八月三日、夕食後。落ち着きのない佐助の様子に、政宗は内心首を傾げつつ、食器を片付けていた。
政宗が皿を洗い終えタオルで手を拭いながら居間へ向かうと、佐助が動揺も顕にテレビを消した。政宗は、更に不審に思った。今は、佐助が楽しみにしてたまらない野球中継の時間である。普段ならば、政宗が入浴を勧めても夕飯を促しても、佐助は生返事で忠告を右から左へ聞き流すのだ。
「…どうかしたのか、佐助?」
明日は雨でも降るのではないかと思いつつ、眉間に皺を寄せて見やれば、佐助は「うっ。」と言葉に詰まった。ますます怪しい。再度何かあったのか尋ねようとする政宗に、佐助はテーブル越しにクッションを敷き、政宗に坐るよう勧めた。
「実は、話があるんだ。」
言った傍からうろたえ、気を落ち着かせるためか麦茶を一気飲みする佐助に、政宗は正直呆れた。
「んだよ、はっきりしねえなあ。」
佐助は目を泳がした後、大きく一つ深呼吸をすると、視線を落としたまま呟いた。
「そのさ、前に何か欲しいものないか訊いたら愛が欲しいって言ったじゃない?それから、何でももらえるものなら嬉しいって。」
「あ…ああ。だけどありゃ、」
あれはその場しのぎの台詞のつもりだった。それに、政宗は。
しかしその事実を告げる前に、佐助が俯かせていた顔を上げて、政宗を真っ向から見つめた。
「俺も、政宗にはずっと傍にいてもらいたいんだ。」
取り出された小さな箱に、政宗は驚きに目を見張った。それはプロポーズの際によく使用されるような、指輪を収める小箱だった。
だが、開けられた箱には中身がなかった。佐助は細々と長く溜め息を吐いて、視線を落とした。
「ごめん…この通り。金が…頑張ったけど、中身まで買う金がなくて…。箱しか買えなかった。人に借りたりしないで、あくまで自分の給料でプレゼントしたくて。でもすぐ、でもすぐ、俺の原稿がもう少し高く…、」
項垂れ羞恥から消え入りそうな小さな声で呟く佐助を、政宗は感情の読めない瞳で見ていたが、遮るように口を開いた。
「俺、男だぜ?」
「…知ってる。」
「女じゃないから胸ねえし、抱いたって身体柔らかくねえし、結婚できねえし、子どもも産めない。だから、佐助が望む幸せな家庭なんて、俺には築けっこないんだぜ?ちゃんと…、ちゃんと、わかってんのかよ?」
「わかってるよ。」
「だって、」
一度口を噤み、唇を噛み締めてから、政宗は言葉を吐き出した。
「だって、お前の昔からの夢だろ…?」
「そうだよ、夢、だった。でも俺だって、理想の自分には程遠いんだ。一戸建て買う資金なんてどこにもないどころか指輪だって買えてないし、家族も犬も、養うだけの余裕もない。それに、俺は、理想とか夢とかそういう綺麗な絵空事じゃなくて。現実の政宗だから傍にいて欲しいんだ。」
「そんなことどうでもいいくらい、政宗のことが好きなんだよ…。」
「…つけて。」
目を落とした佐助は、その言葉に、驚いて視線を上げた。眼前では、政宗が震える口端を僅かに左右に引き、今にも泣きそうなぎこちない笑みで、左手を差し出していた。
「その、いつか買ってくれる指輪。つけてくれよ。」
佐助が恐る恐る、政宗の緊張で冷たくなった白い手を取った。左手の薬指。零れそうになる涙を堪えて、佐助は小箱から取り出した見えぬ指輪を、その細い薬指に通した。
沈黙が落ちた。長い時間、もしかしたら極めて短い瞬き一つの間だったのかもしれない。政宗は黙って左手を見詰めた後、左手を電灯に翳して、微笑った。
「…綺麗だな。」
その政宗の姿に、佐助もようやく笑みを見せた。
翌朝。テーブルの上には、朝食の代わりに『蒼天疾駆』と一通の手紙が載せられていた。政宗は未だ深く眠っている佐助を名残惜しそうに一瞥してから、無言で部屋を抜け出た。さくら荘の外には、およそ一月前に止まっていた車が、政宗を待っていた。政宗は迷うことなく乗り込むと、決してさくら荘の方を見ることなく、固い口調で運転手に発車するよう命じた。車は間を置かずに発進した。政宗は座席に背を預け、瞼を閉じた。手にはしっかと、空の小箱が握られていた。