夏の暮れ、一人の男がカノン島に降り立った。暮れゆく夏空を思わせる髪に、真紅の瞳を持つ印象的な男だ。ひょうひょうとして人物像の掴めない反面、騒々しいほど華やかな雰囲気の持ち主でもあった。
「…ったく、面倒臭い仕事引き受けちまったな。」
男――蠍座の黄金聖闘士カルディアは面倒臭そうに頭を掻き、背後を振り返った。一面広がる海は美しい色をしている。島中を覆い尽くす物々しい空気とは大違いだ。先ほどまでカルディアが揺られていた船は、とっくに引き返してしまっている。カルディアは肩を竦め、足元に置いていた箱型の聖衣の紐を掴むと、肩に担ぎ歩き出した。
辿り着いた村は、死んだように静まり返っていた。この調子では、夜分に面白いことなど期待するだけ無駄だろう。
カルディアは宿を取るべきか逡巡してから、村に背を向けた。村に宿泊したところで、面白いことなどなさそうだ。第一、排他的な空気を持つ村人たちが外からやって来たカルディアを受け入れるとも思えなかった。
「つまんねえの。」
教皇との賭けに負けたのが運のつきだ。酔った勢いで食ってかかるのではなかったと後悔するも、もう遅い。師匠の勝利を勝ち誇るマニゴルドの言葉も、カルディアの高いプライドを刺激した。カルディアは頭に来た。
とはいっても、敗北は覆らない事実だ。
カルディアは唇を尖らせ、道端の石ころを蹴り飛ばした。
「絶対何か仕掛けてあったんだぜ。でなきゃ、この俺が負けるもんか!」
その負け惜しみは、誰の耳に届くこともなく消えた。
カノン島の鬼の存在が人々の口端に上るようになったのは、この一年余りのことである。嘆かわしいことに、偵察に来た青銅聖闘士はことごとく逃げ帰って来ていた。村人の話では、鬼は死人では飽き足らず、生きた人の肉を喰らうらしい。まさか聖闘士が噂如きに怯んだはずもないので、それなりの理由があっての敗走なのだろう。そうでなければ、青銅聖闘士とはいえ、曲がりなりにも聖闘士が敵に背を向けるはずがない。
黄金聖闘士である自分が青銅聖闘士の尻拭いをさせられることに不満はあったものの、同時に、カルディアは期待してもいた。ここにこそ、自分が命を燃やし尽くせる相手がいるのではないか。
わざわざ教皇が黄金聖闘士を指定するくらいだ。
「今度こそ、俺の心臓を燃やせると良いんだけどな。」
いつの間にか、空には満月が光り輝いていた。実に良い夜だった。辺りを騒がせていた烏の鳴き声も止み、打てば響くような静寂が支配していた。
広場に出たミカルディアは鼻歌まじりに聖衣を地面に置き、藪を睨みつけた。
「そこにいるんだろ?カノン島の鬼さんよぉ!」
ぞわりと背筋が震えた。カルディアは爛々と光る目で、押し殺された小宇宙を手繰った。獰猛な小宇宙は、手懐けられることを良しとしない獣のそれのようだ。
カルディアの視線を真っ向から受けて、がさりと茂みを掻き分け、男が現れた。カルディアは口笛を吹いた。カノン島の鬼は、陽に焼けた浅黒い肌に精悍な面立ちの美しい男だった。深海を思わせる眼はいぶかるように細められている。気のせいか、どこかで知っているような気がした。
疑問を抱けば、すぐ解消しようとするのがカルディアだ。気後れするような性質でもない。カルディアはつかつか男へ歩み寄ると、近距離まで顔を近づけ、まじまじと男の顔を眺めた。不躾な視線だった。
「…何か、お前の顔、見たことあるような…???」
男の顔色が変わった。狼狽とも苦渋とも取れる表情を見せた男に、しかし、鈍感なカルディアは気付かなかったのか肩を竦め、やれやれと嘆息した。瞬く間に移り変わる表情は、万華鏡のようだ。カルディアは不満そうに唇を曲げ、男を睨みつけた。
