聖戦から1年。
策を巡らせ甘言を弄し、それでも駄目ならばと土下座せんばかりに拝み倒し、どうにかミロとのお付き合いにこぎつけたカノンは、10日も経つと、ミロの縄張り意識がことのほか強いことに気づいた。
天蠍宮の私的空間への立ち入り許可が下りるまで半年もの月日が必要だったことを考えれば、それほど意外ではないのかもしれない。
しかし、天蠍宮の私的空間では、場所を問わずあれほど奔放に乱れるミロが、一歩外に出るや否や、黄金聖闘士らしい生真面目な顔をしてちょっかいを出すカノンをあしらうのである。
別に、不便はないと言えば、不便はないのだ。カノンがサガと同居中であるため双児宮で―それもカノンの寝室に限られる―事に及ぶ機会は少なく、たいていの場合天蠍宮が舞台となることから、特筆するほどの問題はないのである。
だが、カノンは何となく面白くなかった。
聖域がまだ混乱から完全に回復していない中、不謹慎かもしれないという危惧からミロとの関係は伏せているが、せめて、プライベートな時間くらいミロから黄金聖闘士の対面を奪えないものだろうか。
もともとめっぽう高い矜持に加えて、傍からすれば面倒なだけの年上の意地もあった。
そういうわけで、ミロの誕生日である11月8日も、カノンは良からぬ考えから恋人を双児宮に誘い出していた。
もちろん、表面上はいたって平穏な恋人たちの晩餐だ。
なぜ今回は双児宮が良いのか、という問いかけに対して、ミロを驚かせてやりたいから、というご大層な言い訳まであった。あくまで強気な姿勢で「お前のためだ」と囁きつつ耳朶を甘噛みすると、どぎまぎした様子を隠しきれずに耳を赤くする年下の恋人が、カノンは可愛くて仕方なかった。
そのため、策略と愛情から、カノンは今日のために腕によりをかけて作った料理をテーブルに並べ、食卓に双魚宮で半ば脅し取った薔薇を飾り、とびきりのシャンパンを開けていた。
カノンが指定したとおり、シャンパンゴールドのドレスを着てきたミロは、恋人のもてなしに心から感動した様子で目をきらきらさせていた。あの、真っ直ぐな賞賛の眼差しだ。ミロからこの目を向けられるたび、カノンは心からの愛情に打たれ、何でもできる気がするのである。
冥闘士が優勢と言われる冥界で、三巨頭のラダマンティス相手に聖衣なしで相打ちに持ち込んだことから、黄金聖闘士最強と名高いカノンだったが、カノンに言わせれば、この強さの源は恋人の愛だった。SNで赦しを与えられた瞬間、カノンは真っ逆さまに恋の闇に落ちていた。ミロのためを思えば、玉砕覚悟の自爆くらい何でもなかったのである。
カノンはミロを席までエスコートして座らせると、室内の灯りを消し、代わりにキャンドルを灯した。
「俺たちにはいささかロマンチックすぎるのではないか?」
そう言うミロの声は弾んでいる。
単純明快にできているミロは、奇をてらいすぎると不可解そうな顔つきになるが、ロマンチックとは程遠い環境で育ったためか、わかりやすい演出には弱い傾向にあった。
しかも、カノンの自惚れでなければ、めったに見ることのない恋人のタキシード姿に見惚れているようだ。
カノンは老若男女問わず魅了する極上の笑みを浮かべると、ミロの向かいに腰を下ろした。
欲を言えば、あまりに可愛い顔を見せるミロを食前のデザートに食べてしまいたいくらいだった。
だが、今回の目的はあくまでも別にあるのだ。
カノンは今しばらくはホスト役に徹することに決め、恋人に向かってシャンパングラスを掲げた。
「愛しいお前と二人きりで過ごせる幸運な夜に、乾杯。」
「…乾杯。」
カノンの台詞と臆面なく愛を語る眼差しに、ミロの目が気恥ずかしそうに伏せられた。不意打ちだった。それは、カノンが覆いかぶさると無意識に見せるベッドでの仕草だった。
