darker than night,shine than flame   天使と悪魔パラレル


 カノンがミロに魅入られたのは、月の綺麗な晩のことだった。十七世紀初頭のことである。
 浜辺を歩いていたカノンは、ふいに視線を感じて立ち止まった。
 世間を海賊がにぎわせている時代、しかも近隣では密輸に用いられることで知られる秘密の埠頭だったが、この日は異教の祭で重んじられる夜であったため、静寂だけが満ちていた。今ごろ人々は、ベラドンナが見せる幻覚に惑わされていることだろう。いわゆる、魔女の儀式であった。
 そのため、カノンは視線を感じる事実が解せず、立ち止ったわけだが、岩場に腰をかけ愉しそうにこちらを眺めている人影を見つけ、眉根を寄せた。この晩、月光の魔力に恐れをなしたように海は凪いでいた。しかし、並みの人間が船もなしに岩場へ辿りつけるほど平静を装っているわけでもない。
 セイレーンか、マーメイドか。
 落ちる影のせいで顔を窺い知ることはできないが、金色の月光を弾く髪は、洞穴にため込まれた悪竜の金貨を思わせた。妙に胸を騒がせる怪しい色を伴う、危険な金色だ。あの髪を手に入れるためならば、世の女たちは命すら惜しまないだろう。
 すんなりした足が戯れる子供のように海面を掻いている。どうやらマーメイドではないらしい、と見当をつけたカノンは、未だまつわりつく視線に辟易して舌打ちをこぼした。
 「大天使が珍しい。どういったわけでここにいる。」
 強烈な毒のように甘く腑を焼く声だった。人間の娘たちはこぞって、寵愛を得んと身を投げ出すことだろう。悪魔ですら、名を呼ばれれば唯々諾々と従ってしまうかもしれない。
 悪魔の魅力は、魔力に応じる。強ければ強いほどその魅力は増し、魂を惹きつける。天使長を双子の兄に持つカノンがこれだけ惹きつけられるのだ。さぞ名のある悪魔に違いない。
 だが、謀反の咎で天界を追われたカノンは、罰として土塊の肉体に封じられている。神を無二と崇め、アガペー以外を知らない天使が、このように胸を掻き乱されることなど皆無に等しい。エロスは堕天の前兆だ。
 これだけ惹きつけられる要因は、あれほど唾棄した人間に近付きつつあるせいかもしれないという可能性に思い至り、カノンは唇を噛んだ。土塊の肉体に感化され、魂までもが堕落しつつあるのだ。苛立ちに声が尖った。
 「どうでも良いだろう。何故、答えねばならん。」
 「確かに、そのとおりだ。理由はどうでも良い。」
 「ならばさっさと立ち去れ。お前に用はない。」
 拒絶を露わに吐き捨てると、くぐもった笑い声が響いた。人影はくつくつ笑いを噛み殺しながら岩場を飛び降りると、重力を感じさせない悪魔特有の不可思議な足取りで、憮然としているカノンに近付いてきた。
 「そうつれないことを言うな。もう少しだけ傍に居させてくれ。」
 冴え冴えとした月明かりが、悪魔の顔を照らした。ギリシャ的な欠点のない面立ちだった。癇の強さを思わせる吊りあがり気味の眼の中心には、凝らせた血を浮かべたサファイアがはめ込まれている。まるで血で穢された清廉な泉のようだ。
 悪魔の美貌に、知らず、カノンは息を飲んでいた。怪しい胸騒ぎを覚えた。悪魔はひとしきり笑い続けると、他愛なく蹂躙する子供の無邪気さでカノンに告げた。
 「たまには地上に降りるものだな。お前ほど美しいものを、俺は見たことがない。」
 生温い潮風が頬を撫でた。ここ数年で慣れ親しんだ風だった。だが、はじめて、カノンは風というものを感じたように思えた。堕天して以来、精彩に欠いていた世界が色を取り戻した。それはかつて安堵を覚えたものと異なり、金色に彩られた原色の目まぐるしい世界だった。悪魔の跋扈する闇の世界だ。
 ふいに、カノンは腹の底から嗤いたい衝動に駆られた。カノンは嗤った。未練がましく天へしがみついていたことを自覚しての嘲笑だった。神の殺害を目論見、自分が神に成り代わらんと欲しながらも、誰よりも神の寵愛を求めていたエゴに対する嘲笑だった。
 「美しいなどと言われたのははじめてだ。」
 天界において、カノンはサガのスペアでしかなかった。賛美はすべてサガへの供物であった。カノンが伸べた手を頬へ当てると、悪魔は満足気に眼を眇めて笑い返した。


