武田を下した織田は、上杉討伐に向けて北上していた。騎馬に揺られる信長の隣では、信長を無上の存在として慕う森蘭丸が、初めての雪国訪問にはしゃいでいる。それを微笑ましい光景と微笑みながら、濃姫は後方をついてくる駕籠を見やった。その駕籠には、武田戦で憔悴した様子のお市が乗せられていた。濃姫はお市のことが心配でならなかったが、信長に意見する気には到底なれなかった。濃姫には、実の妹でさえ道具としてしか見ない信長のことが恐ろしかった。そしてそれ以上に信長に惹かれ、夫に見捨てられることを恐怖していた。
駕籠の中、お市は俯いたまま、焦点の定まらない目でぼんやりと下方を見ている。とうとう越後に踏み込んだらしい。駕籠の外から一際大きく届いた蘭丸の歓声に、ぽつりと、お市は呟いた。
「にいさま…市を好きに使えばいいわ…市はもう、どうでもいいの…。」
その膝の上には、黄金の杯が一つ。信長が直々に作らせた、長政の頭蓋に金箔を貼り付けた杯だった。
初掲載 2009年5月16日