「市、貴様は逃げろ。いくら兄者とて、妹は殺すまい。」
「でも…そうしたら長政さまが…。」
戦いは、浅井・朝倉の劣勢だった。長政はお市を気遣い、下がるよう、再三に渡って言う。お市を守りたい、己の手で守ることはできずとも、せめて、命だけでも永らえさせたい。そのような望みが長政にはあった。しかし、その願いは、長政を生き永らえさせたい一心のお市にはわからない。
「もういい、十分だ!退け、市!」
「でも…にいさまと話を…!」
「いいから逃げろ!私を怒らせるな!」
しかし、お市は、長政の言葉も、手も、優しさも振り切り戦い続ける。久しぶりの血の色、死の香りに、興奮から薙刀を持つ手は震える。お市はそんな己の内から湧き出る興奮に気付かず、ひたすら、長政のために、兄を目指して戦陣を駆ける。織田の将兵相手に手こずっていた長政は、脱兎の如く駆け出したお市を追いかけることができない。必死で呼び止めるが、奇妙な興奮状態に在るお市には長政の制止が聞こえない。
「にいさまと…話をしなくちゃ…。」
それまで周囲が自壊するに任せ、自ら手を下すことのなかったお市の常にない奮起ぶりを目にした信長は、妹の到来をじっと待っていた。あの道具に待つのは、死か、それとも生か。
やがて、信長は光秀に出陣を命じる。
「ようこそ、まずは私が一差し舞いましょう。前座のみで終わる舞台も、また一興。」
「明智さま…市たちを放っておいて…。」
光秀は、己の欲望を曝け出すことに怯え、他者の言葉によってそれを封じ込め、ただ在るだけのお市に嫌悪を隠せない。同時に哀れみを催して、くつくつ笑う。
「信長公にも、そうさえずるおつもりと?相も変わらず、美しいばかりのお人形だ。」
周囲を飛び交う蝿を払うように鎌を一閃する光秀に、お市は薙刀を構える。
「いつもはあんなにお優しいのに…あれは嘘だったの…?」
「人は皆、他人に言えぬ本質を眠らせている…貴方もお分かりのはずですよ。」
暗に長政によって閉ざされた本質に言及するが、お市にはわからない。光秀が興ざめすると同時に、遠くから信長の叱責がする。
「何をしておる光秀、余興に幕を引け。」
「おや残念…ではお別れです、お市殿。」
光秀は大きく、膝を突いたお市に向かって鎌を振りかぶる。だが、長政のために兄を説得しなければならないお市は、ここで死ぬわけにはいかない。強く、暗い闇がお市の目を翳らせる。閃光に目を焼かれたのかと見紛うほどの深い闇が地についた掌から滴り落ち、地面に波紋を描く。じわりと黒く染まった地が分かたれ、底から生じた闇が光秀を呑んだ。思わず体勢を崩す光秀を、お市が薙刀で斬り払う。一瞬の間を置いて、ぱっと目が眩むような鮮やかな赤が弾ける。
「そうです…その目です…。ククク。欲界にて…公をお待ちしましょう。」
斬られた腹から下を鮮血で染め上げた光秀は、お市が覗かせた闇に至高の魔王の血族であることを垣間見て、心底楽しそうに笑う。そして、お辞儀をするようにくるりと円を描いて斃れる。
物言わなくなった光秀を置き去りにして、お市は走り出す。光秀との戦闘で、足元は多少覚束ない。だが、お市は強く香る死臭と自らのまとう血の色に酔い、もはや痛みすら感じていない。兄に対する恐怖すら、鈍っている。
「吠えぬ犬となったか、光秀。」
やって来たお市に光秀が死んだことを悟り、信長はゆっくりと振り返る。
「にいさま、お願いがあって…。」
「余は寛大ぞ。だが二度目は無い…。」
信長は試すように、銃を真っ直ぐお市に突きつける。
「選べ…余に示してみよ。貴様が選ぶは、死か、生か。」
このまま深い闇に呑まれ、本来の己を受け入れるか。あるいは、偽善の内に生を終えるか。兄の真意に気付かぬまま、お市は信長と対峙する。
「どうした市、選んでみよ。」
「違うのにいさま…市の話を聞いて…。」
縋るように一歩前へ進み出たお市に、信長は銃の引き金を引く。お市は慌てて飛びのき、言葉を続ける。
「お願い、長政さまを許してあげて…。」
「余に弓引いた者を許して何を得るか。」
その答えを持たない市は、叫ぶ。
「市が何でもするから…にいさま!」
当然、聞く信長ではない。懇願者という立場もあって、攻撃を仕掛けぬまま、一方的に銃撃に晒されていたお市の中で次第に仄暗い怒りが込み上げてくる。
「いつもそうだった…にいさまは、市の言うことなんか…聞いてもくれない…!」
放出した怒りそのまま薙刀を振り払い、弾を弾き返した妹に、信長はそれでこそ余の妹よと笑う。信長は高笑いをあげながら、お市をいたぶる。お市の目に、気が触れそうなほどの強い闇が一瞬翳る。しかし、寸でのところで、お市は長政の戒めを思い出し、闇の解放を止めてしまう。
「震えるほど恐ろしい、市のにいさま…いつかきっと、地獄に落ちるわ…。」
地面に座り込み、そう呪いの言葉を吐いてさめざめと泣くお市に、信長の興が冷めた。己の妹は長政という男に絆され、使い物にならなくなった。使いようのない道具を生かしておくほど、懐の広い信長ではない。
「戯れは終わりぞ…時間切れよ。」
そう言って、信長が何の躊躇いもなく引き金を引いた瞬間。
「市―――ッ!」
ようやく追いついた長政が間に割り込み、お市を庇い立てして、代わりに銃撃を受ける。防御をまったく考えず、妻を守ることしか考えていなかった長政は、衝撃に吹き飛び、転がったまま起き上がる気配も無い。じわじわと地面には血溜まりが広がっていく。
「あ…あ…ああ…ッ!」
言葉を失い、膝を突いたまま掌で地面を探りつつ長政の方へ近寄るお市を背に、妹を殺める興すら殺がれた信長は吐き捨てる。
「フン…まあよいわ。見よ、市…長政を殺したのは貴様ぞ。」
信長は側にいた近衛兵に、この後、お市を織田に連れてくるよう命じる。しかし、衝撃に頭が真っ白になっているお市にはその会話すら聞こえない。お市は恐る恐る長政に触れる。肩を掴み、少しだけ揺する。起きて、長政さま。だが、長政が起きる気配はない。起きてよ、長政さま、市を見捨てないって言ったじゃない。ねえ、置いていかないで。今度は、強く、揺さぶる。それでも、長政はお市に、「大丈夫だ、市。」と言って、あの安堵させる笑みを見せてくれない。お市の中で、絶望が膨れ上がる。
「ながまささま―――ッ!」
縋りついて泣き伏す妹をまるで汚らわしいものを見る目で一瞥し、信長はその場を立ち去る。
初掲載 2009年5月16日