序奏   ※死にネタ


 暗く薄暗い部屋。武家の姫として生まれ、政略婚のためだけに生かされ、何も考えることを許されない場所に、お市は在った。時折その部屋には、迷い込んだ雀や、柴田勝家が慰めにと持ち込んだ子犬も在った。お市はそれらを可愛がって生かした。しかし、いつしかそれらも物言わぬ骸となって、畳の上に横たわった。お市は己の血に濡れた掌をぼんやり見つめて、何が悪かったのだろうと自問した。愛おしいからずっと一緒に居たいと思うのに、どういうわけか、殺めてしまう。愛ゆえに殺してしまう。いまだ幼いお市には、己の歪んだその性癖が理解できなかった。
 兄、織田信長は、お市のその性癖を理解する唯一の人物だった。そのため、父亡き後、信長はお市を暗い部屋から引きずり出し、戦場へと向かわせた。お市には誘蛾灯のように男を惹きつける暗い魅力があった。男達は競って、軍功を挙げてお市の歓心を得んと、あるいは織田軍からお市を略奪せんとし、そして、死んでいった。お市は周囲に蔓延る血と死の魅力に酔い、己や兄と敵対する者たちを見下し憐れみながらも、周囲に不幸を撒き散らす己の存在を疎い、憐れんでいた。また、そこに愛情が在るわけではないので、自ら手を汚すようなことはなかった。そのため、周囲には、お市は信長の手によって無理矢理戦場に出させられているのだという誤認が在った。
 共に戦場に繰り出されることもあったため、光秀はお市の闇を知ってはいたが、信長のように己を己として受け入れたわけではないお市の闇に魅力を感じることはなかった。光秀はお市に紳士的に接しながら、心中、お人形さんと蔑んでいた。無関心から、態度は当たり障りのないものとなり、お市に目にはそれが優しさとして映った。
 やがて、お市は政略の道具として、浅井長政の元へ嫁ぐことになる。その目的は、朝倉を攻め滅ぼすための前哨としての浅井の無力化だった。信長は、お市には、己の元に嫁いだ濃姫のように懐刀を持たせたところで無駄だとわかっていた。その一方で、お市が在るだけで周囲は自動的に狂わされて自壊して逝くこと、お市は愛ゆえ殺す性に在ることを知っていた。
 お市が嫁いだ長政は実直な好青年だった。最初は眩しく厭わしささえ覚えた長政の性向も、やがて、お市の暗く澱んだ闇を晴らす光となった。お市は長政と共に在るだけで幸せだった。贈られた花を髪に他愛なく挿されるだけで、十分、幸せだった。
 一方、長政は、長く暮らすうちにお市の歪んだ性癖を知るようになる。北に住まうお市へ会いに向かうと、己の贈った愛玩動物や屋敷に迷い込む小鳥が足元に転がり、物言わぬ死骸になっていることがあった。長政は辛抱強く、それは悪なのだ、死や血を好み殺めることはいけないことなのだとお市に教えていく。お市は最初理解できない様子だったが、長政の言うことを段々頭に焼き付けていく。そして、それはいけないことなのだ、と血や死を拒むようになる。
 やがて、お市は使えぬものと判断した織田が朝倉に攻め入ったことが契機で戦となり、朝倉・浅井は織田と戦うことになる。長政は実兄と戦わせることは忍びないと思い、また、お市の本質が血と死を好むものであることを知っていたため、戦から遠ざけようとする。長政が此度の戦に関して、妻の実家である織田ではなく、かつてからの同盟相手である浅井に味方することを決めた背景には、お市をこのように歪ませた義兄への怒りもあった。しかし、長政を一人の女として愛するお市は、戦前夜、縋るように寄り添う。
 「市…長政さまのお役に立ちたい…。」
 役に立てねば、見捨てられる。織田で育ったため、無意識のうちにそう思うお市は、恐怖で震えている。その手の震えに気付いた長政は、お市を強く抱き締める。
 「どうした、市。震えているではないか。安心しろ。私が、貴様を見捨てるわけがあるまい。」
 「…でも…。」
 お市は長政の腕の中で、長い睫を振るわせる。長政では、兄に勝てない。兄は長政を容赦なく殺すだろう。兄の苛烈な性格を知るお市には、いずれはこの絶望が来るとわかっていた。しかし、もう待つだけの自分ではない。長政を助けるためにも、自分が、兄に縋って情けを乞わなくては。お市は常にない強い決意を抱く。
 結局、長政はお市の懇願を振り切れず、また、お市も長政の気遣いに気付かず、お市は戦に出陣することとなる。










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初掲載 2009年5月16日