「鳴かぬ鳥は、殺すまで。軍神に挑むか、余に斬られるか…選べ。」
「行きます…それしかないから…。」
信長の命に小さな声で答え、お市はふらりと歩き出す。
「嘆きの傀儡がわたくしに挑むと?来なさい…手加減はいたしません。」
高台から織田軍の動向を探っていた上杉謙信は、一人歩き出したお市を見て取り、声に怒りを滲ませた。宿敵との甘美な戦に水を差され、あまつさえ先に討ち取られた怒りに、冷静沈着が性の謙信ですら声が震えた。
「骸が足りぬわ…市、注ぎ足せい。貴様に群がる虫共を斬り捨てい。」
「逃げられない…どこまで行っても…。」
呪詛のようにまとわりついて離れない兄の声に苛まれながら、お市は送り込まれる上杉の軍勢を退けていった。大勢の血脂に穢れた薙刀は、すでに使い物にならなくなっている。それでも、お市は信長の命じるまま突き進むしかなかった。信長は市の築いた死者の山に、高笑いをあげる。
「フハハハ!進めい!長政と同じ場所に軍神を送れい!」
「ああ…そんな風に言わないで…!」
足掻いても、同じ。泣いたって、駄目。周囲に不幸を撒き散らしてしまう。ながまささまがいってた。ころしちゃいけないのに、ころしちゃいけないのに。お市は頬を涙で濡らしながら、敵を屠り、進み続ける。お市の悲痛な咆哮に答えるように、根の国の門は開かれ、放出した闇が敵兵を喰らった。
いけないことなのに、いちは、ころしてる。
「もうだめ…市はできない…。長政さまに…許してもらえない…。」
人を殺めることしかできない己が厭わしい、それに快楽を覚える己が疎ましい、長政の期待に応えられないことが一等哀しい。涙を流しながら、お市は足を引き摺るようにして、謙信の元へ辿り着いた。
「言われるままに罪無き者を手にかける…よいでしょう…そなたに救いは必要なし。虎を討ちし者…覚悟はよいですね。」
すらりと剣を抜き放つ謙信の本気に、お市の薙刀を握る手が震えた。
「だめ…市はきっと勝てない…!」
震えて泣きじゃくるお市に、謙信は憐れむように目を眇めた後、小さく被りを振る。
「さあ、冥府へと行きなさい。そなたと交わす言葉など、何もありません。」
そこへ、信長がやって来る。恐怖と錯乱で身を投げ出すようにして己の足に縋りついてきた妹に、蔑みの一瞥を投げかけた。
「にいさま助けて…!市には無理です…!」
「たわけが…貴様の腹に眠る獣を暴きだせい!」
怒鳴りつけ、信長はお市を蹴りつける。しゃくりをあげながら前へ進み出る形になったお市に、謙信は一時もの思う視線を向けてから、小さく深呼吸した。傀儡相手に容赦など必要なし。傀儡如きに瓦解した武田軍、斃された宿敵、そして、辛酸を舐め、おろか、絆されかけている己。謙信には、全てが厭わしかった。憐憫の情を切り捨て、容赦せず、謙信はお市に剣の切っ先と真実を突きつける。
「そなたの心の奥に潜むもの…今、それがはっきりと見えますよ。」
「何を惑うか…余は斬れと言っておる。」
吐き捨てられた台詞に、それまで地に伏していたお市は、流れ続ける涙そのままに、薙刀を取る。お市は血のように赤い唇から、吐息混じりにこぼした。
「長政さまが手を伸ばしている…にいさまには見えないの…?」
だが、その呟きは、謙信の繰り出した攻撃を受け止めた音で掻き消え、誰の耳に届くこともなかった。
「喰らったか…フン。」
地面に斃れた謙信を見下ろし、信長は鼻を鳴らす。そして、お市をその場に置き去りにして、帰陣してしまった。かろうじて謙信を倒したお市は、薙刀を杖代わりにして、肩で息をついている。血を失いすぎた肌は、白を通り越して青い。
「はあ…はあ…はあ…。斬っても、斬っても…終わらない…。」
疲労、そして、長政があれだけ禁じたいけないことをしているという混乱から、お市の目は焦点が定まっていない。ころしちゃいけないのに、ころしちゃいけないのに、ころしちゃいけないのに、ころしちゃいけないのに。虚ろな目をするお市の耳に、自らを正当化するための幻聴が届いた。
『そうだ…いいぞ…その調子だ、市…。』
お市は、己の作り出した長政の声に顔を上げた。泣き腫らし、いまだ涙の滲む目許は赤い。
「長政さま…?」
そして、恐る恐る尋ねる。
「市を…許してくれるの…?」
当然、返事は無い。だが、お市はふらりと立ち上がると、嬉しそうに薙刀を抱き締めた。その目には、長政を失って以来見かけることの無かった喜色が、とうとう一線を越えてしまったものの狂喜が浮かんでいた。
「長政さま、喜んでた…嬉しい…ふふふ…もっと頑張るから…見ててね…。」
誰にとも無く呟いたお市は、薙刀を引き摺り、その場を後にする。
「ふふ…ふふふ…ふふふ…。」
空虚な笑い声が響いた。
初掲載 2009年5月17日