それがシジフォスの視界に入ったのは、偶然だった。
あまりにあざやかな藍に目を引かれてそちらを見やると、鍛錬場の脇を、金色の鎧をまとった藍の髪を持つ女が、白いマントを翻し、威風堂々と歩いて行くところだった。
一瞬でもカルディアに目を奪われた事実に、シジフォスの眉根にしわが寄った。
シジフォスと蠍座の黄金聖闘士のカルディアとは、彼女が聖域に来て以来の仲だ。
教皇命令で聖域に来たばかりで右も左もわからないカルディアを人馬宮に引き取らされていた時期もあり、良くも悪くも、互いのことを知悉していた。当然、カルディアが聖闘士随一の問題児で、今なお教皇の手を焼かせてはときおり叱責されていることを知っている。
またぞろ気紛れを起こして、姿を消す気になったのかもしれない。
これまでも、カルディアがふらりと姿を消すことはたびたびあった。聖域に来たばかりのころならばいざ知らず、最近は、2,3日もすれば満足して帰って来るので、教皇からも好きにさせておくよう言われていたが、規律にうるさいシジフォスからすれば、カルディアの「外出」はあまり気分の良いものでもなかった。
注意すべきか否か、決心がつきかねて眺めていると、それから少しばかり遅れて、スミレ色の頭が後に続いた。
シジフォスは聖闘士候補生たちの前だということも忘れて顔をしかめた。
カルディアのマントの裾を掴んだスミレ色の髪の少女は、遅れを取るまいと、スカートの裾をたくしあげて早歩きで姿を消した。
スミレ色の髪の少女の名はサーシャ、現代における女神の生まれ変わりだ。言うまでもなく、聖域でもっとも敬われるべき存在である。
本来ならば聖闘士をつき従える立場にある女神が、聖闘士の後をついて歩いている状況に、シジフォスは眩暈を覚えた。警戒しなければならない襲撃の最中ならいざ知らず、女神が黄金聖闘士のあとをついて歩くなど前代未聞の珍事に違いない。しかも、シジフォスの勘違いでなければ、無断で街に降りようというのだ。
これがマニゴルドや童虎であれば展開は違ったのだろう。しかし、頭の固いシジフォスは聖闘士候補生たちを近くにいた白銀聖闘士に任せると、カルディアを注意すべく鍛錬場を抜け出た。女神を危険にさらそうなど、許されることではない。
「アテナよ、お待ちください。」
呼びとめると、サーシャはばつの悪そうな顔をした。
「あ、シジフォス…。」
「これから、どちらへ?私もお供いたしましょう。」
「あの、ううん、その…。だ、大丈夫。」
出方を窺うようにカルディアをちらりと見上げたサーシャは、見るからに落ち着きに欠けている。それでも気丈に立っているのは、女神ゆえというよりも傍にカルディアがいる影響だろう。
現代の女神が聖域に来たばかりの頃、アテナが行方を眩ませたことがあった。
結界の張られた聖域から、自分が女神の生まれ変わりだと知らされたばかりの少女が自力で抜け出るなど考えられない。すぐさま、カルディアが連れだしたものと判明したのだが、そのときは教皇の命で、シジフォスは女神の安否をカルディアにゆだねなければならなかった。
何があったのかわからないが、あれ以来、サーシャはカルディアをことのほか信頼していた。場合によっては、傍仕えのシジフォスよりも、である。
正直な話、シジフォスにしてみれば面白くない。もともと、分不相応な勝手を許されるカルディアへのやっかみもあった。
やはり教皇にも無断で外出しようとしていたのだろうと見当をつけ、叱責すべく、シジフォスはどこ吹く風のカルディアに視線を転じた。
「…カルディア、今回のアテナのご同伴に関して、教皇の許可はとってあるのか?」
わずかに声を荒げて詰問すれば、意外そうにカルディアが目を丸くした。
「ああ?そりゃ、取ってあるよ。」
良くも悪くも、カルディアは自分に正直で嘘の吐けない性質だ。
どうやら本当らしいと察したシジフォスは眉をひそめ、まったく悪びれた様子のないカルディアと気まずげに視線を落としているサーシャを見つめた。
何かがおかしいと直感が訴えていたが、それが何なのか、シジフォスにはわからなかった。
「ならば、どこへ何をしに行く?」
「何ってお前、」
「だ、駄目!カルディア、言わないで!」
わずかに顔を赤くし、珍しく声を張り上げてカルディアに待ったをかけたサーシャの様子に、シジフォスはいたく傷ついた。
シジフォスの記憶にある限り、シジフォスの眼前でアテナがこのような振る舞いをしたことは一度もない。おそらく、カルディアだけに見せる顔なのだろう。
ちくりと嫉妬が胸を刺した。
そんなシジフォスを後目に、サーシャはカルディアと小声で何やら言いあったあと、一大決心をした顔でシジフォスを見返した。
「その、シジフォス、ごめんなさい!いってきます。」
そのまま、カルディアの手を引いて走り出そうとするサーシャへ笑い返したカルディアは、立ち去り際、ふいに思い出したようにシジフォスを振り返った。
「あんま気にすんな。」
何の他意もない言葉に違いない。
だが、内心打ちひしがれていたシジフォスにはカルディアが勝ち誇っているように感じられた。