カノンはわいた唾を呑みこんだ。官能とは無縁に生きてきたお堅い恋人の眦が涙に濡れ、いつもは勇ましく引き結ばれた唇からとりとめのない愛の言葉があふれ出る瞬間が待ち遠しかった。
今日は作戦がうまくいけば、いつも以上にミロは乱れてくれることだろう。
それがわかるからこそ、カノンの心は弾んだ。
「今日は、何をして過ごしていたんだ?」
ミロの空になったグラスに、2杯目のシャンパンを注ぎながら問いかける。
昨日から一週間、ミロは誕生日休暇に突入していた。誕生日休暇というのはアテナが君臨してから生まれた聖域の新たな風習で、シェスタのあるギリシャに本拠地を置くわりに、まるで日本人のごとく働きづめになりがちな聖闘士には好評だった。
実は、カノンはまだミロに秘密にしていたが、明日からの4日間に休暇をもぎとっていた。もちろん、ミロと一緒に過ごすためだ。
まだお付き合いをはじめて2ヶ月あまり。カノンに言わせればまだまだ恋人と離れていたくない時期だった。
こうして、自分がいなかったときに何をしていたのか尋ねるのも、ミロと一緒にいることのできなかった時間を自分なりの方法で埋めるためだ。残念ながら、頭で考えてしまうカノンはミロのように、恋人に無頓着な程の信頼を寄せられるほど人間が出来ていないこともあり、言葉で説明を受ける必要があるのだ。
もう日課になっているため、ミロは特に気にした様子もなく、今日あった出来事を順番に語った。
「お前が出て行ったあと、たまっていた洗濯ものを片付けた。布団も干したので寝心地は保障するぞ。その後、カミュから送られてきたプレゼントをアルデバランが持ってきたから開けて、通りがかったアイオリアと三人で世間話をした。最近は、青銅連中がめきめき実力をつけてきたから、白銀聖闘士たちも鍛錬に熱が入っているようだ。それから、ランチをムウのところで世話になった。ツァンパとモモが美味かったな。何故シャカもいたのかわからんが…まあ、そういう気分だったのだろう。ムウの料理に肉が使われているので文句を言っていた。長い付き合いだから悪いやつでないことは知っているのだが、やはりやつはよくわからん。きっちりデザートまで平らげて、ムウに、招待した覚えはないと嫌味を言われていたな。俺がとやかく言う資格はないが、それでもやつは変わっていると思う。帰り際に、心を新たに精進するよう諭された。午後は少し昼寝をしてから、双魚宮に顔を出した。そういえば、デスマスクとシュラに今日からの任務を肩代わりしてもらったのか?人に頭を下げるのが嫌いなお前にしては珍しいな。アフロディーテが何とも言えない表情をしていたぞ。」
合間に軽口の応酬を挟みながら、1時間半かけて、ミロはそのようなことを話した。
アフロディーテの何とも言えない表情は、カノンが薔薇を半ば脅し取った後だったからかもしれない。それとも、カノンの行動に、胸焼けしそうなほどのミロへの愛情を感じたためだろうか。
カノンは満更でもない笑みを浮かべると、テーブルの上に置かれたミロの手に己の手を重ねた。
「では、俺がいない間、お前は良い子にしていたんだな。」
視線はミロの目に固定したまま、存外美しい指を思わせぶりな態度で擦りながら尋ねると、ミロの睫毛がふるりと震えた。ミロはアルコールのせいばかりとはいえない赤い眦で、カノンを見つめ返した。
「当然だ。」
「それならば、褒美をやらなくてはな。」
カノンはうわ言のように呟き、二人を隔てるデザートの皿を脇に押し退けると、ミロの頬に手のひらを添えた。
今年の誕生日を、ミロはカノンの腕の中で迎えた。
当然、ミロの誕生日を締めくくるのもカノンの役割だ。