「ま、良いや。思い出せないってことはどうせ大したことないんだろ。せっかく喜び勇んで来てみりゃその小宇宙…聖闘士かよ。つまんねえな。今度こそ、運命の相手だと思ってたのによ!」
理不尽な暴言に、さすがの男も腹が立ったらしい。きつく睨みつけて来る男へ、カルディアも挑発的に睨み返した。不穏な小宇宙に、羽根を休めていた蝙蝠が一斉に飛び立ち、月を覆い隠した。
これが、カルディアとカノン島の鬼との初遭遇だった。
「またそんなことしてんのか?」
溶岩の中に佇む男へ、カルディアは林檎を食みながら、呆れて問いかけた。
カノン島を訪れてから、八日が経とうとしていた。
カルディアの任期は十日だ。それまでは聖域に意地でも帰らないと公言した手前、カルディアは退屈な時間を持て余す羽目になっていた。それもこれも、眼前の男がカルディアを構わないせいだ。カルディアは左手に持っていた林檎を勢いよく男へ投げつけた。
「何だこれは。」
「お前にもやるよ。言っておくが、俺がこんなに優しくしてやることは滅多にないんだからな!」
男はカルディアの気紛れが解せないらしく、僅かに首を捻った。最も、長い付き合いのデジェルでも戸惑うカルディアの変心に付いてくることの出来るものの方が少ない。林檎とカルディアを交互に見ていた男は、無言で林檎を食べているカルディアを問い質した。
「お前はどうしてここに来た?」
「教皇の命だよ。でなきゃ、誰がこんなつまんないとこに来るもんか。」
カルディアは芯だけになった林檎を溶岩へ放り捨てた。じゅっと焦げる音と共に煙が立ち上った。見せかけでない、本物の溶岩なのだ。内心、カルディアは溶岩に身を投じる男の小宇宙の制御の精密さに舌を巻きながら、林檎を齧る男に問いかけた。
「なあなあ、この辺に竜とかいないのか?封じられた神でも良い。俺を熱くする相手を紹介してくれよ。」
呆れ交じりに、男が言う。
「なぜ、それほど生き急ごうとする?お前は黄金聖闘士なのだろう。聖戦も間近だと聞く。もう少し落ち着いたらどうだ。」
まるでシジフォスのような説教を垂れる男の目に一縷の切望を認めて、カルディアは岩に背を預けた。何かが男を絶望に繋ぎ止めていた。それが何であるのか、カルディアには解らない。だが、カルディアは直感で、この男にならば自分の秘密を打ち明けても良いと判断した。
「ずっと、俺は探しているんだ。俺の心臓に火をつける相手を。」
カルディアはそう言いながら、左胸を指し示した。唇には自然と自嘲の笑みがのぼった。
「延命をかねて、心臓に禁忌の技をほどこしたんだ。」
天の蠍を地上に繋ぎ止める火の呪いだった。
これまで、どれだけ自分の病を恨んだかわからない。そして、どれだけ、この運命に感謝したかも。
いつになくたそがれるカルディアへ、男が呟いた。
「アテナの秘術か…。」
「何だ、知ってるなら話は早い。」
カルディアは眼を見開いてから、にっと笑った。一転して、人好きのする笑みだった。それでいながら、どこか、確実に命を奪う毒にも似た心臓に悪い笑みだった。滴るような色香があった。思わず動揺する男へ面白がる眼差しを向けると、カルディアは岩から背を離し、一歩、歩み寄った。
「命にはリミットがあるんだ!」
また一歩。
「未来があるとは限らない。」
もう一歩。
「だったら俺はこの命、自分の選んだ場所で使い切る!!」
吐息がかかる位置まで近付いたカルディアは、男へ笑いかけた。カルディアにしては珍しく寂寥の漂う、切羽詰まった笑みだった。男が拳を握り締める。カルディアは視界の端でその事実を認めながら、男に囁いた。
「…お前ならわかるんじゃないか?俺は早く自分を全力で使い切りたい。その前に全部感じたい。痛みも燃焼も。」
