片倉小十郎は、猿飛佐助が住むさくら荘のすぐ近くの居酒屋の主である。頭の開店も早く料理も巧い、弱点らしい弱点などなさそうな渋い良い男なのだが、厳つい顔と頬に傷が走っている点が難点といえば難点である。夕方4時ごろ、開店前。今回もまた落選したと愚痴を零しに来た佐助は、その小十郎が、これまた柄があまり良くなさそうな眼帯の青年といるのを見て、ああ本当に片倉さんってあっち方面の人だったんだ、と妙な納得をした。去年この地に住み着いた小十郎が、何かわけあって夜の世界から足を洗ったばかりの人間なのではないか、という噂は前からあった。それはどうやら、事実である気配が濃厚らしい。しかしだからといって、小十郎との付き合いを考え直すような人間はこの界隈には皆無だった。佐助もその一人である。小十郎は佐助に対しては突き放すような物言いをすることが間々あったが、何だかんだで面倒見が良いこともあって、結局は佐助の泣き上戸に根気よく付き合ってくれるのだった。
小十郎は佐助の入店に気づくと、眉をひそめた。
「猿飛、テメエ、表に準備中って下げてあるだろうが。」
常ならば呆れた様子は見せても、そのような指摘をしてくることはない。佐助は、小十郎がどうやら青年を見られたくなかったらしいことに気づいた。
「何なら帰ろうか?お取り込み中みたいだし。」
「いや、…、ああ。そうか、テメエがいたな。猿飛、テメエに頼みがある。」
「何、頼みって?」
青年が咎めるような目で小十郎を見つめたが、小十郎は意に介する風もなく佐助に言った。
「この御仁を預かってくれやしねえか?」
「小十郎!」
「政宗様はしばし黙っていてください。この小十郎が、貴方様をお一人にする訳にはいかない。どうだ、猿飛?ちょっと、俺のとこじゃ預かれなくてな。」
それまで小十郎と青年のやり取りを目を眇めて興味深く眺めていた佐助は、吹きそうになる口笛を堪えた。野次馬根性旺盛な佐助にしてみれば、今回の小十郎が提示してきたものは面白そうなことこの上ない提案である。しかし表面上はそんな様子を微塵も見せず、佐助は肩を竦めた。
「…面白そうではあるけれど、それって、俺様に何のメリットがあるわけ?」
「勿論ただとは言わねえ。この方の分の生活費は払うし、うちでの酒代もただにしてやる。」
「期限は?」
「未定だ。」
「…そりゃ、ないんじゃない?」
流石に苦笑した佐助に、待ってましたとばかりに青年が合いの手を入れた。
「だから小十郎…、良いって言ってんだろ?こんな馬鹿な話引き受ける馬鹿なんざいねえよ。それこそ本物の馬鹿じゃねえか。」
ここまで言われると、無理にでも引き取りたいと思うのが佐助である。もっとも面白そうだから小十郎との交渉を引き延ばしていただけで、佐助は端から青年を引き取るつもりだった。
「そんな馬鹿でごめんね。片倉さん、俺、引き取っても良いよ。」
佐助の言葉に青年が目を見開いて、何事かを呟いた。それは英語で佐助には言っている意味を理解出来なかったが、スラングで悪態を吐いたらしいことだけはわかった。佐助は笑った。本当に、面白いことになった。ネタになりそうである。
仕事は何かと尋ねられれば、佐助は文字を書くことで生計を立てている者だと答えるだろう。しかし敏い者ならば、佐助が、詳細を尋ねた場合のらりくらりとかわして答えないことに気づくだろう。佐助は高校のとき、冗談で応募してみた純文学がまさかの佳作に入選し、名のある雑誌に掲載された。当時、高校生作家というものが持てはやされていたという事情を背景にしたこの出来事が元で、佐助は純文学作家を目指す現在に至る。とはいえ、以降は落選続き。二束三文にならぬスポーツ紙の官能小説を書いて生活費を稼ぐ日々だ。これでは、人に大声で職業を言えるはずもない。
そういう事情で何かのネタになれば、と佐助が引き取ることを決めた青年は、名を政宗と言った。姓は教えられていない。年は十八、今月高校を卒業したばかりの未成年であるという。佐助宅に居候が決定してから本人はすっかり拗ねたように口を閉ざしてしまったため、代わりに小十郎が教えた情報を胸中にメモしながら、佐助は出された酒を煽った。本当は落選の愚痴を零しにきたはずだったのだが、今となってはご機嫌だった。政宗、十八歳。人目を引かずにいられない冷たい美貌に、眼帯。訳ありつき。これをネタにしないで何をネタにすれば良いのだろう。