今日一緒に過ごせなかった分も、カノンはミロを快楽の高みへ誘ってやりたかった。それは、何も、肉体的な話だけではない。カノンはあの日から今日まで自分がされ続けているように、ミロを精神的にもこれ以上ない幸福のるつぼに突き落としてやりたかった。
カノンはミロの顎を上向かせると、身を乗り出して口づけをした。わずかに鼻から抜ける吐息を漏らして、ミロが甘く身を震わせる。
カノンはいくども角度を変え、ミロの唇を余すところなく楽しんだ。ミロの口内は、とっておきのシャンパンと、デザートに食べたカタラーナの仄かな甘みが残っていた。
頭の片隅で、カノンはまだ今夜の目的を覚えていたのだが、欲望が勝った。
カノンはミロから唇を離し、自分を眦の赤い目で名残惜しそうに見つめている恋人の唇を親指の腹でなぞると、余裕ぶった笑みを浮かべてみせた。ミロ相手では余裕などあった試しがないのだが、年長者の…というより男のつまらない意地だ。
カノンは席を蹴って立ち、一息に、ミロとの距離を詰めた。そうして、いまだ夢から醒めぬ様子で頬を上気させているミロの体を掬いあげ、内心の性急さとは裏腹に壊れモノを扱うような手つきで手近なソファへ横たえた。
暖色を帯びた灯りによるものか、カノンの欲目抜きにしても、このときのミロは暁の女神エオスさながらに輝いていた。
太陽を思わせる金色の髪に、陽光を弾いてきらめく水面の瞳、ギリシャ人らしく金色に焼けた肌。
ミロとその他の黄金聖闘士の一線を画するものは外見だけだ、とは言わない。実力は言うに及ばず、崇高な黄金聖闘士であろうとする意識は同僚の中でもずば抜けて高かった。しかし、ミロの黄金聖闘士然とした華美な外見が、人々の判断に影響を及ぼしているのは確実だった。
カノンは、女神との間に子を為した星空の神、アストライオスを気取るつもりはない。だが、このときばかりは、ミロのためアストライオスでありたいと願った。
カノンのエゴで脱がせるためだけに贈りつけたドレスの下、忙しなく上下する胸がミロの胸の内を伝えている。
カノンは耳の裏から首筋へキスの雨を降らせながら、ドレスの肩ひもをずらし、鎖骨と乳房の間に唇を落とした。仰向けになっているせいか、普段でもてのひらに裕に余るミロの胸はほとんどないに等しい状態だったが、それでも触れれば男のそれとは明らかに違う柔らかな感触に気分が高揚した。
もちろん、言うまでもなく、ミロはカノンの世界を照らす太陽、生きる指標、絶対無二のアンタレスだ。ミロの言葉ひとつ眼差しひとつでカノンの感情は千々に乱れ翻弄され続ける運命にあったので、単純に胸を触ったからテンションが上がったなどというせせこましい理由ではない。断じて違う。
カノンは、わずかに背を丸めたミロがいとおしげに髪を梳く感触に頬を緩めながら、慣れ親しんだ肌に唇で痕をつけていった。
キスをして、触れあい、抱き締める。
いつも同じ流れだというのに、いつもはっと胸を突かれるほどの真新しさを覚えるのは、相手がミロだからだろう。
カノンは改めてミロと肩を並べられる僥倖を噛み締めて味わいながら、ドレスの裾に左手を忍び込ませ、厳しい修行のせいで肉感に欠ける足をゆっくり撫で上げた。
ミロへの愛しさが募ったばかりに、脳内で組み立てていた計画が変更を余儀なくされたのはいつものことだった。あとから言い訳を思いつくのは、カノンの得意技である。
しかし、今日という特別な日を迎えるにあたってはあまりに不適切な計画変更だった。場所が、いつもの天蠍宮ではなく双児宮だということも失念していた。
「ミロ、すまない。待たせてしまっただろうか。」