男の目は強い意志で燃え盛っている。出逢ったばかりのサーシャのように哀しい目をしていると思ったのは、勘違いだったのかもしれない。本当に良い目だ。カルディアは男に体を預けた。
暇だったから、とは言わない。男に体を許すなんて、虫唾が走る。
ただ、どうしても理由が必要ならば、そう、興に乗ったからだ。
心臓が燃えていた。
「聖闘士なら戦いの中で。」
唇からこぼれた宣言は、このときばかりは言い訳にしかならなかった。男に腰を引き寄せられ、カルディアはぞくぞくした。強引に重ねられた唇は林檎の味がした。
地面に身を横たえ、乱暴に衣服を脱がせ合った。もともと相手は引き締まった上半身を晒しているし、カルディアも大して着込んでいるわけではなかったので、瞬く間の出来事だった。
お世辞にも、岩石の上は良いベッドとは言えなかった。力任せに押しつけられたカルディアの背中は、ひりひり痛んだ。それでも、こんな場所で男に犯されようとしている事実が妙にカルディアの心は昂揚した。
「はは、はっ!お前、本当に面白いな!」
「お前に言われたくはない。」
眦に涙を浮かべて笑いこけるカルディアに、憮然と男が返す。カルディアはひーひー肩で息吐きながら、男の首へ腕を回しかけ、むっと不満に唇を尖らせた。
「お前、もしかして俺より体格良くないか?何でお前の方が俺より体格良いんだよ。ずるいだろ。」
そう言いながら無遠慮に体中触って来るカルディアの手を退け、男は溜め息をこぼした。出逢って八日になるが、カルディアの考えていることはよくわからなかった。
右手を掴みあげたまま、膝で割引いた脚の付け根を探る。性急なのではないかという自覚はあったが、初めてなので勝手もわからない。男は自分のしたいようにすることにした。
唾液でたっぷり濡らした人差し指でくすぐると、カルディアの肩が震えた。
「何か、そこ…、っ、やっぱ止めろ!なし!なし!!」
「…ここまで煽っておいて逃げるのか。それは卑怯というものだろう。」
カルディアがもがいて拘束を逃れようとする。だが、小宇宙でも体格でも引けを取らない男の手にかかっては、囚われの鳥も同然だ。男はカルディアの首元に歯を立てて、抵抗を捩じ伏せると、カルディアの中へ指を差し入れた。カルディアの眉根が寄る。意に介さず指を前後に動かすと、じたばた暴れていた足が僅かに痙攣した。
「お前、絶対、覚えてろよ…!」
ふうふう荒い息を吐きながら吐き捨てるカルディアは、手負いの獣を思わせる。
「忘れてたまるか。」
片目できつく睨みつけて来るカルディアの額にキスを落とし、男は満足気に咽喉を鳴らした。
「全部感じたいと言ったのはお前だろう?痛みも、燃焼も。」
カルディアの中は熱い。熱に浮かされたようだ。
「お前も忘れるな。俺のことを。」
男はカルディアの委縮するものをしごいてやりながら、足を大きく開かせ、腰を落としていった。カルディアに眉間に深いしわざ刻まれる。
同時に背へ回された腕に、男の胸に温かな想いが広がった。久しく覚えていなかった感情だった。大事な片割れを喪失してから、初めてのことだ。
男は痛みに引き攣る咽喉を殺し、唇をかみしめた。
もう二度と、そのような感情を覚えることはないと思っていた。
自分には、そのような感情を覚える資格などないと思っていた。
「…何だ、お前。泣いてんの?泣きたいのは俺の方だよ、男に掘られてさあ…。」
呆れた調子で、男の眦の涙をカルディアが親指の腹で拭った。痛みをこらえるように、カルディアの胸は激しく上下している。それでも、カルディアの唇には余裕がこびりついていた。自嘲にほど近い、からかうような、皮肉るような、哀れむような笑みだった。