 悪魔の名は、ミロと言った。七体いる大公の一人で、当代の「色欲」を司る大公だ。天使と同じく焔――だが、光の象徴である聖なる焔ではなく、猛毒に穢れた悪食の焔だ――より生じ、充足を求めて常に渇え、また、色欲の体現者でありながら、潔癖で知られる傑物でもあった。
 天使とは決して相容れぬ存在と知りながら、カノンがその手を取ったのは、否応なしに惹きつけるミロの魅力のせいだった。美しい、とはじめて自己を肯定されたためかもしれない。後付けで良いのならば、理由はいくらでも考えられた。
 思えば、カノンはこの世界に創造されて以来、自己否定の連続だった。事あるごとにサガと比べられ、サガが讃えられるたび、カノンは破綻の瀬戸際に立たされた。所詮、スペアでしかないのだと思い知らされるたびに、カノンはどれだけサガを妬んだことだろう。サガに何の落ち度もないことは承知しているにもかかわらず、恨まずにおれなかった状況を呪い、神を怨んだ。
 今のカノンにわかることは、その結果がミロとの出逢いであるならば、カノンは何度でも堕天の苦しみを味わうだろうということだけである。
 無論、出逢ったばかりの悪魔にこれほど心惹かれるなど、自分でもおかしな状況だと理解している。カノンは胸の内を明かさず、ミロに手招かれるまま、地獄へと下っていった。
 連れて行かれたのは、地獄の所領にある屋敷の正餐室だった。絢爛な屋敷は邸内を彩る煌びやかな宝玉や名画だけが存在感を放ち、閑散としていたが、客人のいないときには、勝手に居着いたゴーストやリャナンシーで賑わうこともあるらしい。卓には、血のように紅いワインと屋敷に違わず豪奢な食事が用意されていた。
 カノンはワインを味わいながら、本来人間を惑わせて伴侶とするリャナンシーの末路に己の未来を重ねて、低く笑声を漏らした。これからどうなるのか予測もつかないが、不思議と不安は覚えなかった。眼前で泰然とワイングラスを傾けるミロのせいだろう。
 ミロはそんなカノンを無言で見つめていたが、眼を眇めると、赤い金で飾りつけられた椅子の肘掛を爪先で叩いた。
 「どうも、お前は眩しくていけない。お前を見ていると頭がくらくらする。」
 「俺が?何かの間違いだろう。」
 道中、自分が神に成り代わろうとして失敗し、土塊の肉体に封じ込められ、かつて生きたメトセラと同じだけの時間を無力な人間として過ごす罰を与えられたことは打ち明けてあった。いずれはばれることだ。天界にあっては人間の生など瞬き一つの時間に過ぎないが、あれほど唾棄した人間となって無為に過ごす時間はかなりの苦痛だった。
 渋い顔をするカノンへ、ミロは首を傾げてみせた。
 「何故、お前は堕とされたのだろう。そんなにも眩しく、美しいのに。だが、こうして、俺の手に堕ちてきたのは僥倖だった。」
 あどけない仕草にも婀娜っぽさがある。唇からちらりと赤い舌が覗いた。カノンはミロからワイングラスを取り上げると、赤い唇に自分のそれを重ねた。当然、これまで嫌悪してきた人間の真似事などはじめてのことだったが、首に腕が絡められ、わずかに開かれた唇から舌を招かれたとき、カノンは間違っていないのだという確信を持てた。ミロの持つ強烈な毒に舌が痺れ、痛みを覚えても、中断する気にはなれなかった。カノンにとって、ミロによってもたらされる激痛は甘美ですらあった。
 「ベッドへ行かないか?」
 頬を上気させたミロが挑発的に言う。今や、サファイアの中の血はきらきらと輝き、夏空を彩るアンタレスのようだ。それは強烈に魂を捉えて離さない闇の光だった。光の中で生きてきたカノンは、未だかつて、このように美しい光を見たことがなかった。闇の中にあるからこそ、光は映えるのか。
 ミロの手が催促するようにカノンの背を掻いた。もう戻れないことを知りながら、カノンは最後の柵を踏み越えた。