勢い良く開かれた私的空間の入り口と、他愛なく闖入して来た台詞に、当然のことながらミロの体が硬直した。室内に漂っていた甘い雰囲気は霧散し、永久凍土さながらに冷え切った空気の支配するところとなった。
これではもう、恋人同士の甘い時間を楽しむどころではない。
カノンは忌々しさに舌打ちをこぼすと、状況が呑み込めず――あるいは呑み込みたくないのか――こちらを凝視して立ち尽くしている双子の兄を睨みつけた。
いつも残業続きで双児宮になどろくすっぽ帰って来ないというのに、なぜ、こんなときに限って教皇宮から降りてくるのか。
マジで意味がわからん。
タイミングを計ったような間の悪いサガの登場に、いっそ異次元空間に飛ばしてくれようかと心ないことをわりと本気で検討するカノンを無言で押し退けて、ミロが居住まいを正した。
気づまりな沈黙が落ちた。
今更、ミロとの関係を隠しきれるものでもないだろう。
もとより、カノンにはあまり隠す気がない。
復興の途上にある聖域でミロの体面を保つため関係を伏せているが、カノン的には、牽制の意味もこめて、愛する恋人との仲睦まじい様子を周囲に喧伝したくてたまらないのである。
カノンは縮こまるミロの肩に馴れ馴れしく腕を回し、あからさまに所有権を見せつけながら、サガに皮肉っぽい笑みを向けた。
「ずいぶん遅いお帰りだな、サガ。いっそ帰らないで、いつものように教皇宮に留まっていればよかったではないか。正直、邪魔だ。なぜ帰って来た。」
「任務帰りのデスマスクとシュラから、ここにミロがいるようだと聞いて飛んで来たのだ。」
あの野郎ども、いらん真似をしくさって。
わりと根に持つ傾向にあるカノンは、報復リストの長い列にデスマスクとシュラの名をつけ足した。鈍感で人の良いシュラが親切心からミロの所在を教えた可能性に対し、デスマスクは愉快犯の可能性が多分にある。カノンは明日にでも報復するつもりで、デスマスクを血祭り候補に挙げた。
ちなみに、サガがミロを目に入れても惜しくないほど出来愛しているのは周知の事実で、教皇に扮していたときも例年欠かさず誕生日を祝っていたことをカノン以外の黄金聖闘士全員が知っていた。
たまたまミロがこのことを失念していたのは、はじめて恋人と迎える誕生日に浮足立っていたからだ。それを知らされればカノンの溜飲も下がったかもしれないが、あいにく、ミロは固まっている。
眉間にしわを寄せてしかめ面をする弟を後目に、サガは視線を彷徨わせているミロへ慈愛に満ちた眼差しを向けた。
「今日はせっかくミロの誕生日だというのに祝いの言葉ひとつもやっていないからな。わざわざミロが双児宮で待っているのならば、待たせては悪いだろう。」
ここで、サガの理性はもろくも崩れ去った。サガはミロへの優しさを一転させ、憎悪に近しい苦々しさでカノンを睨みつけた。積年の恨みつらみの為せるわざである。
「だから早く帰ってきてみれば、カノンよ、お、お前は…!」
「ふざけるな。どうしてミロがお前の帰りをわざわざ待たねばならんのだ。空気を読め、早く消えろ、というかいっそ墓場に戻れ愚兄が!」
「お前、実の兄の向かって何という言葉を…!その上、いたいけなミロへの狼藉、許せるものではない!お前の方こそ海底の藻屑と消え去るが良い!」
互いに必殺技の構えを取り、今にも殺し合いを始めそうな二人の間に、さすがにミロが割って入った。ミロはなりふり構わない様子でサガとカノンの前に立ちはだかり、双子を交互に怒鳴りつけた。
「お前たちは実の兄弟で何をしている!平和な世界にせっかく五体満足で生きていることが出来るのだから、もっと仲良くしたらどうだ!」