常に死と背中合わせだからこそ、これほどまでに輝くのだろう。
男はカルディアの身体を掻き抱くと、衝動に身を任せた。蠍が身内に孕んだ毒で、この身は焼け爛れそうだ。揺さぶられるのに合わせて、カルディアのあられもない嬌声が響き渡った。
「カルディア…っ。」
切羽詰まった男の呼び声に、カルディアの背が反り返った。
背に思い切り爪を立てられ、痛みに男が呻く。
光が瞬いた。
「何をしている…?」
男は全裸で胡坐を掻き、荷物をまとめているカルディアを訝るように見た。
「何って…帰る準備?」
素っ気ない返答に怒りよりも脱力が勝った。無言で先を促す男に、カルディアは屈託なく言い訳を口にした。
「いつまでこんなとこにいられるはずないだろ?」
あれから今日までの間に、幾度体を重ねたかわからない相手に対して、ずいぶんと冷淡な返事だ。男は不服げに顔をしかめてから、溜め息をこぼした。だが、このような男だからこそ、男もカルディアに惹かれたのだろう。もともと、任務も十日間という話だった。カルディアを咎め立てするのは間違っている。
執着すれば、聖戦を迎えるのが辛くなるだけだ。
荷造りを終え、服をまとい、立ち上がったカルディアに、男は僅かに唇を綻ばせて、頬へ指先を這わせた。ぎこちない笑みだった。
「俺を俺として扱うお前に、俺がどれだけ救われたか、お前は知らないだろう。」
「はっ!そういうのは他所でやれよ。俺の柄じゃない。」
カルディアは頭を振って男の指から逃れると、少し寂しげに呟いた。
「お前とは、もう二度と会うこともないかもな。」
「…それが聖闘士だからな。」
沈黙を振り払うように、カルディアが言う。いつもの明るい調子だった。
「まあ、来世で会えるだろうさ。お前も俺も、本当の聖闘士なら、な。良く知らないが、輪廻ってそういうもんなんだろ?」
にっと笑いかけてくるカルディアへ、男も微笑を返した。今度は心からの笑みだった。
カルディアがいなくなれば、束の間忘れていた孤独を痛切に感じることになるだろう。だが、それでも良いような気がしていた。カルディアを無理矢理この島に留め置くことはできる。かつて、兄が己にしたような真似を施せば。しかし、カルディアは自由だからこそ、カルディアなのだ。唯一の碇は、聖域だ。黄金聖闘士たる誇りだ。それ以上、心を繋ぎ止めるものがあれば、カルディアは淀んで変質してしまうに違いなかった。
男の優しい眼差しに、カルディアが満足気に目を眇め、男に触れるだけのキスをした。別れのキスだった。
その後、せめて海岸まで送ろうかという男の気遣いを、カルディアは一蹴した。
「そういうしんみりした空気、好きじゃねえんだよ。わかるだろ?」
そう言いながら、カルディアは地面に置いていた聖衣の紐を肩にかけた。太陽の日差しに、夏空色の髪が輝いた。寂寥を覚える男の胸を手で軽く叩いてから、カルディアは歩き出した。逆光で、カルディアの表情はわからなかった。カルディアが大声で叫んだ。
「じゃあな、デフテロス!お前も早く来いよな!!」
大きく手を振って遠ざかっていくカルディアの一言に、デフテロスは大きく目を見開いてから、満足そうに眇め、小さく顔を俯かせた。
「何だ、俺の名前を知っていたのか。」
では、本当にカルディアは、デフテロスのことをデフテロスとして扱っていたのだ。
アスプロスの影ではない、デフテロスとして。
当初は強くいぶかしんでいた教皇の真意が、今更ながらに身にしみた。デフテロスは自然と緩む唇をわななかせ、こぼれ落ちる涙を拭った。
心を占めていた孤独は、いつの間にか、消失していた。
初掲載 2012年11月25日