夏になった。開け放したベランダの窓はそれでも室内の湿気を取り払うことはなく、じわりとした不快な暑さを増長した。団扇を仰ぎながら甲子園の中継を眺めていた佐助は、背後で昼食の支度をしている政宗を振り仰いだ。
「そういえば政宗、何か欲しいもんある?」
「醤油が欲しい。けど、アンタ濃い口と薄口、前間違えて買ってきただろ。良いよ。俺、午後に自分で買いに行くし。」
確かに醤油も、政宗が欲しいもののくくりでまとめることが出来るものだったが、佐助が聞きたいのはそういうことではなかった。
「違うって!そうじゃなくて、ほら、何かもっと形に残るもので?」
てきぱきと昼食の準備を持続しながら、政宗は胡乱な目付きで佐助を見やると、わざとらしく溜め息を吐いた。暮らし始めて早四ヶ月、政宗は佐助をあしらうのがすっかり巧くなっていた。
政宗は仕事に就いていない。小十郎は決して話そうとはしないが、それは単に過保護であるからというよりも、何か他に理由があるらしかった。佐助の推測するところでは、佐助が政宗を預かっていることと何かしら関係があるようである。そのため、政宗は専業主夫と化している。佐助が専業作家の身であるため、専らどちらかが家にいるか、二人揃って出かけるかだが、一応、政宗に合鍵は渡してあった。佐助も大家の島津も共に不在である可能性は限りなくゼロに近いが、絶対ないとも言い切れない。佐助は既に十分すぎるほど世話になっているので、これ以上政宗に不便をかけたくなかった。
政宗は手にしていた冷やし中華の皿をテーブルに置いて、手作りの麦茶を花柄の可愛らしいコップに注いだ。コップは、引っ越し祝いに、さくら荘に母と住んでいる少女いつきが贈ってくれたものである。引越しに似たようなものだが引越しではなく、更には、まるで佐助と二人で使えとでもいうようにお揃いのコップを二つもらう謂れはないのだが、政宗は好意としてありがたく受け取っておいた。コップの中で解けて均衡を失った氷が、からんと軽い音を立てて崩れた。
「何企んでんだか知らねえけど。アンタ、金ねえんだから無理すんなよ。ほら、飯にしようぜ。」
さんざんな言いようである。しかし、小十郎から政宗の生活費がそれなりに手渡されているとはいえ、万年金欠なのは事実。佐助は「うっ。」と一瞬言葉に詰まることでその事実を認めつつ、テーブルに着いた。
「で、でも!無理じゃないって。だから何かさ、ないの?ほらほら。」
「…じゃあ、愛。プライスレスだし。」
「愛はいつだって俺様、力の限りあげてんじゃん!他は?」
佐助が引き下がらないと見て、政宗は再び吐きそうになった溜め息を噛み殺した。こうなると佐助はしつこいのである。変な所でこいつしつけえんだよな、と心中苦笑しながら、政宗は答えた。
「それじゃ、佐助が良いと思うようなもんをくれよ。佐助がくれるもんなら、俺は何でも、嬉しい。」
真剣に考えるのが面倒臭いが故の単なる逃げ口上だったが、言われた佐助は、破顔して大きく頷いた。
昼食後。政宗は、佐助に告げたとおり醤油を買いに、24時間営業のスーパーに来ていた。昨夜は素麺、昼食に冷やし中華だった。朝食はいつも通り白米と味噌汁にしたが、どうも食事が麺類に偏っているようである。今夜の夕食はどうしようか、と麺類からの脱却を決意しつつ野菜コーナーを覗いていた政宗は、前方の魚介類のコーナーで見覚えのある二人連れが、物珍しい様子で刺身を眺めているのに気づいた。さくら荘のお向かいに住む帰蝶と蘭丸親子だ。織田一家はグループ企業のオーナーということもあり、非常な金持ちである。そのため、このような下町のスーパーで見かけることは滅多にない。何かあったのだろうかと物珍しさから政宗が声をかけると、帰蝶にまつわりついていた蘭丸が偉そうに言った。
