クリームナイト


 トリックオアトリートという言葉がある。ハロウィンの際に用いられる常套句で、「お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ」と訳されるパターンが多いようだ。
 カノンは骨を模ったビスケットにアイシングを施しながら、ちらりと、居間のソファで丸くなっている恋人を一瞥した。
 ミロは護衛任務の間にアテナから入れ知恵されたらしく、ここ数日落ち着きに欠けていた。もともと世間知らずで純真なミロは子供っぽいところが多分にあるため、一度好奇心を駆られるととことんまで追求しないと気がすまない恋人の性格を十分知悉しているカノンは、そんなミロのために、こうして菓子作りに精を出しているわけだが、ふいに、夜の恋人の艶姿を思い出してしまい、今更のように悪戯への未練を覚え、視線を投げかけたわけである。
 むろん、年下の恋人を目に入れても痛くないほど可愛がっているカノンには、菓子をやらないなどという仕打ちは出来なかった。ミロの食い意地が張っていることは、同僚のうちでは有名な話である。だいたい、カノンがこうしてミロといちゃついているのも、もとを辿れば、警戒心の強い蠍の餌づけに成功し、キッチン通いを許されたのがきっかけだ。その後、天蠍宮へ入り浸っているうちに、カノンの方から仕掛けて、そういうことになったわけである。
 カノンは奔放に乱れる夜の蠍を脳裏に思い浮かべながら、じっと、菓子を睨みつけた。
 せっかく作ったのだし、菓子はくれてやりたい。
 だが、ぜひとも、悪戯もしたい。
 カノンは明らかに無駄と判断されるだけの時間、菓子と悪戯、どちらを選択すべきか葛藤すると、エプロンを脱ぎ捨て、出来あがったばかりの菓子を手にミロの元へ向かった。
 「…カノン、いい匂いがする。」
 ビスケットの香りに胃袋を刺激されたのか、寝ぼけ眼をこすりながらミロが言う。ビスケットの他にも、かぼちゃを丸ごと使ったパンプキンパイや生クリームたっぷりのブラウニーを用意したので、そちらに気を取られた可能性もあった。
 寝起きのせいでいつも以上にあどけなさの残るミロの声を耳にするたび、カノンはまるで幼子を手篭めにしてしまったかのような背徳感を覚え、ぞくぞくしてしまうのだが、それは余談である。
 カノンはミロが抱きついてくるに任せ、髪を梳いてやりながら、そっとつむじに唇を押しつけた。もともともやもやしていたところに、事後のあまったるい雰囲気を彷彿とさせるこの状況で、カノンの理性はサスペンスドラマで断崖の絶壁にいる真犯人もかくやという状態だった。こういうときは、犯人であることを暴かれる前に、自白するのが吉である。
 「ミロ、トリックオアトリート…と、言いたいところだが。」
 「んー…?」
 「お前が望むだけ菓子をやるから、悪戯させてくれ。」
 そう言って、カノンがいつにない真剣な顔つきで顔を覗き込むと、ミロは目をぱちくりさせ、カノンをまじまじと凝視した。夢うつつを行きかっていた目に理性の色が強く灯る。ミロは再度長い睫毛を瞬かせると、何か言いたそうに口を開いたが、あまりに真剣な表情の恋人に気がとがめたのか、困惑交じりに頷いてみせた。
 「じゃあ、良いんだな?」
 「…男に二言はない。好きにするが良い。」
 舌足らずな部分の消えた口調から、ミロがすっかり目覚めた事実がうかがい知れる。これならば、あれは寝言だったのだとあとで文句を言われることもないはずだ。
 カノンは、さてどうしてくれようかとわくわくしながら、ミロから身体を離した。少しアルコールを摂取しておいた方が、ミロも早々に自制心を失って乱れてくれることだろう。もちろん、素面で生真面目で性的な部分を一切感じさせない潔癖なミロから、その手練手管で理性を剥ぎ取り正気を失わせるのもとてもやりがいのある作業なのだが、今回は、最初から本能のまま思いっきり乱れてくれる方を選んだわけである。
 そんなとき、うきうきするカノンの耳にミロの独り言が届いた。
 「別に、今日に限らなくとも。」
 当然、カノンにしてみれば聞き捨てならない台詞だ。素で驚いたカノンは、考えるより先にミロの双肩を強く掴んでいた。ブラウニーを食べていたミロが、びくりと肩を跳ねさせた。
 「良いのか?!」
 よほど、切羽詰まった顔をしていたに違いない。ミロは困惑しきった様子で眉根を寄せながらも、カノンの目を真正面から見据えた。呆れ交じりの、だが、温かな眼差しだった。
 「え、何だ?良くない理由でもあるのか…?…お前の考えることは良くわからん。」
 続けて、指についた生クリームを舐めとりながら、首をかしげつつミロが言う。
 「大体、それではいつもと変わらんではないか。」
 確かに、そういえば、そうだった。
 指摘された事実に愕然とするカノンの様子にミロは小首を傾げると、ふいに唇を吊り上げ、カノンの首へ腕を絡めて引き寄せた。いつも受け身に回っているとはいえ、そこは、腐っても黄金聖闘士である。いぶかしむ間もなくカノンは押し倒され、ミロに馬乗りになられていた。
 こぼれおちた金色の髪が、カノンの胸にかかる。かすかに上下する胸と、仄かに届く体臭にカノンの頭はくらくらした。ときおりミロはカノンの上で愉しげに跳ねたが、今の姿勢はまさしくそのときのものだった。そういうときのミロは、理性の欠片もなく、一心不乱に快楽だけを貪っていて、まったく手に負えなくて、むちゃくちゃかわいいのである。ただし、それも、ミロが正気を失ったときの話で、アルコールで撃沈間際か、カノンが焦らしすぎたあまりプッツンしたときに限られることは、カノンとしても承知している。
 どぎまぎして問いかけようとするカノンを、ミロはその唇へ人差し指を押し当てて黙らせると、真夏の太陽を思わせる晴れやかな笑みを浮かべた。
 「せっかくだから、たまには俺に悪戯されておけ。」
 ミロの手が思わしげにカノンのものに触れた。湛えられた笑みとは裏腹な、滴り落ちるほどの色香を感じさせる手つきだった。深く重ねられた唇は、ブラウニーの味がした。
 ちっとも夜を彷彿とさせないその笑みに虚をつかれたカノンは、その後、自分の仕込んだ技術で存分愉しまされることとなる。
 ちなみに、その晩、カノンの作ったブラウニーから生クリームだけきれいに拭いとられたことと、後日、カノンが大量に生クリームを買ってきてミロを呆れ返らせたのは、余談である。











初掲載 2013年4月7日