GUNMAからの帰還後、カノンとミロの距離はおぼつかなくなった。
それまでは、カノンが意図してミロと微妙な距離を置いていたのだが、ミロが一足飛びにその距離を飛び越えて来て、今に至る。
仲良く並んでテレビを見ていると髪を引かれ、何をと思う間もなく、唇が重ねられていた。デザートのブラウニーの味がするキスだった。
ミロの戯れは前触れなしに始まることが多く、そのたびに、カノンの鼻孔はちくちく痛む。ミロとのキスが終わった後、あくまでしれっとして早足でダイニングへ向かうと鼻血が垂れて来て絶望することもあった。
ミロがイケメンすぎるのが悪い。何なんだあの色気は。
このような関係になったことで、蠍がふいに魅せる鮮烈な色が毒より痛烈なことを思い知ったカノンであった。
どうにかして生理現象を制御しようと日々イメージトレーニングに励んではいるのだが、今のところ、効果のほどはない。
今日もキスを耐え忍べば、テレビ鑑賞を続行してお開きになる。
かと思いきや、唾液の糸を引いて唇を離したミロからこぼれ落ちた言葉は、カノンの想像のはるか上を行くものだった。
「カノン、ベッドに行かないか?」
ミロがカノンのものを思わしげになぞり、低く笑った。
「抱かせてやる。」
抱かせろ、と言われてもおかしくない状況で降ってわいた台詞に、カノンはどう対処して良いものかわからなかった。
「い、良いのか。」
「俺から求めたのだから、俺が譲歩するのは当然のことだろう。」
清々しい台詞である。
ミロに片想いを寄せていた時分でさえも、抱くつもりはあっても抱かれるつもりなど毛頭なかったカノンにしてみれば、いささか耳に痛い台詞でもあった。
が、それ以前に、あんなことやこんなことをして、自分のキーゼルバッハの毛細血管が耐えきれるか大いに不安だ。というか、明らかに、心もとない。
しかも、この分だと、ミロはかなりサービスしてくれそうだ。そんなことやあんなことをされたら、確実に、カノンの鼻孔が崩壊する。
ミロの誘いを受けるべきか否か、真剣に思い悩むカノンの眼前で、ミロはいぶかしむように小首を傾げた。
「何だ。お前は俺を抱きたくないのか?その気がないなら諦めるが…。」
寂しそうだ。手慰みに弄ばれるソファクッションと落とされた視線が、ミロの内心の自信のなさをあらわしているようで、カノンの胸は痛くなった。
ここまで言わせておいて何もしないなど、男ではない。
カノンは腹を決めると、ミロの身体を抱き上げた。
「カノン、愛している。」
ミロがカノンの首に腕を絡め、頬をすり寄せてくる。
生まれて初めて、カノンは自分の無為だった生に意味を見出した。これまでの辛苦も不敬も何もかも、ミロと出会い、愛し愛されるためだったのだ。
「俺もお前のことを愛している、ミロ。世界中の誰よりもお前のことが愛しくてたまらない。」
熱っぽく囁くカノンに、腕の中のミロが嬉しそうに笑声を漏らした。
そのとき、カノンに自覚はなかったが、すでに鼻孔は限界を迎えていた。
「…カノン。」
ふいに呼ばれ顔を向けると、ミロが目を丸くしてカノンを見つめていた。
「鼻血が出ている。」
「」
穴があったら、突っ込む前に埋まりたかった。
不安げに眉根を寄せたミロが問いかけてくる。
「…どこか悪いのか?大丈夫なのか?」
「だ、大丈夫だ問題ない。」
「それならば良いが。」
しかし、一度決壊した鼻孔が、寝室に辿り着いてからといって修復されるはずもなく、困った様子でなにくれとなく世話を焼いてくれるミロを前に、カノンは心から死にたくなった。
なぜ、初めての夜に、自分は両鼻にテッシュを目いっぱい詰め込んでいるのだろう。
「本当に大丈夫なのか?」
「本当に大丈夫だ。心配させてすまないな。」
何度繰り返されたかわからない念押しだったが、今回は意味合いが違ったらしい。ミロはカノンの返事に気を良くして頬を緩めると、勢いよくカノンをベッドに押し倒した。
「血を見ていたら…、」
ミロの指先がついとカノンの顎を持ち上げた。どぎまぎするカノンに、ミロはいつもの調子であっけらかんと話した。
「何だか欲情してきてしまった。」
嫣然と笑うミロに見惚れている間に、蠍の審判はくだっていた。
翌日、出仕を終えて戻って来たサガは双児宮の惨状に言葉を失った。
床一面にこぼれる点は、血だろう。
一体何事があったのか、もしや襲撃でも受けたのか、と勢い込んで流血の続く寝室へ駆けこめば、至るところ血だらけという、リビング以上の惨状が待ち受けていた。
「な、何があったのだ?!カノン、無事か!」
「…無事じゃない。」
芋虫のように布団にまるまったカノンが、億劫そうに答えた。鼻にテッシュを詰め込んでいるため、不明瞭な鼻声である。
実際、確実にサガが憂慮している意味ではないと思うが、本当にカノンは無事ではなかった。貧血以上に、しこたま精を絞り取られたせいで体力がやばかった。
まあ、なんだかんだ言っても、幸せな「無事じゃない」である。
今から1時間前、ミロは出仕が控えているからといって天蠍宮に帰っていた。夜通しあんな痴態を晒し、蠍座の情の深さを見せつけたくせに、実にミロらしいあっさりした引き際で、意識の切り替えがうまくないカノンは少し寂しくなった。
そんなカノンの胸中を汲んだのか、ミロは背伸びをしてカノンの頬にキスすると、にっこり笑った。
「たまにはお前が来い。歓迎するぞ。」
半ば無理矢理握らされたものがわからず、視線で問えば、屈託なく言う。
「天蠍宮の鍵だ。ここではサガに気兼ねすることもあるだろう。越してきたらどうだ。」
そのとき、カノンは有頂天のあまりミロに再戦を挑みたくなったのだが、ミロは笑いながらも断固とした意志でカノンの体を押し退けると、去っていった。
アテナ第一主義なのがたまに面白くないが、実に、良くできた嫁である。
カノンは自分が、同性婚の認められたギリシャに生を受けたことを心から喜んだ。幸運にも今日は休暇だし、役所に行って結婚届けでももらってこよう。
幸せすぎて死んでしまいそうだ。
「一体、何ものに襲われたのだ!カノン、答えろ!」
サガに強く身を揺すぶられてなお、カノンがにやけ面を崩さなかったので、これは洗脳もされたのではないかと危惧したサガによりひと騒動起こるのだが、それはまた別の話である。
初掲載 2013年3月3日