「若造!お前も来てたのかよ。ちぇっ、つまんねえとこ見られちゃったな。ねえ、濃姫様。」
「蘭丸君、そんなこと言っちゃ駄目よ。政宗君もお買物なのね。…丁度良いじゃない。蘭丸君、政宗君に教えてもらったらどう?」
政宗も十八歳、それなりに良い年だ。それを、小学生の蘭丸と然程変わらぬ年齢であるかのように、妙齢の婦人に君付けで呼ばれる事態に、こそばゆさと恥ずかしさで苦笑めいた笑みがこぼれた。蘭丸はそんな政宗を訝しげに睨みつけたが、帰蝶の言葉にそうする他ないと判断したのか、親指と人差し指で小さな輪を作るとしぶしぶ尋ねた。
「こーんな小さいチョコなんだけど、若造知らないか?薄っぺらくて、五円玉みたいなんだ。」
「…五円チョコのことか?」
「名前はわからないんだけど、いつきちゃんが食べようとしたチョコレートを蘭丸君が食べちゃってね。喧嘩してしまったの。それで仲直りするために買いに来たのだけれど、場所がわからなくて。」
政宗はようやく帰蝶たちがスーパーにいることに合点がいった。いつきのことが好きな蘭丸は子ども特有の好きな子程いじめたいという衝動で、つい、いつきが食べようとしていた五円チョコを奪い取ったのだろう。いつきも普段はそれほど些末に拘る性質ではなく、むしろ鷹揚で暢気な性格なのだが、蘭丸相手には意地になることが多い。すっかり腹を立てて口を利かなくなってしまったいつきに蘭丸も困り果てて、帰蝶の提案で食べてしまった五円チョコを買いに来たものの、並々ならぬプライドが邪魔して店員に場所を尋ねられなかったのだろう。そこに、政宗が声をかけてきた。
「たぶん、場所はわかりますけど…何で刺身なんて見てたんですか?」
首を傾げる政宗に、帰蝶は笑って答えた。
「だって政宗君、鮪がこんなに安いのよ?驚いてしまって。信長様も知ってるのかしらって話をしてたのよ。ねえ、蘭丸君?」
「はい!」
蘭丸は様々な複雑な事情で引き取った子で、帰蝶と直接血は繋がっていないということだが、二人で示し合わせたように笑いあっているところなど非常に仲の良い親子以外の何ものでもない。政宗はそれを眩しいものを見るように、目を眇めて見つめた。胸に走った痛みに、精一杯、気づかないふりをした。
帰蝶と蘭丸を売り場に案内し、自らも夕食の材料と醤油を購入した政宗は、店を出た途端ぎらぎらと照り付けてくる夏の日差しに小さく嘆息した。政宗は生まれも育ちも東北である。初めて過ごす関東の夏は、政宗にとっては耐え難い暑さだった。家を出る前に作り冷蔵庫に入れてきた水出し麦茶が、そろそろ良い頃合だろう。政宗は額に滲んだ汗を拭い、家路を急いだ。
さくら荘の前には見慣れぬ車が止まっていた。
一方、佐助は財布の中身をテーブルの上に綺麗に並べて、絶望していた。ひいふうみい。どれだけ数えようとも、並べ直そうとも、貧相な金額は変わらない。いぶかしむように眉根を寄せて、佐助はいそいそと棚から通帳も取り出したが、残り少ない残高を見て、やはり溜め息を吐いた。これでは、佐助が贈りたいと願うプレゼントを政宗に贈ることは出来ない。窮した佐助は携帯を手に取り、アドレス帳を開くと、誰か金を貸してくれる者はいないものかと目を走らせ、小十郎の名で検索を止めた。
しかし、結局佐助は小十郎に電話をかけることはしなかった。人から借りた金で政宗にそのプレゼントを贈るのは、相応しくないように思えたからである。
「佐助、ただいまー。咽喉渇いた。麦茶もう出来たか?」
「え?おかえり!…ちょっと待って、今見るから!」
丁度そのとき、玄関の扉が開かれる音と、政宗の声が届いた。佐助は慌ててテーブルの上に広げていたものを、脇に置いてあった鞄に放り込んで立ち上がった。
開け放した窓の外では蝉が忙しげに鳴いていた。