「行くぞ。」
引き摺られるようにして無理矢理戦場へ立たされたお市は、信長の命令にも反応しない。愚妹の愚挙に対する苛立ちのまま、信長は銃口をお市へ向け、躊躇い無く引き金を引く。銃弾はお市の耳元を掠め、髪を巻き込んで散らした。だが、お市が動く気配は無い。信長はお市をしばし睨みつけた後、再び、前を向く。
「行けい…獣の波を滅してみよ。」
「できません…市にこの波は渡れない…。」
首を振るお市を、信長が叱責する。
「ならば溺れぬよう、足掻け!」
仕方なく、お市は戦場へと足を向ける。戦場に在ってその姿は、たおやかな華の如く在る。織田の鉄砲隊は間に味方がいるというのに、気にした素振りもなく、武田騎馬隊に銃弾を浴びせている。武田の先鋒を務める真田幸村がいぶかしむのも、当然のことだった。幸村は隣に従えた忍びへ尋ねた。
「佐助、あの女人は何者だ?」
「魔王の妹…まさか織田に戻ってたとはね。」
猿飛佐助は肩を竦める。幸村は女子供であれ敵でさえあれば、情け容赦なく斬ることができる。しかし、あれはどう見ても、敵ではなく一人の女だ。女を殺せぬ主のために、どうやら、自分が露払いする必要があるらしい。仕方なしに、佐助は、鉄砲隊対策で霧を発生させると、お市の元へ向かった。
その頃、お市は何も考えぬまま、近寄るもの皆斬り払っていた。そこには愛情も無く、殺意も無く、敵意すら無い。
「市…こんなところで何をしているんだろう…。市のせいで、長政さまは死んでしまった…。長政さま、きっと怒っているわ…市が頑張らなかったから…きっと地獄で…市を恨んでいる…。」
ぼそぼそ独り言を繰り返すお市の目に、光はない。霧を進み対峙した佐助は、その目に浮かぶ絶望と悲哀、そして、まるで人形のようなお市に、身構える。
「あんたが噂の魔王の妹、ね。悪いけど、手加減はしてやれないぜ。」
「そんなのいらない…好きにすれば…。」
投げやりな態度を続けるお市は、ただ死を待っており、抵抗一つ示さない。いっそ、この女は死なせてやった方が幸せだろう。白く華奢な首の頚動脈に狙いを定めてくないを構えた佐助は、終わりを与えてやる寸前、一つ間を空けてから言い放った。
「一つ、勘で言わせてもらうよ。あんた、あんまり苦しんでないだろ?」
もう死ぬ女に対して、戯れのような言葉だった。佐助には、お市の姿は、全て自分のせいだと言いながら他者に責任転嫁している風にしか映らなかった。その言葉に、お市の中で何かがふれた。
「あなたに…市の気持ちなんて分からない…!」
急に狂ったように攻撃を仕掛けてくるお市の魔手を避け、佐助は飛び退く。白い霧の中、際立ったようにお市の呼び出した闇は濃い。その目からあふれ落ち留まるところを知らない涙は、まるで、血のようだ。佐助はざわざわと項が逆立つのを感じた。紛れもない恐怖だ。おぞけるほどのお市の殺気に、己がとんだ失態を演じたのがわかった。もはやこれは、己の敵う相手ではない。
「下がれい、佐助!お主には過ぎる相手じゃ!」
飛んで来た言葉に振り向くと、騎馬に乗った武田信玄と幸村がいた。佐助の様子を見に来たらしい。二人は馬から飛び降りると、お市に対峙した。他の織田軍の足止めを命じられた佐助は、その場を後にする。
「背を失い、戦に身をやつすか…哀れよの。」
「好きに言えばいいわ…勝手に哀れんで…。」
佐助がいなくなったことで僅かながら殺気が治まったお市は、投げやりな素振りで薙刀を振り払う。しかし、重い音を立てて、幸村に払われる。お市は一向気にした様子も無く、ぼんやりと、織田の鉄砲隊相手に戦う武田の騎馬隊を見やる。ひゅん、と騎馬を外れた銃弾が頬を掠めるが、お市は気にするでもない。
「戦の馬たち…いっそ、市を踏み越えて…。」
お市の姿に、幸村の心は痛んだ。しかし、幸村は、この悲痛極まりない風情の女が、佐助でも敵わぬほどの強敵であると知っている。憐憫などという油断はならない。
「すまぬ、だがこれも戦…騎馬隊、振るえよ!」
騎馬隊に指示を飛ばす幸村。しかし、騎馬隊が薙ぎ倒され、信長が姿を現す。わざわざ妹の戦いを見に来た信長に、信玄は呆れが隠せない。お市は幸村に任せることにして、己は信長と対峙する。
「血を分けた妹をも戦に出そうとは、尾張の…そなたのやること、分からぬ。」
「フン…あれは余の思うがまま。言葉を知らぬ無邪気な赤子よ。」
信玄には、信長の真意が読めない。しかし、読みたいとも思わない。信玄は斧を振りかぶり、信長に襲い掛かる。
一方、幸村は己の対峙する敵に困惑していた。女である、という点も勿論困惑の一因ではある。だが、触れれば手折れそうなその女は地面に座り込み、触れればそれだけで蝕まれそうな闇を放出させている。奇怪な事態に、幸村は思わず一歩後退する。ぼんやりと顔を上げたお市の目は底知れぬ闇を抱え、どこか遠くを見ている。闇の手が引き込もうとするように、幸村を手招く。
「この暗き情念…まこと、人の心か…?」
だが、気圧された己を自覚した幸村は、唇を噛み締め眉間にしわを寄せると、双槍を構えて闇へ突進した。
一閃。信長と信玄は背を向けあったまま、立っていた。やがて、信玄が口から大量の血を吐く。信玄の胸には多くの銃痕が刻まれている。対する信長は、信玄の炎を滾らせた斧で鎧に大きな亀裂が入りはしたが、ほぼ無傷。信玄は信長の実力、そして、病に蝕まれ体力の落ちた己を自覚する。死の間際、斃れながら信玄は信長に問いかける。
「尾張の…赤子に刃を持たせてなんとする。」
しかし、信長は答えず、お市の方を見やる。お市の足元には赤揃えの男が倒れ伏している。座り込んだまま、放心したように空を見上げているお市は小さくくぐもった声で今は亡き夫に謝罪している。
「許して…長政さま…市はただ…むせび泣くだけ…。」
やがて、お市は、掌で顔を覆い泣き出す。
「この人形を飼い殺したか…長政、無能なり。」
その様子に、信長は嫌悪も露にマントを翻し、その場を後にする。後には、お市と武田軍の死体の山だけが残される。
初掲載 2009年5月16日