すっかり夜も更けアルコールも十分回った頃、佐助は政宗の肩を借りてさくら荘の門をくぐった。会った当初から口を噤んでだんまりを続ける政宗に、小十郎は困った様子で溜め息を吐いて、送り出した。先が思いやられるというものである。
佐助に宛がわれた部屋は本棚に納まりきらなかった資料や書物が床に直接積み重なり、まるで閉架書庫のような雰囲気を醸しだしていた。電気を点けても物が多すぎるため影が大量に落ち、室内は全体的に薄暗く、空気もどこか埃っぽい。食糧やゴミが端に寄せられたテーブルや、敷かれたまま放置されている布団だけが生活臭を漂わせていた。呆れた様子で眉根を寄せ、部屋に上がろうとしない政宗に、佐助は「遠慮しないで上がって上がって。」と、ふらふらしながら先に入った。政宗も恐る恐る後を付いて来た。
「何か呑む?あれ?まだ未成年なんだっけ?」
「…アンタ、あんだけ呑んでまだ呑むつもりなのか?」
「家と店は別腹でしょ。飲み物、適当で良い?ちょっと待ってて。」
あちらこちらに身体をぶつけながら、ペットボトル飲料と酒缶を手に戻ってきた佐助は、政宗が何かを手に取り凝視しているのに気が付いた。佐助ははっとして、思わず飲み物を取り落としそうになった。政宗が見ているものは、佐助の書きかけ途中の原稿だった。ただでさえ原稿を知り合いに見られるのは恥ずかしい上に、それは書きかけの、更にはスポーツ新聞で掲載予定の官能小説である。佐助は悲鳴を上げて、政宗の手から原稿用紙を奪い取った。
「…それ、」
「何?!」
「もしかして、『蒼天疾駆』の作者?」
「っ、何で?!」
『蒼天疾駆』は、佐助が高校時代に賞を取った作品の題名である。驚きに再度悲鳴を上げた佐助に、出会ってから数時間、政宗は初めて笑顔を見せた。
「文の癖が一緒だし。官能小説書いてるらしいって噂、ネットで見かけたけど。マジだったんだ。」
次に政宗が告げた台詞は、佐助の胸を詰まらせ有頂天にさせて、思考能力を奪うものだった。
「俺、あの作品すげえ好きだな。共感出来るっていうか、胸打つものがあって。」
そうして政宗が持って来たたった一つきりのボストンバッグから取り出されたのは、現在話題に上っている『蒼天疾駆』だった。
翌日。前夜の不機嫌な政宗の様子に、不安に駆られた小十郎は手土産を持って佐助の住むさくら荘を訪れた。故あって小十郎が政宗を引き取ることは出来ないのだが、あのままであれば、佐助に預けておくのも不安が残る。まださくら荘の大家である島津の方が意気投合しやすいかもしれない、と思いながら佐助の部屋を訪れた小十郎は、驚きに目を見張った。佐助のものらしいジャージを身にまとった政宗が、隣家に住む前田夫婦に借りたらしいはたきやバケツや箒を手に、部屋の大掃除をしていたからである。紐でまとめられた古雑誌と共に猫の額ほどのベランダに押し込められ煙草を吸っていた佐助が、小十郎に気づき、片手を上げた。
「一体どうしたんだ、こりゃ。テメエ、まさか住む代わりにとか何とか言って、政宗様に無理矢理掃除させてんじゃ…?!」
「違う違う。俺が命じたんじゃないって。政宗くんが自主的にね。本当、ご近所にも挨拶行って、まつさんから掃除道具一式まで借りてきて。島津さんとか元親にも気に入られて、明日歓迎会するって話まで出てるし。この根回しとおべっか、片倉さんが教え込んだの?」
「…政宗様が、自主的に、だと?何故!?」
「何故って…そりゃ、…まあ。俺様のファンだから?」
仔細は知らないが、小十郎も佐助が何か文を書いて生計を立てていることは知っていた。
「テメエがそんな、政宗様が気に入るようなたいそうなもん書けたのか?」
「ひっどい言い方するね…片倉さん。」
しかし当然、実は昨夜、佐助が書いた官能小説を政宗がまるでコメディ小説でもあるかのようにけらけら笑い転げて読み耽っていたと告げることも出来ず、佐助は苦笑するに留めた。純文学作家志望のくせに官能小説を書いていると知られるのも大分恥ずかしいが、そうでなくても、それを目の前で未成年に読まれた挙句爆笑されたなどとわざわざ教える気にはなれなかった。
佐助は一度煙草を吹かし、ふと、思い出したように尋ねた。
「そうだ。片倉さんこの後暇?」
「ああ?何だ?」
「冷蔵庫の中身が空だって怒られてさ、買物行かなきゃなんだけど。スーパーなんて行かないから、わかんなくて。それに俺、車持ってないし。」
佐助は笑った。
「今夜はカレーライスだって。片倉さんも食べていきなよ。」