の忍になるには何が必要か尋ねると、父は非情な心と技だと告げた。
 気に入りの忍は始末した。こうして、少しずつ、彼女から削いでいこう。彼女の右目、彼女の三傑、彼女の軍、彼女の国。全てを殺ぎ落とせば、彼女は己だけ見てくれるだろうから。そのために、彼は伝説の忍になったのだ。心など疾うに捨てた。それを為すだけの実力もある。金だって。
 彼女が手に入るのは、もうすぐだ。
 後にはただ、人知れず燃え盛る天王山だけが残された。










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初掲載 2009年5月3日