「ミロ、良い子だから黙っていなさい。出来うればお前にも警戒してもらいたかったが…お前がお前である限り、それは望めないだろう。お前のように純真で魅力的なものを前にすれば、この悪が体現したような愚弟が惹かれるのは必然であった。予防策を張らなかった罪は私にある。これ以上お前がたぶらかされないうちに、不安要素は断絶しなければなるまい。」
血の繋がった弟相手にひどい言いようである。しかし、これがこの兄弟の常態だった。
カノンは腕を伸ばしミロの体を引き寄せると、背中から抱え込むように抱き締め、耳元で囁いた。
「サガの言うことにも一理ある。ミロ、お前は黙っていてくれ。」
「だが、」
「文句なら後でいくらでも聞いてやるから。」
言外に「寝室で」と匂わされたミロは耳を赤くし、顔を引きつらせたサガの様子に居たたまれなくなったのか素直に口を噤んだ。
一触即発の沈黙が漂う中、先に口火を切ったのはサガだった。
顔を白くし、こめかみに青筋を浮かべたサガは、カノンに抱き締められたミロが満更でもない態度で――しかも、これまで見たこともないような女らしい恰好でいる事実に気づくと、震える声で問いかけた。
「それで、カノンよ。お前はどうするつもりだ。純真無垢なミロを誑かした責任は取るのだろうな?」
「ふざけるな、別に誑かしたつもりはない。ミロは俺の想いに応えてくれただけだ。」
策を巡らせ甘言を弄し、それでも駄目ならばと土下座せんばかりに拝み倒したが、カノンにしてみれば、ミロを誑かしたつもりなど毛頭なかった。誑かすも何も、カノンは心の底からマジで本気なのだ。
大体、他人の悪意に無頓着な部分があるとはいえ、誰よりも直観力に長けたミロが口先だけの虚言に踊らされるものか。
睨みつけるカノンの言葉をサガは切って捨てた。
「お前の真意などどうでも良い。ただ、遺憾ながら、お前がミロとこのような不埒な関係になったことはもはや覆しようのない事実なのだ。それは致し方あるまい、私も承服しよう。問題は、お前がミロをこの先どうするかだ。」
一瞬、腕の中のミロが身じろぎした。心根の優しい恋人は、カノンが言われるがままになっていることを良しとせず、サガに反論しようとしたに違いなかった。
それがわかるからこそ、カノンは先手を打ち、ミロを抱き締める力を強めた。
「仮面をつけていないとはいえ、――アテナが聖域に戻られ仮面の掟がなくなったとはいえど、ミロが女聖闘士である事実は変わらん。お前はミロと生涯添い遂げる覚悟が出来ているのだろうな。さもなければアテナの国の闘士を見習い腹かっ捌いて死ぬが良い。いや、このサガが直々に始末をつけてくれよう。そこに直れ。」
カノンに覚悟を問い質しながらもすでに自らの中で結論を下し、殺害する気満々のサガは無情の一言に尽きたが、この双子のやり取りにおいてはわりと通常運転だった。
カノンはまたも口を開こうとしたミロを強く抱きしめて黙らせると、サガに噛みついた。
「お前がどうほざこうと、俺たちが相思相愛なのは、お前が言うようにもはや覆しようのない事実だ。」
相思相愛、実に良い響きである。
このときばかりは、ミロへサプライズを送って驚かせたい気持ちより、サガへサプライズをぶつけて傷つけたい気持ちの方が強かった。
自分の言葉に勇気づけられたカノンは、まだ納得しかねる様子のサガへせいぜい報復をしてやろうと爆弾を投下した。
「大体、お前さえ邪魔に入らなければ、今ごろ俺はミロにプロポーズをしているところだったのだ。それを邪魔しておきながら何だその勝手な言動は。お前の方こそもう一度自決して来い!ミロ、お前もこの残念な男に何か言ってやれ。」
返事がない。
いぶかしんだカノンが目を向けると、目を丸くしたミロがあんぐりと口を開けてこちらを見ていた。
「…カノン、その話は俺も初耳なのだが、本当なのか?」
