「本質である生来の「名」を奪われ、そいつは、神に都合のいい人としての「名」、その制約だけを課せられた。なあ、知ってたか?神はな、「名」を、生来持っているものなんだ。授けられるまでもなく。」
揺るがない完璧な存在としてある神は、何一つ変わることはない。変わらないからこそ、「名」を持って生まれる。対し、人はうつろうがゆえに「名」を持たずに生まれる。「名」を持たぬがゆえに、どこまでも際限なく、己の限界の許す限り成長し、あるいは堕落する。
神はそんな成長する人に嫉妬し、恐れた。
「神が「名」を人に与えるのはな、自らの保身のためだ。祝福、じゃない。そんなのは建前だ。世界の祝福は、それが誕生した時から変わらずそこに流れ続けているだろ。」
佐助の恐怖と不安に揺らぐ瞳を、「彼」は僅かな憧憬さえ覚えながら見詰め、ゆっくりと、怯えを増長させぬよう慎重な足取りで佐助の方へ歩み寄った。
「ある神と人との間に生まれた者は、神としての力を持ちながら、人として成長する。大半は神としての力に肉体が耐え切れず死んだが、唯一、右目を失うだけで済んだ者がいた。神はそいつを恐れ、殺そうとした。いつなんとき、自分の座を奪うかわからないからな。不安材料は少ないほうがいい。…だが必死になって神がそいつを探し当てたとき、そいつは、すでに殺せないほどに成長していた。創造の力すら、持ち合わせていたんだ。」
「彼」の歩みに合わせて、かつて見たことのない、白い葉茎を持つ蒼い花が道となり咲き誇る。
つ、と「彼」の指先が佐助の頬に触れた。
「「名」を奪われたそいつの本質を誰も、そいつが流した血と涙から生れ落ちた者以外は、誰も知らない。人としての制約のみを課せられて。」
掌はそっと下ろされていき、佐助の頤を這ってから惜しむように離れた。
「力が強いから、「名」を知ることができない?違う。「名」を知られては困るんだ。せっかく封じたそいつの「名」を、その本質に秘められた力を暴かれては。」
人としての「名」が反響し、幾重にも制約を課すこの限られた空間で、どれだけ、自由を、あの世界の歌声を懐かしんだことか。
「本質を失くしたそいつは、長い間、考え続けた。どうすれば自分を取り戻せるのか。どうすれば、神の課した制約によって奪われた、あの世界の祝福の歌が、再び聴けるのか。」
「彼」は柔らかく笑みを浮かべた。それはどこまでも柔らかく甘い笑みなのに、佐助の背筋を冷たいものが伝う。恐怖に喉が鳴った。
「制約…制約を無くすには、課した憎い神を殺せばいい。だが、どうやって?神によって生まれたものでは、神を殺せない。従来の存在では神に抗えない。神によって生まれない、「名」を持たない。そんな新しい生き物。はたしてそんなものがあるのだろうか。本質を持たず、揺らぎ続ける。まるで人のような生き物が?」
神によって作られない、人のような存在。
『こんなになっても見つからないってことは、「名」がないんじゃない。』
いつか「彼」に告げた言葉が、佐助の脳裏を過ぎる。
『まだ確認したわけじゃないけど。ここから少し南に下った場所で、うろが作成されたみたいなんだ。』
あの、何気ない情報。
『大半はもちろん人の形にすらならないで失敗するんだけど。もしかしたら今回は、』
「そんな存在がいたら…そいつは思った。もし存在したならば、またきっと、あの歌が聴ける。幸いそいつには神に存在を気取られていない手足がいた。失った右目と共に流れ落ちた血から生まれた、新しい右目が。とはいえ既存の存在で、所詮は神の敷いた道を歩むしかない右目に、「それ」は造れない。…そいつも、右目も。辛抱強く、迷い道を外れた存在――人が、「それ」を造るのを待った。」
佐助が情報を掻き集めようやく発見したうろの発生場所は、「彼」に伝えた場所とは異なり、高野の奥に存在した。西行がうろを造ったとされる場所だった。拓けた山際にひっそりと設けられた塚は、うろの元となった遺体が埋められていたのか、それとも失敗したうろが埋められたのか。土を掻いてみたが、結局詳細はわからなかった。塚は何者かによって暴かれ、既に空だった。うろに至る情報は、そこで、断絶されてしまっていた。
あれは、五日前のことだった。
「皮肉だよな。そいつを閉じ込めることがなければ、神は、死ぬこともなかったかもしれない。」
「彼」はゆるりと振り下ろした腕を上げ、青白い世界で四角く切り取られた、夕日に赤く染まる鳥居の外を指差した。
「なあ佐助。」
密やかな笑いさえ湛え、「彼」は言った。
「世界の祝福の歌が、お前には、聴こえないか?」
そこで、佐助は気付く。
いつの間にか、少女の歌声は止んでいた。