まるで血だ。常の温かさの欠片もない血のような赤が、世界を照らしている。夕焼けというには禍々しい赤は、佐助の恐怖を煽った。
あの少女の歌声は絶え、「彼」に巻きつけられた神の呪は解かれてしまった。
(死んだのは誰だ。)
走る佐助の草履の下で玉砂利が騒々しく音を立てる。
ざあざあと波のような音が残響している。青く繁る大樹が葉を揺らす音だ。鈴の音、歌声、葉音。それ以外の音が、「彼」を恐れ敬うように鳴りを潜めていた世界は、失われてしまった。轟々と氾濫する音は、ひたむきに「彼」の帰還を祝福した。説明されずとも、佐助にはわかった。それは今まで耳にしたことのない、世界の歌声だった。
(死んだのはっ、)
追い縋る佐助を気にも留めず、「彼」がゆったりと歩いていく。その緩慢な動作に反して、どれだけ伸ばしても佐助の手は一向に届く気配がない。
ふいに立ち止まった「彼」は、佐助を振り返った。それでも埋まらない距離に必死に足を動かす佐助に手を差し延べ、「彼」は言う。
「神が捨てた、もはや神のいない世界。なあ、今更だろう?何故、今更怯える?」
指先は風を切るばかりで、「彼」に届かない。
「それでも、」
佐助は声を振り絞り、叫んだ。
「それでも俺たちに神は必要だった!「名」を無くした世界は混沌だ!人はうつろい、自分の本質すら見失ってしまう!だからあれは、」
「あれは神々の祝福だったと、そう、お前は言うのか?あんな建前を真に受けて。」
笑い声が木霊した。
夕日を背にして、黒い影が三つ立っている。
「「 」、おかえり!」
「ただいま。いつきも小十郎も、苦労をかけたな。」
「そのようなことはございません。我ら、「 」様から生れ落ちたものなれば。この身は全て、「 」様のために存在するのですから。」
四つになった黒い影は、揺らぎかすれた。
夕日の支配する誰彼時、「彼」は一体誰なのだろう。佐助は無力感から立ち尽くし、呆然と四つの影を眺めていた。「彼」は…いや違う。「彼」はゆるがない。「彼」が誰であるかなど、わかりきったことだ。
(わからないのは、俺だ。)
人はうつろい、自分の本質すら見失ってしまう。
大きい影、小さい影、「彼」の影。そして中くらいの影がゆらゆらと揺れる。
佐助は地に座り込んだ。「彼」の隣に立つあれは、橙の髪を持つ人の形をした、あれは、誰だろう。ここに今居る自分は自分ではなく、疾うに、「彼」の元に辿り着いていたのだろうか。疲労と絶望に喘ぎながら、佐助は思った。駆けても駆けても「彼」の元に辿り着かないのは、自分が捨てた自分が残されているだけで、自分は「彼」の隣にいる自分こそが本物なのだろうか。自分は、残響なのだろうか。
視線の先でその影の指先から黒い影が滴り落ち、地面に黒い点を描いた。
(あれは…神殺しの、――神の血。)
じわじわと地の上広がった円は、やがて影に紛れて見えなくなってしまった。
(まどうのは、俺が人だからだ。弱く脆い、本質すら持たない…人の身だからだ。)
佐助は拳を握り締めた。たとえそれが枷を多く課したもので、実際には祝福ではなかったとしても、人には、神の授ける「名」が必要だった。
佐助は震える肩で呟いた。
「揺るがない本質を持ってるアンタには、わからないよ。…政宗。」
最後に小さく呼んだその名はかすれたけれど、「彼」――政宗は嬉しそうに笑ったようだった。
初掲載 2007年5月8日