 可笑しな話だが、色欲の体現者でありながら、カノンと通じるまでミロには経験がなかった。潔癖だという噂は本当だった。行為の最中にその事実をまざまざと見せつけられ、カノンの胸は熱くなった。ミロの放つ毒のせいばかりとは言えない、腹の底から込み上げる昂揚だった。
 カノンとミロの蜜月は完全に満たされていた。互いに互いだけを求め、他のものなどまったく眼中に入らなかった。昼夜を問わず、幾度となく交わった。惰弱なカノンの人間の肉体がミロの毒に耐えきれず、幾度となく喀血しては呼吸困難に陥りかけることが間々あった。そんなカノンへ、ミロが髪を梳きながら温かな眼差しを向けた。首へ腕を絡め、血で濡れた唇でキスを強請ると、困ったように微笑むミロの表情をカノンは気に入っていた。身体は確実に毒に蝕まれつつあったが、カノンは気にしなかった。
 寝物語に、ミロは収集した人間の魂を見せることがあった。聖職者であったペリドットのようなものもあれば、純真無垢なダイヤモンドや、貞節の証であるエメラルドを思わせるものもあった。それらの魂に共通して言えることは、生前は大司教や教皇ほどの清廉な魂であったことと、凝らされた血のような真紅が烙印となって残されていることだ。ミロの色だ。カノンは、魂において紅は狂気の証であることを知っていた。最初から狂気に陥っているものが、これほど美しい魂を持ちえるはずがない。彼らはみな、ミロの毒に侵され、ミロの愛に渇え、精神を病んで亡くなったのだろう。想像に難くなかった。
 「カミュは、子どもの魂を集めるのが好きなんだ。」
 ふいに口火を切ったミロに、カノンは重い瞼を上げた。
 「カミュ…?」
 「七大公の一人、「嫉妬」のカミュだ。俺の親友でもある。あいつは優しいから、無垢な子どもが大人になるにつれ穢れていくことが許せないそうだ。」
 「俺の前で他のものの話をするな。」
 「そう嫉妬するな。あいつと俺は言葉通り水と火の仲、相容れぬ本性ゆえ触れあっただけで消滅してしまう。お前が嫉妬するようなことは何一つないぞ。」
 愛人の見当違いな嫉妬をくすぐったく笑ってみせながら、ミロは身をかがめて、カノンに口づけを与えた。死の口づけだった。
 「この調子では、お前は瞬く間に死んでしまいそうだな。」
 口内に血の味が広がり、熱心なキスの合間にミロがそっと呟いた。哀しみに彩られた声に仄かに灯るのは、独占欲だろうか。誰にも奪わせないために自分の手で壊す子供の残酷さだ。だが、カノンはそれで良いと思った。ミロのためならば命すら惜しくなかった。ミロによって生きる意味を与えられたのだから、ミロに摘み取られる命でも悪くないと思ったのだ。
 自分の魂はどれだけ紅く染まっているのだろう。
 激痛のうちにミロを求め、享楽を愉しみながら、カノンは胸中で密かに嗤った。神が予想だにしなかったであろう冒涜に、快哉をあげたくなった。