真偽を疑われるとは、カノンが思っていた以上に信用がないのだろうか。サガへの意地の張り合いから出た言葉だと思ったのかもしれない。
傷ついたカノンは内心渋面を浮かべたが、表面上は、それとは裏腹の強気な笑みでミロに言い聞かせた。
うっかり欲望に流され本来の目的を見失いかけたが、もともとミロにプロポーズするつもりで今日のディナーを画策したのだ。失敗するつもりなどもちろんなかった。
「今までこのカノンが、お前に嘘を吐いたことがあったか?ほら、指を貸せ。指輪をはめてやる。俺とお前とを結ぶ、蠍の心臓だ。」
そう言って細く美しい指を取り上げ、左手の薬指にハートを模ったピジョンブラッドのゴールドリングをはめて恭しくリングに唇を押しつけると、ぱっとミロの顔が赤らんだ。
ミロは動揺もあらわにカノンとリングを見比べ、それから、土気色の顔でまんじりともせず棒立ちになっているサガへ視線を向けた。憂慮のせいで沈んだ冬空を思わせる灰青色になっていた瞳は、今や、燦々と太陽の光を受けて輝く夏空の青に変化していた。
サガさえいなければ、カノンは嬉しさのあまりミロを高く抱きあげ、キスの雨を降らせながらその場をくるくる回ったことだろう。
それくらい、劇的な変化だった。
「サガ、俺…、」
ミロは僅かに言い淀むと、サガへ向かって深々と頭を下げた。
「これまでお世話になりました。」
言うまでもなく、これはトドメの一撃だった。
ミロが聖域にやって来てからというもの父親役に徹してきたサガは、思いがけないミロの嫁入りに、顔をきれいな青緑色にして倒れた。
「…サガは大丈夫だろうか?」
ミロが呟いたのは、双児宮入口でのことだった。
本来ならば、プロポーズの直後ということもあり甘い展開が待っていたのだろうが、ミロが倒れたサガを介抱すると言って聞かないため、仕方なしに帰すところなのである。
プロポーズさえうまくいけばいつも以上に乱れるミロを見ることが出来る、とうきうきしていたカノンにすればクソのような展開だが、欲望に流され、場所を弁えず事に及ぼうとし、サガに邪魔された責任の大半は自分にあった。
そのため、カノンは悪態を吐くことも出来ず、肩を竦めてみせた。
「あれくらいでくたばるようなやつだったら、俺も苦労していない。」
溜め息をこぼすカノンの頬に手を当てて、ミロが嗜めた。
「カノン、サガはお前の血の繋がった兄だろう。あまりひどいことは言うな。俺も、これから義兄になる人との間に無用な軋轢は生じさせたくない。」
「ミロ…、」
「これから、俺たちは家族になるのだな。」
夫婦ではなく家族という、当然のようにサガも頭数に含まれている表現が少し気にくわない気もするが、ミロらしいと言えばこの上なくミロらしかった。
カノンはミロを抱き締め、前髪を掻き分けると、おやすみのキスを額に施した。
ミロが傍にいてくれる未来さえ確保出来るのであれば、手段は問わない主義である。愛するミロを未亡人にするのは忍びないので自爆は勘弁願いたいが、策を巡らせ甘言を弄し、それでも駄目ならばと土下座して拝み倒すことも厭わない。捨て身が売りのカノンである。
「幸せになろう。」
別れ際、熱っぽく囁くと、わずかに眉をひそめたミロが黄金聖闘士らしい傲岸とした態度で言い放った。
「当たり前だ。お前のことは一生涯かけて、このミロが幸せにしてやる。」
あまりにさも当然のように言われたので、カノンは一瞬言葉につまってから、声に出して笑ってしまった。
確かに、当然だった。ミロがいてくれるのだから、幸せになれないわけがない。
カノンは笑い声をあげながら、堪え切れずに、不可解そうに眉根を寄せてこちらを見ているミロを抱き締めたのだった。
初掲載 2013年3月6日〜17日