「揺るがない本質を持ってるアンタには、わからないよ。…「 」。」
最後に小さく呼んだその名はかすれたけれど、彼は嬉しそうに笑ったようだった。
朱塗りの鳥居をくぐると、一瞬、違和感が襲う。水面に波紋が生じるような感覚は、「彼」の支配する領域に踏み入れたことを、逆に言えば、鳥居の外に「彼」の力が十分に及ぶことはないということを意味している。
「彼」。「彼」の「名」は何なのだろう。佐助は静謐すぎどこか圧迫感すら帯びた境内を、社の方へと歩みながら思った。竜と称される「彼」の「名」を佐助は知らない。いや、「彼」の「名」を知らないのは佐助だけではない。誰も「彼」の「名」を知らないのだ。
(知っているのは、)
遠く近く木霊を引き連れながら、軽やかな鈴の音とまろい少女の歌声が耳に届いていた。歌は神歌だ。この地に住まう「彼」の徳を讃える歌である。
ところどころ「彼」の「名」が織り込まれているのだが、佐助の耳は「彼」の「名」を拾い上げることがない。「彼」の「名」を知り口にすることができるのは、この歌を口にする銀髪の巫女だけなのだ。他の誰にも、「彼」の「名」を知るだけの力も権限もない。佐助は「彼」の元を訪れるたびに、「彼」の前では全てが、例えそれが神であっても、いかに無力であるかということを思い知らされる。
ざあざあと波のような音が残響している。青く繁る大樹が葉を揺らす音だ。鈴の音、歌声、葉音。それ以外の音は、「彼」を恐れ敬うように鳴りを潜めている。佐助の草鞋の踏みつける玉砂利すらも、音を立てない。
全てが「彼」の前にはひれ伏す。
佐助は足を止め、「彼」のいる社を仰いだ。神が「彼」を封じた社は人界にあって人界になく、高天原には最も遠い。
(だから神は高天原に、)
佐助は強く頭を振り、浮かびかけた続きの台詞を打ち消した。考えるべきではない領域に思考が及んでいる。それは、禁忌だ。触れてはならない。
「竜の旦那。」
佐助の呼び声に、社の入り口が音もなく開いた。入って来いということなのだろう。佐助はわき上げた溜め息を呑み、仄暗い井戸の底のような社内へと足を踏み入れた。ひやりと痛烈な神気の帯びる冷たさが、佐助の踝を撫でた。