 血の味のキスに酔い痴れる。今では勝手知ったる身体を、カノンは飽くなき探求心でがむしゃらに求めた。手放しの嬌声をあげて悦ぶミロを見ると、カノンはそれだけで生の意味を思い知らされた。
 ミロと過ごした時間はひどく長く感じられたが、おそらく、瞬き一つのことだったのだろう。
 開幕同様、幕切れも唐突で呆気なかった。
 血反吐を吐くカノンの咽喉からひゅーひゅーと嫌な音が漏れた。ミロはいつものようにカノンの髪を梳きながら温かな眼差しを向けていた。身体が毒に蝕まれ、もはや再起不能なことは明白だった。このときになってはじめて、カノンは痛烈な喜悦の陰に仄暗い恐怖を感じた。ミロのものになる喜悦と、ミロと離別することへの恐怖だった。ミロが誰かのものになるかもしれないという絶望だった。
 首へ腕を絡め、血で濡れた唇でキスを強請ると、ミロは困ったように微笑むのが常であったが、今回ばかりは違った。ミロはうっとりと目を細めると、閨で見せる感極まる寸前の表情で、カノンの最後の呼気すら奪おうとするかのように熱心に舌を絡めた。蕩けきった顔つきのミロに胸が熱くなり、促されるまま裡へ放った瞬間、カノンは自分が終えたのを覚った。


 次に目覚めたとき、隣には変わらずミロの姿があった。
 あれほど毒に蝕まれていた身体は、天界に居た頃のように力に満ちていた。カノンは健やかな己の肉体をぼんやり眺めながら、膝の上に頭を預け、夢心地に頬を綻ばせているミロの髪を梳いた。そうしているうちに、次第にクリアになっていく頭で、土塊の肉体を棄てたことで神の頸木から放たれたのだと気付いた。
 「おはよう、カノン。」
 クリームを与えられた猫のように幸せに満ち足りた顔で、ミロが微笑む。それまで、カノンは死に面して感じた痛烈な恋情を伝えたい気持ちに駆られていたが、恋人の満足気な笑顔を見た途端にどうでも良くなってしまい、身をかがめて甘いキスを施した。
 「…ただいま。」
 「フフ、おかえり。」
 ミロが腕を伸べて先を強請って来る。カノンは心持ち口角を上げると、散々気を揉まされた意趣返しに、恋人を快楽で苛むことに決めた。願ったり叶ったりの展開にミロの笑声が響いた。
 どうも、自分と同じくらい嫉妬深い恋人はカノンが神に帰属する事実が許せなかったらしい、と知ったのはそれから一世紀後のことである。地上がたった一人のフランス人によってもたらされた混迷に喘いでいるとき、ミロに促されたカノンは大公の座を獲得すべく重い腰を上げ、「高慢」の座を勝ち取った際に紹介されたカミュの口から真相を聞かされたのだ。
 この一世紀でカノンはミロに嫉妬深い一面があることも承知していたが、夢にも思わなかった嬉しい事実に、自分以上に恋人のことを理解する人物を厭うべきなのか、親しくすべきなのか判断に窮した。そうしている間に、カノンの迷いを目敏く見抜いたミロに目で制され、有耶無耶のうちに、カノンはカミュとも親交を結ぶ羽目になった。風の噂だと、「嫉妬」の大公は親友に突如出来た恋人にひどくやきもきしているらしいので、お相子だろう。そう思わねばやってられない。
 そういうわけで、天界との飽くなき抗争や死んだ人間の使役に明け暮れながらも、光の差さない地獄で、カノンは未だかつてないほど満ち足りた日々を送っていた。カノンにとって無二の光はミロなのだから、神の威光が届こうが届くまいが、どうでも良いことだった。
 今宵も、地獄にため込まれた悪竜の黄金はカノンの腕の中で幸福にまどろんでいる。それだけが、カノンにとって意味を持つことだった。


 余談だが、カノンの魂にはミロの烙印である真紅は現れなかった。代わりに、ミロの猛毒に対する耐性が出来ていた。
 「蠍の形だ。」
 そう自慢げに囁いて、カノンの胸元に紅く凝った毒の跡へキスを降らせるミロに、カノンはいじましいくらいの愛情を覚えるのだった。











初掲載 2013年4月7日