「げ、まだ凹んでるのかよ。」
他人の宮にやって来るなり、開口一番そう言い放ったカルディアを、シジフォスは睨みつけた。
「…誰のせいだと思っている。」
「え、俺のせいか?!勘弁しろよ。」
他愛なく軽口を叩きながら、布袋を提げたカルディアが押し入って来た。
時刻は0時を回っている。
常識のある人間ならば、こんな夜更けに他人の居住を訪れたりしないのだろうが、カルディアには何を言ったところで無駄だろう。
シジフォスは溜め息をこぼした。ちらりと手に持った書物を一瞥する。今夜は静かに過ごすつもりだったのだが、過分な望みだったようだ。
周囲には知られていないが、天蠍宮が人馬宮の隣に位置するためか、こうしてカルディアがやって来ることはたびたびあった。今回のように、人の都合などまったく意に介さない訪問も間々ある。
一時期人馬宮で同居していた過去がものを言っているか、あるいは、一時の気の迷いで関係を持ってしまった事実がそうさせるのか、好きなときにやって来て気儘に過ごす姿を見るたび、シジフォスはカルディアのことをまるで猫のようだと思った。気位の高さも、そう思わせる一因だろう。
今も、勝手にテーブルの上に袋の中身を広げて、ああでもないこうでもないとしきりにこぼしているカルディアは、猫さながらに気紛れだ。
シジフォスは読みかけの本をテーブルに置き、カルディアを眺めた。
心底迷惑だと思うことも多いが、それでもカルディアの訪問を拒まないのは心のどこかで喜んでいる自分がいるからだ、という結論はだいぶ前に出ていた。
身体を重ねるようになったきっかけが度を過ごした飲酒であったため、生真面目なシジフォスは結論が出るまでさんざん思い悩んだりもしたものの、いったん腹を括ってしまえば何ということはない答えだった。
「愛」や「恋」という言葉ではしっくりこない。「執着」も語感が強すぎる。言い表すならば、「手放したくない」が一番近い。
カルディアを手放したくない。
ふとした瞬間、カルディアへの感情に絡め取られて呼吸もままならなくなる。
下手に同じ時を過ごし、身体を重ねたせいで、そう感じるのだろう。
いっそ繋ぎ止めて飼い猫にしてしまえば気苦労も減るのかもしれない。もっとも、十二宮を守護すべき黄金聖闘士が同居するなど、しょせん夢物語にすぎないことは重々承知だ。
もてあまし気味の感情を抱いた先がカルディア以外の娘であれば、シジフォスにも、先代の獅子座の黄金聖闘士のような未来が拓けていたかもしれない。
そう思うこともある。
試行錯誤の末、カルディアはようやく納得がいったのか、無言で見つめていたシジフォスを振り返り得意そうにふんぞり返った。
「シジフォス、ハッピーバースデイ!」
「……何を言っている?」
「外だとこうやって祝うんだと。」
まるで他人事のように言うカルディアだが、サーシャ同様、外部で生まれ育ったはずだ。
発言の真意を汲み切れず困惑するシジフォスに、カルディアは笑いながら言った。
「俺は祝われたことなんかなかったからなあ。」
カルディアにしてみれば、単なる事実を告げただけに違いない。それがわかればこそ、シジフォスは何も言わなかった。哀れみを寄せつけない強さを示すカルディアが好ましかった。
「あ、あとこれ、サーシャから!明日正式に祝うから、傷まない内に、俺から渡しておいてくれって。」
そう言って、カルディアが押しつけてきたのは小さな四角い箱だった。そういえば、外部では生まれた日にケーキを食べて祝うというから、菓子の類かもしれない。
「…では、今日の外出は、」
「お前の誕生日プレゼントを買うのに付き合わされたんだよ。お前、明日はその暗い顔なんとかしろよ。サーシャが凹むぞ。」
「当然だ。お前に言われるまでもない。」
簡易に施されたリボンに小さな紙片が挟んであるのを見て取ったシジフォスは、包装を崩さないよう慎重に紙片を引っ張り出した。聖域で好んで用いられる紙を8分割に切り分けたもののようだ。アテナが挟んだのだろうか。
開いてみると、そこにはたどたどしい字で小さく、シジフォスへの祝いの言葉とプレゼントの内容物が書かれていた。シジフォスは、幼い女神はどこまで勘付いていらっしゃるのだろうと密かに瞑目した。
「カルディア、お前は自分が…、」
「ん?何か言ったか?」
「…いや、何でもない。」
アテナの信頼を勝ち得ているカルディアがひどく妬ましい一方、カルディアに心を許されているアテナがこのうえなく羨ましかった。
もしかすると、そう感じること自体が的外れなことなのかもしれない。黄金聖闘士がアテナに忠誠を誓いすべてを捧げるのは、いたって当然のことだ。それに、表現は違えどみなにひとしく愛を注ぐアテナの寵を相争うなど、ばかばかしい限りだった。
理性では、わかっては、いた。
シジフォスは紙片をリボンの下に押し込め直すと、何も知らない様子の「プレゼント」を頂戴すべく腕を伸ばした。
そうして、己の腕の中で猫が咽喉を鳴らす未来を思った。
初掲載 2013年3月20日